20 魔王
梅雨も終わり、七月に入った。少しずつ気温も上がっている。修司が働くのは夜なのでそれほど気にはならないが、メルには新しい服を用意しなければならない。
アイリスも誘ってどこかに行こうか、とそんなことを考えながら施設への道を急ぐ。今は早朝、仕事帰りだ。人通りは少ない。
だからこそ、それにすぐに気が付いた。
公園のベンチに座っている男が、じっとこちらを見つめていた。男には珍しい長い黒髪で、真っ黒なスーツを着ている。ベンチに座っていても分かるほどに長身だ。
その男は修司を、値踏みするかのような瞳で見つめていた。思わず振り返り、他に誰かいないか確認してみる。やはり、誰もいない。
もう一度男に視線を戻すと、男はコンビニのおにぎりを頬張っていた。
「気のせい、かな……?」
もしかしたら、目が悪くて、そういった目つきになっていただけかもしれない。過敏になりすぎかな、と微苦笑しつつ、家路を急ぐ。
だから、その男がまたも修司を見つめていることに、気がつけなかった。
・・・・・
いつもの喫茶店での時間を過ごし、メルを施設に送り届けてから、アイリスは自宅への道を歩いていた。ここでの暮らしも慣れてきて、それなりに楽しくなってきた。メルや修司とも親睦を深められているし、順調だと思う。残念ながらアイリスと一緒に帰ってくれる気にはなってくれないが、もうこのままでもいいような気がしてきた。
あちらに戻って、それがメルにとって幸せなのか、分からない。利用しようとする者が多くいるあの世界よりも、愛し子ではなくメル自身を温かく迎えてくれているこの世界にいる方が、あの子にとっては幸せかもしれない。
だから、もうこのままでもいいのでは。アイリスもこの世界の方が美味しいものが多いので、この世界に残ることに否はない。むしろ大歓迎だ。どんとこい。
今日のケーキも美味しかったな、と思い出しながら、帰りに通る公園に足を踏み入れて。
「……っ!」
ようやく、気が付いた。人が誰もいなくなっていることに。
「人払いの結界……。平和ぼけした」
自嘲気味に笑いながら、唯一残る男に視線を向ける。黒い長髪に同色のスーツの男だ。男はアイリスを認めると、ゆっくりと立ち上がった。
「待っていたぞ、勇者」
「ん……。会いたくなかった。魔王」
魔法で人の姿にはなっているが、魔力の質からして間違い無い。魔族たちを統べる王、魔王その人だ。
さて、困ったことになった。アイリスは内心で冷や汗をかく。魔王が、この世界に対して配慮するとは思えない。今でこそ愛し子を刺激しないようにするためだろう、人の姿を取っているが、すぐさま元の姿に戻ってこの町を破壊し尽くさんとしてもおかしくはない。
無論アイリスも、黙って見ているつもりはない。魔王がその気になるのなら、アイリスも全身全霊をとしてこの世界を、愛し子が住むこの町を守るつもりだ。
だが、問題がある。今のアイリスでは、この魔王には勝つことができない、ということだ。
そしてそれは、魔王も気づいている。
「愚かなことをしたな、勇者」
魔王の言葉に、アイリスは何も答えない。
「この世界に来るのを急ぐ余り、儀式を疎かにしたな?」
アイリスは、何も言わずに、ただ魔王を睨み付ける。
この世界に来るためには、相応の儀式と神への祈りが必要となる。その祈りに時間をかければかけるほど、この世界でも扱える力が強くなる。神に愛されたメルには必要のない儀式だが、他の者にとっては、聖剣に選ばれた勇者ですら例外なく、必須の儀式だ。
アイリスは、その儀式を最低限に簡略化させた。力や魔力よりも、この世界での地盤固めや愛し子との関係構築を優先させたためだ。
対する魔王は、力を優先させた。地盤固めも関係構築もするつもりがなく、愛し子を無理矢理連れ去るつもりでいるのかもしれない。
今の魔王の全力が百だとすれば、アイリスは三十の力を使えるかどうかというところだ。勝ち目がない、どころか抵抗することすら難しいかもしれない。
だが、何も、急に戦闘になるとも限らない。そう思ってまずは言葉を交わそうと思ったのだが、
