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  最上階にたったひとつしかない病室の扉は、「待っていたよ」と言わんばかり、これ見よがしに開いていた。

 扉の前に立てば中の様子は丸見えだったけれど、念のため声をかけて入室する。

 部屋と廊下の境界線を踏み越え片足を下ろした途端、甘やかな声が耳朶を打った。


「やぁ晶ちゃん。待ってたよ」


 どこをどう見てもホテルのデラックススウィートみたいな空間の、その中央に置かれたベッド――一般の病院でよく目にするものではなく、一目で最高級寝具だとわかるそれ――の上で、ひらひらと手を振る美貌の男。

 ――高遠榛希、二十八歳。

 高遠家の現当主で、高遠グループの総帥。

表向きはただの親戚で、実際は従兄。

 直接対面するのは実に三年ぶりだったが、他の追随を許さない、完璧な美貌は健在だった。

 柔らかな榛色の髪に、同じく淡いヘーゼルナッツの瞳。童話に登場する優しい王子様のような顔立ちは、彼がいつも意識的に笑顔を作っているため優しく見えるだけで、真顔になるととても怖い。なまじ顔が整いすぎているせいで、あまりにも人間離れして見えるためだった。

「……久しぶりですね」

 何と言おうか迷って、結局そんな言葉しか出てこなかった。

「そうだね。テレビ電話じゃちょくちょく会話してたけど、直接会うのは久しぶりだね」

 言いながら、とんとん、とベッドの傍にわざとらしくセッティングしてある椅子を指先で叩いて、近くに来るよう合図する。


 無駄に広い部屋なので、そこまでの距離さえ遠く感じる。私はのろのろと歩いて、その椅子に腰掛けた。

 急に近づいた距離に、ときめけばいいのか戸惑えばいいのか。わからなかったので私は黙って、彼を見つめた。

 その顔にはやはり、疲労の色はない。かろうじて白地に細いストライプの入った病院着を身に着けていたが、本人が至って健康そうなので、まるでコスプレをしているみたいだった。頑張って病人に見せかけようとしているというより、スーツだと寝にくいからこんな格好をしているだけだろう。そういうひとだった。ちなみにこのひとの標準装備デフォルトはスーツだ。

「……過労で倒れたって聞きましたけど、元気そうですね」

「過労ってウソだからねえ。ああ、そんなに呆れた顔しないでよ。だってこうでもしないと、晶ちゃんは僕に会いに来てくれないでしょう?」

 責めるではない、心底楽しげな口調。

「僕が倒れたら、晶ちゃんはどんなに嫌でも来ないといけない。当主の一大事に婚約者が来ないなんて論外だから。自分の立場を守るためには、やっぱり今日中には来ないとねえ。ただでさえ晶ちゃんには敵が多いから、少しのことで攻撃されちゃう」

 例えば僕の最有力婚約者候補だった高森たかもりいづるとか、その取り巻きとか。自分より下の分家を憎んでる連中とか。

「大変だねぇ、晶ちゃんは」

 蕩けるような笑みを浮かべて、そうほざく。

「…………あなたがあの日私を脅さなければ、もっと早く会いに来ましたよ」

 この三年間、それとなく面会を匂わされたことは幾度となくあった。でも私はそれに気がつかないフリをしてやり過ごした。その結果が、今だった。


『ねぇ晶ちゃん。次に僕たちが直接顔を合わせるときは――僕たちが結婚するときにしよう。それまでに心の準備、整えておいてね』


 高遠榛希の、それは警告。

 逃げるなら今だという、明快な忠告。

 親切ごかした、最終通告。『ごめんねきみは僕のもの』

「脅したなんてひどいこと言うね」

 中性的ではあるが決して女性的ではない美しい容貌を最大限に甘く溶かして微笑みながら、彼が言葉を紡ぐ。

 背後の窓から差し込む夕日が彼を照らしているせいで、まるで後光が差しているようだった。

「それで? 晶ちゃん。ここに来たっていうことは、もう僕から逃げられないってことだけど、晶ちゃんはほんとにそれでいいんだね?」

 良いも何も。

「……それしか道は残されてないじゃないですか」

 両親を亡くした私の実質的庇護者は彼で、でもそれは、婚約という関係で結ばれているからであって、婚約が解消されれば、私は彼の庇護を失う。私にかかる費用の全ては彼がまかなっているから、衣食住の全てが不安定になる。学校だって、今のまま通えるかわからない。

