食べられない
古事記のオオゲツヒメは、食べ物や養蚕の神様であり、ありがたーい方なのでした。
※ナンセンス下品注意
イザナギとイザナミがまぐわい、国が誕生したのであるけれど、神代の今はあらゆることが謎に包まれており、旅を進めるごとに未知と出会う。
彼はその性質ゆえに、あらゆる場所で恐れられ、歓迎するとみせかけ、その実、さっさと去ってくれるようしむけられるのだった。荒ぶる魂を授かり、常に満たされないものを抱く宿命は、誰のせいでもない。
彼はただ孤独であり、自分でもわけがわからなかった。
強い。俺は強い。
だが、この強さを真に意義あることに使うためには、あまりにもこの心は荒ぶりすぎる。
彼は己を磨かねばならないと知っていた。
ほんの十日――いや、三日で良い。怒り狂わず、頭を常に冷えた状態に保つよう、己を試してみよう。
これは修行である。
そう思い、彼はひたすら心を無にし、なにごとがあろうとも、その燃え上がりやすい心を波立てないよう気をひきしめた。
旅は続いた。
幸いなことに、修練の三日のうち二日は晴天であり、出会う人々もいたってまともで、入る飯どころも、まあそこそこの店ばかりだった。飲食店に入る際、彼は不安でならなかったのだが――もし、俺より後にきたバカップルのテーブルのほうに早く注文した飯が運ばれてこようものなら、俺は果たして平静を保てるのだろうか――頼んだのが大盛なのに並盛が来たりしたら、俺は耐えられるのだろうか――幸い、彼の心を逆なでするような事態には至らなかったのである。
宿泊施設も、問題なかった。ここでも彼は心配だったのだが――もし、通された部屋の壁にかけられた額縁の裏に、おかしなお札が張ってあったりして、こんないわくつきの部屋に通しやがってと思うような事態になりはしないだろうか――安普請の壁を通して、隣の部屋から夜じゅう変な物音が聞こえてきてムラムラさせられたりしないだろうかこんちくしょう――いたって普通の部屋であり、無事に夜を過ごすことができたのである。
なんとか三日目を迎える。
二日間のあいだ、全く激昂することなく、誰かをいともかんたんに斬り捨てたりしないで済んだのは奇跡だった。
よし、これならいける、三日間辛抱を通すことができたなら、俺はきっと変わることができる。
彼は一筋の希望を見ていた。
これなら俺は変われる。
姉上に、よくやったねスサちゃんと頭をなでなでしてもらえるのも夢ではない。
しかし夕刻を迎える頃から日が陰り始め、のびのびと茂らせている森の木々に、まもなく雨が落ち始めたのだった。
そこは深い森の一本道であり、人の住む家は見当たらず、それどころか飲食店も宿泊施設も期待できそうもなかった。ばたばたと次第に激しさを増す雨にひたすら打たれながら、彼は今夜の食事と宿の不安を抱き始める。
(まずいな)
と、彼は己の中の黒い魔物が頭をもたげはじめたのを感じる。
体は濡れて冷えはじめ、腹も減り始めていた。あたりは薄闇に包まれ始め、このままでは野宿するしかない。
そんな苦行はまっぴらごめんだ、俺を誰だと思っていやがる、どうしてこの俺様がそんな目にあわねばならないのか。
腰に帯びた刀に手をやりたい衝動にかられる。
荒ぶる魂に火がつきかけていた。このままだと、やばい――そう思った矢先に、ぐにゃんと変なものを踏んだ。
彼は固まった。
イノシシかなにかの糞が落ちており、みごとにその中央を踏みつけていたのだった。
「……」
(がまんがまんがまんがまん……)
「……」
限界に達しようとした時だった。
ふわんと良い香りが流れてきて、はっと彼は顔を上げる。冷たい雨が降りそぼる森の小道の行き止まりに、品のよい家が建っていた。
あたたかな明かりが窓から漏れており、実に美味しそうな料理の匂いはそこから漏れているのだった。
怒りの発作に陥りかけていた彼は瞬時に沈着を取り戻し、糞をふんだ足を草になすりつけて、急ぎ足で家に向かった。
ばたばたと木の葉は音を立てて雨をはじき、地をはう大木の根やつる草が彼の邪魔をしたけれど、そんなことでいちいち怒っている暇などないくらい、彼は急いだ。
腹が減って仕方がなかった。
一晩の宿が望めるかどうかは分からないが、なんでもいいから何か食べさせてもらえさせすれば、気持ちも落ち着くに違いない。そうしたら、苦行の三日は達成することができるだろう。
彼は悪い頭を必死に働かせ、計算する――ええと、苦行を始めたのはいつだったろう――結果、あと1時間くらいで三日間、つまり72時間を達成することになるのだった。
恐る恐る彼は、その品の良い家に近づき、窓からそっと中を覗いた。
いける、と彼は拳を握る。