「まさに好機、というものだな。貴様が弱体化しているなら、貴様を殺してからゆっくりと愛し子を連れて帰るとしよう」
思わずアイリスは舌打ちをする。本当に、何もかも、うまくいかない。こんなことなら、自分も力を優先して儀式をすれば良かった。
そう思いかけたところで、ふと、修司とメルの顔が思い浮かんだ。屈託のない笑顔。勇者であることなど気にしない、友人に接するそれ。
ふ、と。アイリスは微笑を漏らす。怪訝そうに眉をひそめる魔王へと、勇者は言った。
「できるものなら、やってみろ。あの子たちに手出しはさせない」
「…………。ふは。ふはははは! いい度胸だ!」
魔王の魔力がふくれあがる。今のアイリスとは比較にもならないそれに、けれどアイリスは恐怖など感じず、獰猛な笑みを浮かべた。
勝てる見込みはない。それでも、ここで死んだとしても。ああ、本望だとも。
世界や国という曖昧なものではなく、友人という明確なもののために戦える。それだけで十分だ。
だが魔王は、そして勇者も、愛し子というものを理解しきれていなかった。
神に愛されているということが、どういうことかを。
・・・・・
「おとうさん!」
目覚めは、メルの叫び声だった。かつてないほど切迫したその声に、修司の意識は一気に覚醒した。体を起こし、メルを抱きしめる。周囲に視線を走らせ、危険がないことを確認して、メルへと視線をやる。メルは真剣な表情でこちらを見つめていた。
「おはよう、メル。どうした?」
「一緒に来て。いますぐに。おねえちゃんが、危ないの!」
修司と二人きりの時、メルがおねえちゃんと呼ぶ相手はアイリスだけだ。施設の年上の子は例外なく名前もつける。
アイリスは、修司よりもずっと強い。アイリス曰く、例え通り魔に襲われても纏ってる魔力が守ってくれる、とのことだった。そのアイリスが危ないと言われても、いまいちぴんとこない。
だが、メルの表情は本物だ。冗談の類いではないとすぐに分かる。
「分かった。場所は分かる?」
「うん!」
寝間着に使っているジャージのまま、メルと一緒に部屋を飛び出す。驚く子供たちに、ちょっと急用で出かけてくると告げて、そのまま施設を後にする。
正直なところ、本当にアイリスが危ないのなら、修司ではどうすることもできない。そんなことは、修司自身がよく分かっている。
だが、アイリスとはそれなりに親しい関係になっている、と思っている。それなのに、何もせずに見捨てることなんてできるはずもない。
メルと共に走っていたが、途中からはメルを抱えて修司が走るようになった。メルが言うには、いつもの公園、とのことだ。
夜の中、暗い道、全力で走る。そうしていると、ふと違和感を覚えた。
何故だろう。この先に行ってはいけないような気がする。回り道か、もしくは帰るか……。
「じゃま!」
突然のメルの叫び声。同時に、その妙な違和感は綺麗さっぱり消えてしまった。目線だけでメルに問うと、短く答えてくれる。
「ひとばらいの結界!」
「なるほどファンタジーだな! やっぱりそっち関係かよ!」
本当に、厄介事しか起こしてくれない世界だ。修司の舌打ちに、何故かメルが体を竦めてしまった。
「どうした?」
「えとね……。ご、ごめんなさい……」
メルの小さな謝罪の声。すぐに気が付いた。全ての発端はこの子であり、今の言葉はそのままメルを責めるものになってしまっていることに。
そんなことにも頭が回らなかったことに、自分自身に腹が立った。
「いや、メルは関係ないさ。気にするな」
優しく頭を撫でてやると、ぎゅっと抱きついてきた。よしよしとその背中を撫でてやる。
そうしながらも走り続け、公園にたどり着いた。そして修司が見たものは。
今朝方見た、黒いスーツの大柄な男。その男が、右手でアイリスの首を掴み、持ち上げていて。そして彼女の足下には、血だまりができていた。
「おや、愛し子のお出ましか」
男が、酷薄な笑みを浮かべて言った。
壁|w・)この程度なら、残酷な描写タグはいらない、よね……?
いるなら血だまり部分を削除します。