 高遠榛希は確かに私に甘いけれど、それほど優しいひとじゃない。私に執着する高遠榛希と、利益を見込めなければあっさりと不要なものを切り捨てる、当主としての高遠榛希は表裏一体だ。私が彼の手を離せば、容赦なく切り捨てられることは目に見えていた。

 ――逃げたくなったら言え、と久雪は言った。

 久雪の言葉に、偽りはない。

 彼は自分の不幸な異母妹いもうとのことを、心底哀れに思っているから。

 だけれど久雪の案は、あまりに現実的でない。当主であるこのひとに、所詮は勝てっこないのだから。

 ……逃げ出してしまいたい、と思う自分がいる反面、どうにでもなれ、と思っている自分もいる。なんだかんだ、嫌いではないから。一生傷を舐めあって生きていくことくらいなら、きっとできる。

「イエスって返事しかできない状況で訊ねるのは卑怯かもしれないけど――一生かけて幸せにするから許してね」

 そう言ってもらえる私は、たぶん幸せなのだろう。手放しでは喜べないけれど。

「何もかも全部、僕のせいにしていいから」

 ねぇ晶ちゃん、と名前を呼ばれる。

 なんですか、と言い終わるより早く、強く強く抱きしめられて。くちびるが触れ合って、離れた。

 爽やかで蠱惑的な香りがした。本当に一瞬のことだった。

「――愛してるよ」

 そう、耳元に流し込まれる言葉。

「……知ってますよ」

「ごめんね」

 それが何に対しての謝罪なのか、私はよく知っていた。



                   ◆



 遡ること五年前。

 美しい花々が咲き乱れる、本家自慢の庭園でそのパーティーは行われていた。親戚だけを集めた大規模なパーティーは、毎年恒例の行事だった。

 会場はそれなりの広さを誇っていたが、自由に敷地を歩き回れたわけではない。何よりも血を重んじる高遠一族のパーティーなだけあって、きっちりと階級ごとにひとが分かれていた。

 そしてその、最下層に位置付けられた人間が集まる場所に、私たちはいた。広い敷地の、隅の隅。立食式のパーティーなのに、ほとんど食事の用意されていない場所で、親子三人ちびちびシャンパンと――私はジュースを啜っていた。

 今でも鮮明に思い出せる、爽やかな春の、運命の日。

 開始から一時間くらい経って、母親がぽん、と手を叩いた。

「もう帰りましょ!」

 白髪に五滴ほど黄色の絵の具を混ぜ込んだような、不思議な髪色をした母親はいつ見ても童女のようだった。今年で三十五になるというのに、いつまで経っても若々しい。若々しいのは容姿だけでなくて、言動もだった。

 鮮やかな黄色のワンピースを身にまとった母親は、シャンパングラスを手に持ったまま、うりうりと私に頬ずりをする。

「こんなところにいつまでもいたら、晶ちゃんに悪影響よ! さっさと帰って、テレビでも見ましょ!」

「俺もそっちのほうが楽だなぁ。でもいいのか? まだ始まったばかりだろ?」

 褐色の肌をした、売れないミュージシャン崩れ(あるいはホスト)のような風貌の父親が、少し心配そうに尋ねる。野性味あふれるルックスは端正ではあったけれど、今この場所では浮いていた。

