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 あれよあれよという間に高遠榛希の婚約者になってしまった私のそれからの毎日は、まさしく怒涛だった。

 まず、週三で本邸へ通うことを命じられた。週に二回は茶道や華道といった習い事を順繰りに受けさせられ、週一回は高遠榛希とお茶をさせられた。文字通り、ただお茶を飲むだけなのに、高遠榛希はいつもにこにこと笑っていた。次期当主としての教育で忙しいはずなのに、彼がお茶会を欠席したことは一度もなかった。


 私が本邸に通うことについて、父も母も特に反対はしなかった。

 高遠榛希から話を聞いて、高遠榛希のもとにいたほうが安全だと思ったらしい。

 母はやはり童女のように「当主の息子のところなら安全ね~」と言い、父も「まあそっちのほうが安全だろうな。でも寂しいから、ちゃんと家には帰ってきてくれよ」と言った。

 高遠榛希の最有力者婚約者候補と言われていた高森いづるやその取り巻き、その他の人間からちくちくと嫌味を言われることもあったが、おおむね平和だった。

 彼の立ち会いのもとで、久雪とも会話をした。異母兄弟というのはお互いに複雑であったけれど、久雪は自分の感情に素直すぎるお坊ちゃまなだけだとわかったのは、それなりの収穫だったように思う。

 常に完璧な仮面を装着している高遠榛希の孤独と闇も垣間見た。高遠榛希が得体のしれない人間でなくなった瞬間だった。

 それなりに穏やかな生活はそれから二年ほど続き、当主夫人はやっぱり色々めんどくさそうだけれど、このひとと結婚するのも悪くないかなぁなどとぼんやり思い始めたころ、――その事故は起きた。



                    ◆



  メラメラとまるで生き物のように燃え盛るオレンジの炎。

 塀にぶつかって破損した車。

 呆然とした表情で、私のほうを見返る高遠榛希(あなた)

 庭園に咲く、白とピンクの薔薇の花。


 いつまで経っても私の頭の中に強烈な絵画のように残り続けるその光景を、私は恐らく一生忘れることができないだろう。

 父と母が乗った車が、高遠本家の塀にぶつかって炎上した。

 習い事がますます忙しくなっていた私は、だんだんと本邸に泊まり込むようになっていて、十五歳の私の誕生日も直前までレッスンが入っていたために、両親が本邸に来てくれることになっていた。

 もうすぐで到着する、との連絡が入って、迎えのために彼と玄関に出た矢先の出来事だった。

 その事故が、単純な不幸であったのなら、まだ救われたのだろう。

 車に細工をし、事故を誘発したのは久雪の母親だった。夫の心を奪う母の存在が、どうしても許せなかったと嗚咽しながらこぼした。久雪の父は、それを聞いて首を吊った。一命はとりとめたものの、今も病院で寝たきり。

 高遠榛希のもとに嫁ぐ覚悟を決めていた私の心は、その事故を受けて揺らぎ始めた。


 「無理をするな」と私よりもはるかに硬い表情で久雪は言った。高遠榛希は私を徹底的に味方で固めた〝薔薇の屋敷〟に住まわせ――ゆっくり休むよう命じた。

 それが三年前の話で、私は今、ここにいる。




「そういえば、麗人から聞いたんだけど、晶ちゃん一時期林檎剥く練習してたんだって?」

「……そうですけど、それが何か?」

 はい、と彼が艶々の林檎を渡して寄越す。

 先ほどまでのシリアスな雰囲気はどこへやら。一気に霧散してしまって、何故だかわかりやすくのんびりとした雰囲気が流れていた。

 ベッドから動かないで手が届くベッドテーブルの上に置かれた籠にはこんもりと林檎が盛られていた。このひと別に林檎好きじゃなかったよな、と思いつつ、なんでこんなに大量に所有しているのかは聞かないでおいた。話が長くなると面倒なので。

 高遠榛希に捧げられた林檎なだけあって、旬でないにも関わらず、赤々として均整の取れた林檎は甘酸っぱい匂いを放っていた。

「なんで林檎剥く練習なんてしてたの? 専属のコックがいるから一生必要ないのに」

 どうやら、理由までは存じ上げないらしい。

「家庭科の授業で、テストがあったんですよ。林檎の皮をどれだけ綺麗に剥けるかっていう。――っていうか、包丁ありません? 流石に素手じゃ剥けないんですけど」

「ふぅん。茉莉花高校に通ってるお嬢様たちも、そんなことするんだ? 茉莉花は良妻賢母教育をウリにしてるけど、彼女たちが包丁に触る機会なんてほとんどないのにね。――ああ、包丁だったね」

