その1
四方を海に囲まれ、東西約640デンド(一デンドはおよそ5km)、南北約800デンドの広大な面積を有する大陸シラツア。
かつてこの大陸には高度な文明が栄え、五億人を超える人々が暮らしていたが、300年ほど前に起きた大災厄によって、それらの多くは失われてしまった。
魔力の暴走がもたらした異常現象によって大陸の大部分は荒廃し、とても人の住める環境ではなくなった。
災厄の影響を免れたのは、当時、辺境とみなされていた大陸南部地域のみであり、未曽有の危機を生き延びたごくわずかな人々は、その地で文明の再建に乗り出した。
とはいえ、失われた物はあまりにも大きく、なかでも当時隆盛を極めた魔法技術は先史文明と共に滅びたといってよい。
「魔法の源である真素を制御することで、無から有を生み出し、死すら超越した」という先人たちの叡智を取り戻すことは、もはや不可能であった。
だがそれでも、人々のたゆまぬ努力が実り、新暦245年現在、大陸南部地域には7つの国と12の独立都市が存在し、かつての栄華には遠く及ばないまでも、人々は平穏で文化的な暮らしを営んでいた。
独立都市の中で最も賑わいを見せているのは、「眠らない都市」の名で呼ばれるハデルである。
王や貴族がおらず市民の代表によって運営されるこの都市は、外周約3.2デンド、周辺の村を含む住民の人口はおよそ7万人。
2つの大街道が十字に交差する場所にあることから、交通および商業の要所として早くから栄えてきた。
都市を貫く街道を伝い、穀物や果実、家畜に嗜好品、武器など、様々な商品がここに集まり、東から西へ、あるいは北から南へと流れていく。
物が集まれば人が集まるのが道理で、定住の市民だけでなく、商品目当ての行商人や仕事を求める人夫、雑技を売りにする遊歴芸人、荒事に長けた傭兵、一攫千金を夢見る遺跡探索人など、種々雑多な人々でつねに賑わっていた。
当然、そうした人々を取りこもうと、市門付近を中心に旅人向けの宿屋や酒場が軒を連ね、さらに娼館や賭博場、剣闘士競技といった娯楽施設も充実、地上のあらゆる娯楽が堪能できる歓楽地としても知られる。
太陽の日差しが心地よい5月の昼下がり。
ハデルの一角、職人の工房や職人相手の商店が立ち並ぶ通りを一人の少女が歩いている。
裾が足元まで届く灰色のローブと、その上に羽織った同じく灰色のマントは、神に仕える聖職者の旅装であり、胸元には豊沃を司る女神エフェナの聖印が揺れている。
少女は周囲の地理に不案内らしく、店先に掲げられた看板を見ては手元の紙片に視線を戻している。
往来の賑やかな場所のため通行人への注意も怠れない。メモと看板と周囲をせわしなく見比べながら歩く少女の姿は、すれ違う人々の関心を引いた。
彼女が注目を集める理由は、その外見にあった。
幼さの抜け切らない顔立ちや、周りの通行人と比べはるかに低い背丈は、どう見ても子供のそれであり、そのあどけない様子が、神官衣の醸し出す厳粛な雰囲気と不釣り合いに見えるのだ。
肩の辺りで切りそろえられた金髪、大きめの青い瞳に、薄く赤みのさした唇など、全体に整った容貌には将来性を期待させるものもあったが、今はまだ幼さの印象が上回っている。
やがて少女は、とある店の看板に目を止めた。店の戸口に駆け寄ると、通行人たちの興味深げな視線を背に受けながら、改めて紙片と看板を見比べる。
職種ごとに形状の異なる看板には、中央に大きく「サリスの錬素具屋」と刻印されていた。
錬素具とは真素を動力とする道具の総称である。
先史文明時代、武器や乗り物、日用雑貨など、その用途に合わせて様々な形の物が生み出されたが、先史文明の崩壊と共にその製法技術も絶えてしまった。
遺跡から発掘された物を元に研究が進められているが、今の知識では解明できない技術が多く、未だ構造の簡素な物を複製するのがやっとである。そのため、珍しい錬素具は高値で売買され、遺跡探索人の中には、金銀財宝ではなく錬素具を専門に捜す者もいる。