「いいのよ。どうせ誰も私たちの動向なんて気にしてないんだし」

 帰りましょー晶ちゃん、と歌うように母親が言う。周囲からの突き刺さるような視線も物ともせずに、無邪気に母親は笑っている。


『お母さんはなぁ、ちょーっとだけ壊れてるんだ』

 いつだったか、父が困ったような顔でそう漏らしたことがある。父の言う『ちょーっとだけ壊れ』た母親はおかしいときもあったけれど優しくて、父も私のことを愛してくれているのを知っていたから、私は十分幸せだった。心の底から、私は両親を愛していた。

『なぁ晶。何があっても、俺たちは一緒だぞ?』

 高藤家没落の原因となった母と、その風貌ゆえに異端視されている父と、その子供である私。一族から蔑まれている私たちは、当然ずっと肩を寄せ合って生きていくのだと思っていた。もちろん、このときも。

 どうせ嫌われてるんだし、これ以上嫌われたって痛くも痒くもないので退散しよう! と、私たちが移動を開始したときだった。


「――高藤晶はおまえか?」


 死角になっていた植木の陰からぬっと顔を出した少年に、思わず足を止めさせられた。

 まだ幼さの残る声の主は、仕立ての良い燕尾服に身を包み、頬を薔薇色に上気させて――恐らく走ってきていて息が上がっていたのだろう――こちらをまっすぐに睨み付けていた。

 少年の端正な顔には、覚えがあった。

 高遠久雪。次代のエリート。一方的に顔は知っていたが、向こうがこちらの外見を把握する機会はないはずなのに、と思わず首を傾げそうになったところで、母親が小さく悲鳴のような声を上げた。

「……っ!」

 先頭に立っていた私は背後を振り返ろうとしたが、久雪の言葉の続きに邪魔されて振り向くことができなかった。

「話がある。時間は取らせないから、ついてこい」

 ぶっきらぼうにそう告げて、強引に私の手を掴む。

 周囲にいる人間が私たちの一挙手一投足に注目していることはよくわかったが、誰も間に入らない。次代のエリートの不興を買いたくないからだ。だから好奇と、恐怖と、異端児を罰してくれ、という期待を込めた目で、高遠久雪を見ている。

「あの、あの!」

 ぐいぐい手を引っ張って歩き出す高遠久雪は、私の声に耳を貸す様子もない。

「――ちょっと待ってくれ!」

 静止を手伝ってくれたのは、父だった。

「なんだ?」

 ようやく立ち止まって、くるりと振り返る。高遠久雪は、あからさまに怒っていた。

 一体なぜ? と思う。私と高遠久雪に、接点なんてひとつもない。

「晶をどこに連れていく気なのか聞いてもいいか?」

「場所は決めてない。人が少ないところで話がしたいだけだ。心配しなくても、ちゃんと返す」

「ああ、うん。きみは純粋にそうだと思うんだけど――」

「じゃあ黙っていてほしい。あなたには関係のない話だ」

 特にこの場合は、と彼が付け加えると、父は一瞬、思わぬところから攻撃を喰らった、みたいな顔をした。心の一番柔らかい部分を、不意打ちで抉られたみたいに懸命に痛みを堪えようとしていた。

 高遠久雪が私の手に力を籠め、再び引っ張って歩き出そうとしたとき。


「――久雪」


 神様の、声がした。

 柔らかで優しくて、絹のような滑らかさがあって、そして誰よりも圧倒的な、支配者の声。

 当主でないにしろ、その類まれなる美貌とカリスマで、すでに一族の頂点に立つ男――高遠榛希。

 最高級の生地で仕立てたダークグレイのスーツを身にまとい、青年期特有の爽やかさと甘やかさを振りまいて、彼がそこに立っていた。

 突然の神様の登場に、あたりはよりいっそう騒めく。

「……榛希。なんでここに?」

 流石の高遠久雪も、ばつの悪そうな顔になる。

「んー、久雪が輪の中から抜け出したのがわかったからね。何をするんだろう、って思ってついてきたんだ。手を放したほうがいいよ、久雪。きみは案外馬鹿力だからね」

 言われて渋々、高遠久雪が私の手を開放する。掴まれたあとはうっすらと赤くなっていた。

「久雪、きみはもう戻りなさい」

「でも!」

 反論しようとした高遠久雪に近づいて、耳元で囁く。近くにいた私には、その言葉が正確に拾えてしまった。「きみがどういう目的で彼女に近づいたかは知ってるけど、ここでは目立ちすぎる」

