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そのニュースが私のもとに飛び込んできたのは、風薫る五月のことだった。
――金曜日、朝七時三十分。
洗顔・着替え等の支度を済ませ、私は食堂に向かった。
食堂、といっても、別に寮に住んでいるわけではない。ただ、あまりにも瀟洒な洋館にある「食事をする場所」を、「台所」と呼ぶ勇気がなかったので、そう呼んでいるだけだ。
屋敷の至るところに薔薇が植えつけられているために〝薔薇の館〟と呼ばれるこの屋敷は、私の実家ではない。一応親戚が建築を命じ、所有している建物ではあるけれど、私は庶民、向こうは桁違いの大金持ちなので、その金銭感覚の違いには、毎度悪酔いしそうになる。
だけれど、今から三年前、十五歳のときに両親を亡くした私にはここ以外に行く当てがない。金銭感覚や生活習慣の違いには辟易するが、親戚と同居ではないぶん気は楽だった。
――さて。
話は少々逸れてしまったが、自室から食堂に無事到着した私は(この間だけでも三百メートルほどの距離がある)、入口付近でぴたりと足を止めた。
内装にそぐわない、という理由で食堂には置かれていないはずのテレビが、今日は何故だか入口から一番よく見える位置に鎮座している。
高画質の液晶テレビが映し出すのは、この国有数の巨大企業・高遠グループの総帥であり、グループの中核をなす高遠家の当主・高遠榛希が過労で倒れたというものだった。
この国の経済を掌握しているといっても過言ではない人物が倒れたのなら、なるほど、それはニュースにもなるだろう。
もっとも、これが茶番だとわかっている人間からすれば、溜息しか出てこない。
高遠榛希は倒れるまで仕事をするような人間ではない。むしろ『体調管理ができない人間は無能だよ』と言ってのけるタイプだ。
そんな彼がわざわざ嘘の情報をマスメディアに流した理由には、十分すぎる心当たりがあった。が、無視しておきたいところだったので、一旦思考を放棄する。
……というか、株価に影響したりはしないのだろうか。
高遠家の分家筋にあたる高藤家の出身なので、心配してみるフリをする。が、実のところそれほど関心はなかった。
高遠家が路頭に迷えば確かに困るが、滅びればいいと思う自分がいることも確かだ。
高遠という一族はおかしな家で、本家を神のように崇めたて、本家を頂点とする独自の身分制を親族内で適用している。血の濃さこそが全てで、血によって序列が決まる。そんな身分制度に振り回されてきた私としては、その恩恵を享受しつつも、やはり破滅を願わずにはいられない。
ちなみに高藤家の序列は、ぶっちぎりの最下位だ。血こそそこそこ濃いものの、ある出来事が原因で、最高位から最下位へ降格の憂き目にあった。
それゆえ親子三人で暮らしていたころは、超大金持ちの一族の出身とは思えないほど質素で慎ましい生活を送っていた。ほぼ縁が切れた状態の祖父などは未だにお家復興を狙っているらしいが、とんと興味がない。私は静かに暮らしていたいのだ。
だから、わざとらしく存在を主張してくるテレビ画面から大きく目を逸らして「おはようございます」と挨拶をしながら無駄に贅を凝らした食堂へと足を踏み入れる。
食堂にいた使用人たちはそれぞれに作業の手を止めて、私に向かって頭を下げた。
「「「おはようございます、晶様」」」
この屋敷の主人は、一応私ということになっている。たとえ私が彼らにお給金を支払っていなくても、親戚に屋敷を貸し与えられているだけの身分にすぎなくとも、彼らは私に敬意を払う。そのことがどうにもむず痒い。
使用人の面々に見守られながら食卓に着く。
長い長い食卓の全長は計り知れなくて、その上に乗った燭台と花瓶に入った花々が、異国情緒を醸し出している。高い天井からぶら下がるシャンデリアは、落下したら間違いなく即死だろう。きらきらしくて巨大で重い。
椅子に腰を下ろすなり、大勢の使用人の間を縫うようにしながら、ひとりの美丈夫が近づいてきた。
美丈夫の名は、和泉という。和泉麗人。高遠家に代々仕えている執事の一家・和泉家の次男で、黒目黒髪の正統派美男子。三十五歳、独身。
普段は絶えず柔和な笑みを浮かべ、にこにこと温かく私を補佐してくれる優しいお兄さんの表情は、今日はどこか硬い。――というか、目に見えて焦っている。
彼は一度深く頭を下げ、「おはようございます、晶様」と前置きし、
「昨晩、榛希様がお倒れになりました」
と、重々しい口調でそう告げた。
「そうみたいですね」
運ばれてきた紅茶を一口啜り、私は答える。
あれだけ大々的に放送されていれば、嫌でも視界に入るだろう。
わざと和泉さんの方を一切見ずに回答した私に、しかし彼はめげなかった。
「榛希様は晶様との面会をお望みです。どうか今すぐ病院に向かわれてください。準備は整ってございます」
美味しいはずの紅茶が、一気にまずくなる。
どうやらほんのわずかの現実逃避さえ、許してくれる気はないらしい。
和泉さんも含め、使用人たちのすがるような視線が背中に突き刺さっているのを感じる。
私は大きく息を吐いてティーカップを置き、和泉さんに向き直った。
「和泉さん」
「はい!」
勢いの良い返事。
行ってくださるのですね⁉ と、彼の瞳が期待できらきらと輝いている。三十五歳とは思えない純粋さだ。それに対して私の瞳は、曇りに曇ったガラスのよう。
「私、今から学校です」
「学校……‼」
和泉さんが、大袈裟に膝から崩れ落ちる。
一見わざとらしく見えるが、和泉さんのそれが決して演技ではないことを、私はよく知っている。和泉さんとの付き合いも、それなりに長い。私がこの屋敷に引っ越すことになったのを機に私付きに任命された和泉さんは、良くも悪くもまっすぐなひとだ。私に忠実、というより本家に忠実にお仕事をこなそうとしてしまうところが、いささか難点だけれど。
崩れ落ちた和泉さんは、しかしやっぱりめげずに、キッと顔を上げた。
「学校など、そんなものはどうでもよろしいのです! 晶様は日々真面目に学校に通われていますし、そうでなくとも晶様の通われている茉莉花高校には榛希様が多額の寄付をなさっておりますので、大抵のことはなんとかなります! 今日は自主休校になさって、今すぐ病院に参りましょう‼」
「嫌ですよ」
今日は数学の小テストがあるし、評定に関わる重要な国語の課題の締め切り日でもある。
それらは単なる理由づけに過ぎないが、学校を休んでまで病院に行くメリットが正直なところ私にはない。
「学校をさぼって今すぐ」彼のもとへ向かう気はさらさらなかったので、和泉さんによる必死の懇願をはねつけ、私は通常通りに登校することを認めさせた。その際、学校が終わり次第速やかに高遠榛希のもとへ赴くよう約束させられたが、それには素直に頷いておいた。
――どのみち、今日中に会いに行かなくてはならないことはわかっていた。
会いに行かない、というのも私に与えられた選択肢のひとつではあったが、その選択肢は行使できないも同然だった。私はまだ子供で、そして自分で道を切り開いていくほどの気概を持ち合わせてはいなかったから。