中にいたのはキレイな女性であり、いそいそと厨房から食事を運んでは食卓に並べているところだった。
実に感じの良い室内である。明るくてお洒落で、もっとも気に入ったのは、どうやら彼女が一人暮らしらしいことだった。
(一晩、いける)
と、彼は確信する。
なにしろ彼は神の御子であり、性格や素行はアレだが、イケメンなのだった。
この俺をこばむ女はいない。大丈夫だ今晩も良い気分で過ごすことができる上に役得も望めそうだ。
つまり俺は、俺の中の激情を荒立てることなく残りの1時間を余裕で過ごすことができるというわけだ。
姉上、三日間、俺がんばったんすよ。ほら、認めてくださいっすよ。
「スサちゃん、あらまあ、頑張ったわねえ、よちよち、頭なでなでしてあげまちょうねえ」
……憧れてやまない、だがいくら手を伸ばしても振り向いてもくれなかった美しい姉が、その豊かな胸に彼を抱き寄せてくれる妄想が浮かんだ。にやにやしながら彼は玄関の戸をたたき、家主の美女は顔を出した。
「あら、まっ」
女は目をさらのようにして、ずぶ濡れの彼を慌てて家の中に入れた。
スサノオ様ではございませんこと、いけませんわこんなに濡れて、さあ、早く乾いたものをお召しになって――女は全く彼を恐れるそぶりを見せず、かいがいしく世話を焼いたのだった。
至れり尽くせりの歓迎を受けて、彼は大満足だった。
一番良い椅子に座らせてもらい、温かな火の前で体を温めさせてもらった。
女は美しく、通り過ぎる度にたまらなくなるほど良い匂いをさせる。
体を拭きましょうと女はいい、温かい布で彼の手足を拭いた。
履物が汚れているのを見て目を見張っているので、彼は冗談めかして説明をした。
「道中、糞を踏んでしまった。それは触らないで良い。汚いから」
まあ、と女は口に手を当てる。その様子が愛らしかったので彼は調子にのってべらべらと言った。
「この世で最も忌むべきものは糞だな。糞のことを考えると怖気が走る。糞などどうして存在するのか。このうえもなく腹がたったときに糞ったれと口走るのは最もなことだ」
女は無言で彼の手足を拭く。
またふわりと良い匂いがたった。
彼はごくりと唾をのんだ。盛大な音をたてて腹が鳴った。
背後の食卓にはごちそうが並べられている。
女は自分一人でこれを食べるつもりだったのだろうか。相当豪勢な料理であり、量もなかなかのものだ。
恐る恐る、彼は、今夜は誰か客がくる予定があるのかと女に聞いた。
女はいいえと答えた。
何度もぐるぐると腹が鳴っている。
女は微笑むと、もし宜しければ召し上がりますかときいた。
彼は、ぜひ頼むと答えたが、一瞬、女が躊躇するそぶりをするのを見逃さなかった。
美しく清められた食卓には、偶然にも彼が好きな料理ばかり並んでいる。
獣の肉の焼き物、魚を煮たもの、穀物を炊いたもの。
まだ温かな湯気をはなつそれらに舌鼓をうつ。
まだ女は気がかりそうな様子で彼を見ていたが、そんなことに気をとめておられないほど空腹は増していた。
彼はついにその料理に手を出した。
……旨い。
もりもり食べて、少し落ち着いてからおやと思った。
女は――食卓に向かい合って座っているのに――一口も食べようとせず、どこか青ざめた様子で彼が食べる姿を見つめているのだった。
なんとなくそわそわしているようにも見える。
口いっぱいに頬張った食べ物を飲み下してから、彼は、どうしたんだと女にきいた。
女はもぞもぞと恥じらうように立ち上がると、ちょっとすいません、席を外しますと言った。
「汁物がまだ、出ておりませんよね。いま出して……ではなくて、持ってまいりますから」
女はそそくさと立ち上がると、部屋を出て、なんとなく気になる念入りさで扉をしめた。
かちゃん、と、しっかり閉まるのを確認するような様子である。
何となく気になり、彼はじっと彼女が去った後の扉を見つめた。
確か、窓の外から中を伺った時、女はその扉から大量の料理を持ってきては食卓に置いていなかったか。
(だとしたら、そっちは確かに厨房なのだが)
だけど、どうもその扉は厨房っぽい雰囲気ではないのだった。
……ちょろちょろちょろちょろ。
ふいに、妙な音が聞こえはじめる。
ごく微かな音であるが、確かにそれは扉の奥から聞こえるのだった。
ちょろちょろちょろちょろ…………ぼふっ。
「んんっ」
と、彼は喉の奥から声を出した。
疑問形の、語尾が上にあがるかんじの声である。
ごくんと口の中のものを飲み込んだ。とても美味しい後味が残っている。
極上の料理、極上の食材ではないか――ふと彼は思う。
この凄まじい森の奥で、どこからこんな食材を手に入れるのだろうか。