 その忠告に納得したのか、「……悪かったな!」という捨て台詞を残して、彼が去っていく。

 姿が完全に見えなくなったところで、「じゃあまたね、晶ちゃん」と、私の頭を一撫でして、高遠榛希も去っていった。

 それが私と高遠榛希の、最初の出会いだった。



「――というわけで、婚約しようか晶ちゃん」

 にっこにっこと笑いながら高遠榛希がそう言ったのは、二度目ましてのときだった。

 あのあと、私は自分の出生の秘密を、父から聞いた。高遠久雪もたぶん、どこかで私という異母妹いもうとのことを知ってしまったのだろう。だからきっと、あの日私に会いに来たのだ。本家から分家まで全員が揃うのはあのパーティーと、あとはもう、年末年始しかないから。

 母はあのあと、寝たきりになってしまった。父曰く、久雪の顔は藤代そっくりだからトラウマが蘇ったのだろう、とのことだった。

 私が出生の秘密を知ってすぐ、高遠榛希は私に会いに来て、ほざいた。

「それがたぶん、一番良い方法なんだ。――残念なことに叔父はきみのお母さんのことを全然諦めてなくてねえ、最近ではきみを引き取りたいって再三再四要求してる。きみが手元にいれば、きみのお母さんにも会えるんじゃないかって思ってるらしいんだけど」

 僕も僕の父も、それには反対なんだよねえ。特に僕の父親は、きみのお母さんのことを憐れに思ってるから。……きみのお母さんがきみを妊娠したって知ったとき、自殺を図った話は知ってる? ……そう、知らないの。大事に育てられたんだねえ、ちょっと安心した。ま、それでね、きみと僕が結婚するのが最良なんじゃないか、って話が出たんだよね。次期当主の僕と結婚しさえすれば、きみの立場はあのひとより上になって、簡単には手が出せなくなるから。

 でもきみ、まだ十三歳でしょう? だからね、とりあえず婚約しよっか、晶ちゃん。悪い話じゃないと思うんだけど、どう?


 わざとらしく小首を傾げる高遠榛希に、正直に言おう、ドン引きした。

「僕はロリコンで、十三歳のきみに一目惚れしました! 僕と結婚を前提に婚約してください‼」と告白されても困るが、義務感百パーセントで婚約を切り出されるほうがもっと困る。特に、引く手あまたの男性に言われると。

「……いやあの、……お断りします」

「なんで?」

「いや、あの、なんでって――」

 最も説得力があり、かつ機嫌を損ねない理由を、頭をフル回転させて必死に探す。

 そして出てきた答えは――。


「私、高遠家の当主と結婚するとかまっぴらごめんなので。当主の妻の座になんの魅力も感じませんし、私たちを守ってくれようとしているのはよくわかるんですが、当主の奥さんになるっていうオプションは正直マイナス要素ですごめんなさい」


 あまりにもストレートな、本音がダダ漏れた解答だった。

 ……三秒ほど、彼はきょとんという顔をした。

 そして。

「あっは」

「は?」

「あっははははははは‼」

 ははは、はははははははは‼

 手まで叩いて、大笑い。

 おかしくてたまらないというように、彼は笑い続け。

結婚しようか晶ちゃん、と、両手を包み込むようにして握り込んで、極上の笑顔で告げた。高遠榛希のそれはもはや、彼の中での決定事項だった。



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