57回目 君の面影を残して
「気にしなくていいよ」
そういって彼女は僕の目の前で飛び降りた。
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「集合的無意識って君は知ってる?」
「ユング先生のあれだろ、人間の無意識は深層でつながってるっていう」
その日も僕は大学研究室で同級生である松野佳代子の話に付き合っていた。
「私はあれは正しいって思う、ううん厳密には正しいことを観測している、かな」
「お、大先生に対して上から目線。将来の大物は違いますなぁ」
いつもの調子の佳代子にちゃちゃを入れながら僕は彼女に淹れたてのコーヒーを出した。
「私はすでに大物よ、と話がそれたわね。私は集合的無意識とされる存在が人間の本質だってわかったの」
「本質っていうと?」
「つまり私たち人間が個として存在しているからその根底に集合的無意識があるんじゃなくて、
集合的無意識があるから私たちの個が存在してるって事。
私たちは元々一つの存在から伸びて枝分かれした分体でしかなくて、
本当は集合的無意識と呼ばれるものが私たちの正体だって事」
「俺たちはある存在が端末を動かすために用意したペルソナにすぎないって話か、
たしかに人間の人格は情報がもたらした錯覚だって話もどっかで読んだけども」
「だから私ある事に気づいちゃったんだ」
僕はその時彼女のその言葉に妙な不安感を覚えた、それが気のせいだと思わず引き留めていたらと今でも後悔している。
「大本が同じって事は端末が寿命とかなんらかの理由で死んだとしても、生存し続けてるって事にならない?」
「極論だな、それに可逆性のある情報のやり取りがあったら個を維持できない」
「でもユングはそれを認識したし、夢を使って集合的無意識に接続する方法があるって説もあるの」
「君なにかする気?」
「きっと驚くことになる、楽しみにしてて」
そういって佳代子は笑った。
翌日、彼女は一日大学に来るはなかった。
その日の講義を終えた夕方、佳代子からのラインの通知に気づいた僕は、
本文もなくただ何かのリンクだけがされたコメントに理解不能な悪寒を覚えながらリンクされたページを開いた。
それはとある普遍的なニュースサイトで、昼間にある女生徒が自宅のマンションから飛び降りて亡くなった事が書かれていた。
その名前は松野佳代子。
冗談にしては悪質すぎる。
僕は彼女に一言言おうという気持ち半分、言いようのない焦燥感に掻き立てられ彼女の電話番号に電話をかけた。
その日結局彼女が電話に出る事は一度もなかった。
それから数年、あのニュースで報道されていた学生は僕の知っている佳代子だったと後日わかり、
僕は彼女から送られてきたラインのメッセージに対する恐怖感から、
あの頃の記憶をなるべく思い出さないようにして生きるようにしていた。
大学では心理学を専攻していたが今は商社に勤め、
大学時代の事を思い出しそうな写真や物も全て捨てた。
ただ一つだけつながりがあるといえば、佳代子以外の友人で会った悪友の健太郎だけだった。
ある日健太郎からの誘いで遊びに行こうという話になり、
集合場所として彼が選んだ駅の前で健太郎を待っているとそこに一人の女性が現れた。
「……佳代子?」
女性は静かに微笑む。
「おー、ごめんごめん電車が遅れちゃってさ。もう自己紹介って終わった?」
女性は首を横に振った。
「彼女俺の友達の花江ひかる、大学の時の昔話してたらお前に会いたいって言いだしてさ。セッティングしたってわけ」
僕は彼女の顔をもう一度見る、見た目も背丈もまるで違うなのに僕はなぜ彼女を最初に見た時佳代子だと思ったのかわからなかった。
しいて言うなら着ている服の好みが彼女のセンスによく似ている気はしたが、
それに彼女が別の女性の名前で呼ばれて動じなかったのはなぜなのか。
彼女はちらりとこちらを見ると、あとはまるで花江ひかるという人物を演じているかのように振舞っていた。
その日の晩、ラインの通知が入り誰からか確認するとそこには松野佳代子と書かれていた。
僕の気持ちは不思議と静かだった、もしかするとそういう事なのかもと心の中で準備はできていたから。
「花江ひかるさん、だろ?メッセージ送ってるの」
僕はそう返信した。
「約束を果たしたい、明日の23時に貴方の家の近所の建設中のビルまで来て」
そう彼女からの返信があったあと、通知はもうならなかった。
僕は窓の外の建設中のビルを眺めると覚悟を決めた。僕は知らなければいけない、そう思った。
建設中の骨組みのビルをビル建設用の簡易エレベーターを使って上ると、
その先に花江ひかるが立っていた。
「佳代子なのか?」
「久しぶり、そうだよ私」
「どういう事なんだ」
「あの日話した通りの事が起きたんだよ、これを実証するために私は自分の器を壊したの」
「その体の女性はどうなったんだ、本来の花江ひかるは」
「彼女は私だよ、だから問題ない。言ってしまえば貴方だって私、私ですら貴方なんだから」
「何を言ってるのかわからない、説明してくれ」
「私は見たのよ、私の器が壊れた瞬間たしかにそこにそれはあった。いいえ、私がそれなのだと知った。
だからこうしてまた会えた」
「君は佳代子じゃない、人として壊れてしまっている」
「そう、そうかもしれない。あまりにも知りすぎてしまって、ありとあらゆることに現実味を感じないの」
そう言って彼女は不安定な鉄筋を綱渡りするように歩く。
「やめろ」
「驚いてくれたかな?私の推測は正しかったんだよ」
「もういい、帰ろう。君はそんなものじゃなくたっていいはずだ、普通に生きたっていいんだ」
「もう遅いよ、それにこの体は君に会うために用意しただけ、こうして君に会えたからもういいの」
僕は彼女にかける言葉も見つからず、足は震えて動くことすらできなかった。
場所に対する恐怖じゃなく、僕はただその時彼女の存在を恐れていた。
そして考えてしまっていた、彼女がもし自分を乗っ取ってしまったらどうなるのかと。
「そう、君が今考えている通り。私が存在するということはもうそういう事になってしまうの、だからね」
気にしなくてもいい、そういって彼女は寂し気に笑うと鉄骨から身を投げて虚空に消えていった。
それから佳代子からの連絡が来ることはなくなった。
花江ひかるの遺体は見つかることはなく、失踪という事で警察は処理したらしい。
そして僕は今彼女と過ごした場所にいる。
健太郎と一緒に訪れた久々の母校は何も変わっておらず懐かしい空気がした。
あの日以来少しずつ僕は大学のころの事を受け入れる事ができるようになっていた。
もしかすると彼女が僕に会いにきた理由は本当のところそれが目的だったのかもしれない、今はそう思う。
ふと佳代子に呼ばれたような気がして振り返る。
そこには彼女はいないのだけど、でも彼女の温かい眼差しを確かに感じる。
彼女の選んだ道が正しかったのか間違っていたのか僕にはわからない、
それに他者がそんなことを決めるべきでもないのだろう。
僕はただすべてを懐かしみ、そして時とともに通り過ぎていくだけだ。