 麗人、と彼が病室の入口に向かって呼びかけると、和泉さんがひょっこり姿を現した。

 いつの間にかそこで待機していたらしい。――ということは、途中から話を聞かれていた可能性もあるのか。まぁ別に、和泉さんだから特に問題はないけれど。

「包丁、持っておいで。あとあれも」

「かしこまりました」

と、深々と腰を折り、まず私にそれを手渡した。それからこの無駄に広い病室に備え付けられているキッチンのほうに歩いていく。

 和泉さんから受け取った薄っぺらい紙を見て、思わず大きく目を見開いた。

 ――婚姻届。

 しかも、夫の欄はすでに記入済みだ。

「……準備が良いことで」

「この日を死ぬほど待ってたからね。はしゃぎすぎて百枚くらい書いちゃったから、何回書き損じても大丈夫だよ」

「愛が重いですよ」

 わかってはいたが、超重量級の愛だった。

 はは、そんなこと最初からわかってたでしょう? という彼の声をBGⅯに、空欄を埋めていく。和泉さんが包丁を持ってやって来るころには、全ての空欄が埋まっていた。

 彼がそれを丁寧に確認して、包丁と引き換えるかのように久雪に手渡す。

「それ、今すぐ役所に出しておいで。そしたら今日はもう上がっていいよ。ああ、久雪に明日はいつも通り六時に、この部屋に迎えに来るように伝えてもらえる?」

「承知いたしました」

 そのまますぐに退出するかと思えば、和泉さんは柔らかに微笑んで、

「――この日が来るのを、和泉は心底待ち望んでおりました。晶様がごねられたときはあわや婚約破棄か⁉ と心配いたしましたが――ご結婚、おめでとうございます」

「ありがとう」

「では、失礼いたします。榛希様、本日はどうか、羽目を外されませんように」

和泉さんが婚姻届を手に去っていく。

「……和泉は純粋だねえ。久雪並みの純粋さって、ピュア過ぎて時々疲れない?」

「和泉さんに何吹き込んだんですか」

「倒れて自分の将来が不安になっちゃったから、晶ちゃんと結婚して傍で支えてほしいんだけど、協力してくれない? って」

「……」

「和泉もねぇ、あの事故のこと知ってるから。どうあってもきみに幸せになってほしいんだろうね」

「……」


 私はペンを包丁に持ち替えて、しゅるしゅると皮を剥いた。縦に割って、芯をとる。そして八つになるように、刃を入れる。和泉さんが気を利かせて包丁とともに持って来てくれた皿の上にそれを置いて、彼に差し出す。

「どうぞ」

「どうも」

「甘いと思いますよ」と付け加えれば、口の中に林檎の欠片を押し込まれる。瑞々しい果実に歯を立てれば、しゃり、という音とと同時に、甘さが口の中に広がっていく。

「どう? 甘い?」

「確かに甘くて美味しいですけど……本当に、時々突拍子もないことしますよね」

「そお? まぁ今日は、三年振りに晶ちゃんと会えて、かなりテンション上がってるからねぇ……」

 苦笑しながら、私が齧った残りの林檎を、口の中に放り込む。うん甘い、と頷いて、残りを綺麗に平らげた。

 お腹空いてたんですか、と問えば、晶ちゃんが剥いてくれた林檎だからね、と意味の分からない返事が返ってくる。

 さらに意味が分からないな、と感じたのは、「そろそろ帰りますね」と言ったら、「なんで帰るの?」と真顔で効かれたときだった。

「なんでって、面会時間もうすぐ終了じゃないですか」

「そんあの、高遠うちの病院なんだから、どうとでもできるよ。――っていうか、普通に考えて泊まりでしょう」

「いや、意味不明なんですけど」

 そう言うと彼は顎に手をやって、頬を乙女のように赤く染め、不自然に視線を逸らしながらよく通る声で、ぽつりと呟いた。


「――だって今日、初夜だよ?」


 一発殴らせてください、という言葉は礼儀として飲み込んで、代わりに彼の脇腹を、思いっきりグーで殴った。



「晶ちゃん」

「……なんです」

「幸せだね」

 ごろり、と寝返りを打って彼のほうをむけばへらり、極上の美貌が笑み崩れていた。心の底から幸せそうな微笑みを見るのは久しぶりだった。あの事故後は、やはりお互いどうしてもぎくしゃくしてしまっていたから。

 いつも完璧な作り笑いを浮かべて自分の感情をコントロールしているくせに、今日はそれが不可能なようだ。


 初夜だから泊まっていけ、という彼の言葉に納得したわけではなかったが、大人しく従っておいてほうが楽だという経験則に乗っ取って、宿泊を決めた。

 初めて来たのでよく知らなかったが、この部屋にはゲストルームがあった。

 そのゲストルームの、キングサイズのベッドで、私と高遠榛希は共に寝ている。といっても別に何かが起きるわけではなく、言うならばただの添い寝だった。

 あと数センチでくちびるが触れる、というほど近い距離にいても、なんとなく足を絡めていても、びっくりするほど私の心は通常運転だった。

 親愛の情は感じていても、異性としては愛していない。――愛が可視化できなくて、本当に良かったと思う。互いに知っているはずのことでも、改めて白昼に引きずり出されるのはつらい。


「――」

「ん? どうしたの?」

 榛色の瞳が、私を見ている。

 誰よりも綺麗な、私たちの神様。

 体調不良を使って呼び出すのはやっぱりずるいですよ、と言ってやろうと思って、でも、それは彼の優しさであったから、口を開くのはやめた。

 彼は自分が悪役になって、最短で最良の選択肢を私に突きつけたのだ。

 馬鹿ですね、くらい言ってやりたかったけれど、彼があまりにも満足そうに笑うから。


 二、三度瞬きを繰り返し、布団の中でそっと彼の手を握る。

 彼は少しだけ驚いた顔をして、

「おやすみ、晶ちゃん」

 と、優しく私の名前を呼んだ。

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