音はまだ続いている。しかも、奇怪さを増していた。
ぼっ、ぶりゅぶりゅぶりゅぶりゅ……ぶびっ、ぶ……。
(気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ)
口の中には美味しい後味がまだ残っている。実に美味しい後味だ。
満足しきっていた気持ちが、恐ろしい勢いで冷え込み始める。同時に、彼が自分自身でももてあまし、どうにもならない件の感情の獣が頭をもたげはじめていたのだった。
ゴオオオオ、と、音を立てている。彼の中で、目を三角にして、ぎりぎりと歯ぎしりを立て始めている。
(いやいやいやいや)
食卓にはずらりとごちそうが並んでいる。
大層なもてなしだ。親切にしてくれた彼女を、疑うなんてそんな。
ぶびっ、びっ、ぶぶぶぶぶ。
……。
ついに彼は立ち上がると足音を忍ばせて扉に近寄り、そっと薄く開いて中を覗いたのだった。
そして、見た。
「……あら、スサノオ様」
尻を丸出しにした姿で、彼女は振り向き、にこっと微笑んだ。
「もう少しお待ちくださいね、今、お味噌汁をお出ししているところですから」
しゃがんだ尻の下には鍋が置かれている。
ふうんと味噌汁の良い香りが立っていた。
ゴオオオオオ……。
彼はゆっくりと、その謎の部屋を見回した。
厨房であるはずのそこには食材は一切見当たらず、しかも床はタイル張りであり、壁にはモップとバケツとすっぽん――正式名称はラバーカップ――が、立てかけてあるのだった。
女は立ち上がると衣服を直し、床に置いた鍋を持ち上げた。
「出たばかりなので生ぬるいので、ちょっと温めます」
と、女は言い、ガスコンロに鍋をかけはじめる。
実に美味しそうなみそ汁の匂いがたっていた。
だが、その匂いが美味しそうであるほど、彼の神経は逆なでされる。
「二つ、聞きたいことがある」
彼は平静を装った声で言った。
「食卓の料理は、みんな、『出した』ものか」
そうですよ、足りなければまだまだ出しますよと女はこちらに背を向けたまま言った。
ほどよい温かさに味噌汁を熱するのに夢中である。
ひびわれそうになる声で、彼はもうひとつ聞かねばならぬ。既に手は腰の刀に添えられていた。
「もう一つ。なぜここにすっぽんがある」
すっぽん、と彼女は聞き直し、ラバーカップの事であることに思い当たると、くすっと笑った。
「だって、時々詰まるんですもの。排水溝が」
彼は足元を見る。
排水溝の丸い金属の蓋があった。
一度にたくさん出ると、お鍋やお皿に受け止めきれずに溢れちゃうんです。
二、三日出ないと大変で。
そんな時はね、お薬を使うじゃないですか。だから。
「どれもこれも、柔らかくなりすぎちゃうんですよね。でも固すぎてもだめだし、ほんとに調節がむつか」
しい、という言葉は、あの世で呟くはめになった女だった。
はあはあと息を切らしながら、彼はぐつぐつ煮え立つ鍋を睨む。
ひどく食欲をそそる香りを漂わせていた。
さっきまで食べていたものの、まだまだ空腹だった彼は、その香りに苛立った。
「くっ」と彼は顔をしかめて、ごうごうと燃え盛る紅蓮の怒りの炎をなんとか飲み込もうとした。
斬り捨てた女は床に横たわり、ぴくりともしない。
……彼は激情に任せてまた殺してしまったのだった。
あと、5分だったのに。
あと5分で苦行は終わったというのに。
(ぐにゅ)
足の裏に感じた、あの嫌な感覚が鮮やかによみがえる。
なにかの、糞。
俺が踏み抜いた、あれ――この世で最も忌むべき、最も役にたたないあれ……。
(不思議だよなあ)
ぐつぐつ煮え立つ味噌汁が気になり、とりあえずコンロの火を止めてから、彼は溜息をついた。
瞬間的な激情は女を斬ったことで醒めており、今はただただ、脱力するのみである。
(どうして、踏んだ瞬間、あんなに匂うんだろうな、あれは)
まるで、己の存在を主張するようじゃないか。
ともあれ俺は、三日の苦行に失敗したというわけだ。
俺は俺のまま、なんら変わっていない……。
(スサちゃん、駄目な子、もう来ないでちょうだいっ)
美しい姉が眉間にしわを寄せて怒る声が聞こえたような気がした。
そして彼は、己の荒れ狂う心を嘆いた。
彼を人々が恐れるスサノオだと知りながら、恐れげもなくもてなしてくれた優しい彼女のことを思った。
ふいに胸が締め付けられた。
彼女の置き土産である温まった味噌汁をすくって一口飲み下そうとし――先ほどの光景を思い出して――飲むことができずに、ぶばっと吐き出したのだった。
しばらく、飯が食えなくなっちまったじゃねーか。
(糞ったれ)
古事記には、時々ものすごいエピソードがあります。