その1
円形競技場の地下は、選手控室のほかに各種の舞台装置や動物用の檻などがあり、かなり入り組んだ構造をしている。カテリヤは、地下階に降りたあたりでまとわりつくような空気の重さを感じた。
淀んだ空気がなんとも言えない臭いに満ちている。異臭の原因になっているのは、闘士たちが流す血や汗に加え、機械油や獣の糞尿の臭いなどで、アリーナの真下あたりが発生源になっていた。
通路を進む2人の耳には、忙しそうに行き来する人たちの喧騒に混じって、傷ついた闘士のうめき声や腹をすかした動物の唸り声なども入ってくる。
幸いエイシャの控え室は、異臭の発生源から離れた位置にあった。
途中通り過ぎた一般闘士用の大部屋と異なり、エイシャには専用の個室が与えられていて、木製の扉には磨かれた金属の板に彼女の名前が刻まれていた。サリスが扉を叩くと、中から明るい声が返ってきた。
「はいはーい、入って入って」
サリスに続いて控え室に入ったカテリヤは、予想よりはるかに快適な室内の様子に驚いた。
正方形の部屋は、天井が高く、軽い運動ができるほどの広さがあり、扉近くの壁際には、衣装や武器を入れる棚、身繕いを整えるための鏡台、簡単な書物をするための机と椅子、休憩用の長椅子などが綺麗に並べられていた。
部屋の中央には、試合後の診察やマッサージに使うための寝台が置かれ、今まさにその上で、部屋の主が医師の問診を受けていた。
「ごめんね。すぐ終わるから、もうちょっと待ってて?」
すでに湯浴みを済ませて、さっぱりした様子のエイシャが、サリスとカテリヤに声をかける。洗いたての長い髪は試合のときと同じように結い上げられ、ゆったりとした半袖の長衣に着替えていた。
長衣のすそはくるぶしに届くほどの長さだが、体の側面にそうように、ももの高さまで届く深い切れこみが入っている。装身具の類はほとんどつけておらず、髪を束ねる銀色の髪飾りくらいだ。
「カテリヤさん、こっちに座ってよ?」
サリスと並んで長椅子に座ったカテリヤは、問診を再開した医師とエイシャのやりとりを横目に、改めて室内を見渡した。
エイシャの個室は、どうやら競技場の外郭部分に位置するらしく、入口から見て正面の壁には窓がつけられていた。
壁の外は部屋の床位置まで掘り下げられたドライエリアになっていて、外から吹きこむ心地良い風が地階にあふれる異臭から部屋を守っている。
室内には入口とは別の扉があり、サリスの説明によると、そちらはエイシャ専用の浴室になっているという。
広さといい調度品といい、上等な宿屋の客室と比べても遜色のない作りで、カテリヤの寝泊まりしている屋根裏部屋よりも住みやすく思われた。
「今、ハデルには何百人もの剣闘士がいるけど、これだけの待遇を与えられているのはほんのひと握り」
興味深く室内を眺めているカテリヤにサリスがささやく。
「人気者の闘士が出場すれば観客が喜ぶ。観客がたくさん集まれば主催者も喜ぶ。破格の好待遇は、実力と人気を兼ね備えた花形闘士の特権ってわけ」
勝者はすべてを得て、敗者はすべてを失う。
それが剣闘士競技の鉄則であり、カテリヤがいるこの部屋こそ、名声と大金を獲得した勝者の証にして、多くの剣闘士たちの憧がれの場所といえた。
やがてエイシャの診断を終えた医師が退出し、部屋に残るのはサリスたち3人だけとなった。そこで改めてサリスが仲立ちとなり、それぞれの紹介を行った。
「エイシャでーす、よろしくね!」
無遠慮に伸ばされたエイシャの大きな手が、カテリヤの頭を親しげになでる。
「カテリヤちゃん、13歳だっけ? 姉さんから聞いてたとおりだ、カワイイな~」
「コラッ、失礼でしょう。いつも言っているでしょ? 依頼人の前ではきちんとしなさいって」
他人に警戒心を抱かせない人当たりの良さはエイシャの長所であり、今回、彼女を同行させる理由のひとつであった。とはいえ、さすがにとがめないわけにはいかない。
「うはっ、ごめんごめん、姉さん!」
並の男性より背の高いエイシャが、子供ほどの背丈のサリスに叱られ身をすくませている構図は、微笑ましくもどこか奇妙な光景であった。しばし呆気にとられていたカテリヤは、我に返って慌ててとりなす。
「あ、あの、私は構いませんので。どうか、お気遣いなく普段通りでお話しください」
「ほらほら、姉さん、本人もイイって言ってるし。ね? ね?」
これ幸いとエイシャがカテリヤの出した助け舟に乗っかる。
「まったく、もう……。ケジメはつけなければダメよ? ほどほどに!」
「はーい」
エイシャの素早い反応に苦笑を受かべつつ、サリスは明日以降の予定について説明する。といっても最終確認以上の意味はない。