錬素具屋では、そうした発掘品の鑑定や売買、さらに使いこまれた錬素具の調整なども行なっている。
目的の店を見つけた少女は、一瞬、安堵の表情を浮かべるが、すぐに緊張した面持ちになり、なかなか中へ入ろうとしない。
なにか不安なことでもあるのか、おそるおそる扉に手を伸ばしても、すぐに引っこめてしまう。
そうした行為をしばらく続けたあと、少女もついに決心したのか、二、三度大きく深呼吸すると、わずかに震える手を扉にそえ、そのままゆっくりと前に押し出した。
厚い木製の扉は、わずかな重さを感じさせながらもなめらかに開かれ、同時に呼び鈴の軽やかな音が店内に響いた。
「あ……」
店内の光景を見た途端、少女の口から感嘆の声がこぼれた。幅五歩、奥行き十歩程度の店内は様々な錬素具で満たされていた。
数本の管が飛び出た木箱、紙よりも薄く透明な素材でできた水差し、精巧なボートの模型、描かれた絵が動いている額縁など、これまで見たこともない不思議な道具が、部屋の中央の大きな台と壁際に設えられた棚に所狭しと並べられている。
目に映る物すべてが珍しく、まるで玩具箱の中に入ったようだ。少女はついさきほどまでの不安を忘れ部屋中の錬素具を眺め回した。
「いらっしゃい」
店の奥から呼びかける女性の声が少女を現実へと引き戻す。再び緊張に顔をこわばらせた少女が声のした方へ向き直ると、扉と正反対の位置にあるカウンター越しに声の主がいた。
「貴方がカテリヤさんね? ウィストンから話は聞いてるわ」
カテリヤと呼ばれた少女は、相手の姿を確認して戸惑った。
昨日、傭兵ギルドの長であるウィストンからこの店を紹介された際、彼は、店の主を「ギルドでも腕利きの人物」と評していた。ところが、目の前にいる少女は、カテリヤとさして変わらない年頃に見える。
(この方がサリスさん? けれど、長く傭兵のお仕事をされているお歳にはとても見えないし……。あ、職人とおっしゃってたから、そのお弟子さんかしら?)
カテリヤはハデル近郊の修道院で育ったため、街に知り合いはいない。傭兵ギルドのウィストンと知り合ったのも、つい先日のことだ。
だが、彼の誠実な人柄については、事前に修道院の修道院長から伝え聞いており、カテリヤも全幅の信頼を寄せている。
そんなウィストンが「腕利き」と太鼓判を押すほどの相手だから、てっきり彼と同世代の人物であろうと想像していたのだ。
困惑したカテリヤが胸中で自問自答を繰り返す間に、カウンターにいた少女は、カテリヤの前に歩み寄り右手を差し出した。
「傭兵ギルドのサリスです。見ての通りエルフだけど、ここで二十年以上暮らしているから、人間族の習慣にも慣れているつもりよ。よろしくね」
「……あ、はい、カテリヤです、こちらこそよろしくお願いします……」
まだ混乱の収まらないカテリヤは、差し出された手を機械的に握り返しながら、改めて相手の容姿を確認する。
背丈はカテリヤより少し高いくらいで、手足は子鹿のように細く長い。草木染めの胴衣を着て、腰に締める帯は同じ色合いだがやや淡い。
サリスに言われるまで気づかなかったが、彼女は人間ではなかった。
肌の色は透き通るほどに白く、首の後ろで束ねられた長い髪や自分を見つめる瞳の色は緑色、そして先が細く尖った耳。それらはカテリヤが伝え聞くエルフの特徴と一致する。
300年前の大災厄を境に、人間族と妖精族の間では共存共生の盟約が結ばれたが、妖精族は自然に囲まれた生活を好むため、人工物で埋めつくされた人間族の街で暮らす者は珍しい。
そんな妖精族が多く見られるのも、交易が盛んなハデルならではの光景といえる。街ではエルフだけでなく、山岳を故郷とするドワーフ、湖や海に生きるニンフなどの姿も見られる。
郊外の修道院で育ったカテリヤにとって、エルフと間近で言葉を交わすのは、生まれて初めての経験であった。