「明日は午前中に街を出ましょう。早朝だと市門のあたりが混雑しているし、そんなに急ぎの旅でもないからね。順調にいけば目的地の遺跡までは2日。現地での探索は、とりあえず2、3日やってみて、ってところかな。なにか質問ある?」
サリスの問いかけに、いきおいよくエイシャの手が挙がる。
「はいはい! 行くのはコレで全員? ルナはダメだったの?」
「残念ながらね。今かかってる仕事があって、出発には間に合いそうにないのよ。まぁ、そんなに大きな遺跡でもないし、私ひとりでもなんとかなると思うわ」
この言葉は嘘ではないが、事実のすべてではない。
本格的に遺跡の探索を行うのであれば、専門家がひとりというのは心もとない。先史文明の遺跡にはたいてい侵入者撃退用の罠が仕掛けられていて、全体を見て回るだけでも相当の手間と時間がかかる。
ほかにも、発掘した物品の鑑定をしたり、地形を測量して地図を作成したりと、やるべきことが山積みで人手は多いほどいい。
それが分かった上でこの人数で行くとサリスが決めたのは、報酬の問題以前に、遺跡で宝探しをする気などないからだ。
ケドラスが目星をつけていた遺跡は、先史時代の書物にすら「所有者不明」と記される廃墟で、長い年月、多くの人の目にさらされてきた。なぜケドラスがそんな場所を探索する気になったのかは不明だが、今さら新しい発見があるとは思えない。
依頼主であるカテリヤの意思を尊重して、形ばかりの探索を行うにとどめ、カテリヤの借金の返済方法については改めて考えるつもりだ。
そのあたりの事情は昨日のうちにエイシャにも伝えてある。
サリスがルナリアの家を訪れたのはエイシャに会ったあとのため、ルナリアの事情についてはエイシャも今初めて知ったが、人手に関するやりとりはカテリヤに聞かせるためのものであった。
「ほかに不明な点は無い? まぁ、なにか分からないことがあったら、そのつど聞いてくれていいからね」
これでこの日の用事は済んだ。エイシャが退室のために手荷物の整理を始めると、それを見ていたサリスが、ふと思い出したように声をかける。
「今日はウチに泊まるんでしょ? どうする? いったん寮に戻る? それとも直接来る?」
「う~ん、どうしようかなぁ。直接行くつもりだったけど、衣装とかあるからなぁ……」
棚から取り出した実戦用の装備を身につけながらエイシャが答える。
胴衣の上から厚手のダブレットを着こみ、さらにその上から、鎖帷子に板金を打ちつけた胸当てをつける。競技で使っていた衣装とは違い、飾り気は一切なく、頑丈さが売りの実用品であった。
その後、ひざ上まで来る革の長靴に鉄製のすね当て、二の腕まで覆う革の長手袋に鉄製の手甲をつけていく。
全身を鉄の防具で固めた姿は見るからに重そうあったが、サリスに手伝われながら身繕いを整えていくエイシャの動作からは、まるでそんな様子は感じられない。
剣闘士として成功を納めた今も、エイシャは養成所の寮で暮らしていた。契約上の理由から行動に制限を受けているほかの剣闘士たちと違い、町中に自宅を購入することもできるが、本人にそのつもりは無いようだ。
「やっぱり一度戻って洗濯に出しておこうかなぁ……。あ、そうだ、ねぇ、リヤ」
「え? は、はい? わ、私ですか? なんでしょう?」
親しい相手の名前を省略するのはエイシャの癖であった。本人は親愛の証のつもりのようだが、相手に断りなく使い始めるので、最初は誰もが驚かされる。
「せっかくだからどう?。今住んでいるトコ、9区なんでしょ? だったら姉さん家のほうが市門に近いじゃん。待ち合わせする手間も省けるしさ」
「え? いえ、でも、そんなご迷惑を……」
「確かにそうね。あの辺は、早朝に女の子がひとりで出歩くには、ちょっと物騒だしね」
カテリヤが辞退するより先に、サリスがエイシャの提案に賛同する。
「無理にとは言わないけれど、あなたさえよければウチに泊まらない? たいしたおもてなしもできないけど、部屋は空いているからゆっくり休めると思うの」
「……本当に、お邪魔ではありませんか?」
「ううん、ぜんぜん。小うるさい同居人がいるけど、それで構わなければ、ぜひ泊まって」
「そうですか。では、お言葉に甘えさせていただきます」
「よっし、決まり~。じゃあ、アタシ、寮に荷物置いてくるから先に行ってて!」
着替えを終えたエイシャが手荷物を抱えて、勢いよく部屋から出て行こうとする。と、カテリヤもその後を追うように慌てて立ち上がる。
「あ、すみません。私も一度、荷物を取りに戻ります。外泊することを家主のお2人に伝えないといけませんし」
「お、じゃあ、いっしょに行こう! アタシもリヤの部屋を見てみたいし!」
「ちゃんと失礼のないようにするのよ?」
「わかってまーす」
そろって控え室を出た3人は、いったん二手に分かれ円形競技場を後にした。




