大喧嘩、仲直り
手持ちぶたさな僕は、夕方まで村の中を見て回った。子供の頃に美咲さんと立ち寄った茶堂や、醤油蔵、麹室……燈台などを見て回り、自分でもなかなか渋いチョイスだったと思う。けれど、ずっと彼女のことが頭から離れなかった。
なんでこんなに頭がこんがらがってるんだろう、と思う。脳みその中を開いて見てみると、おそらくほとんどが、彼女についての事柄で埋まっているのだと思う。出会った時から、ずっとそうなのだ。
不安、期待、愛おしさ、色んな感情がごちゃ混ぜになって……そうしていつも、彼女の歌声が幻聴となって聞こえてきて、何度もリピートして耳にする。
僕はどうしてしまったんだろう。もう、心がばらばらになってしまったみたいだ。
地面へ視線を落として歩き、何度も自分の爪先を目に焼き付けて、空の帳に自分の影が溶け込み始めた頃、ようやく旅館に戻ってきた。
「随分とゆっくりしてきたもんだな、浮気者」
着物姿で出迎えてくれた美咲さんは開口一番に、そんな辛辣なことを言う。
「彼女を除け者にして、もう他の女との約束を取り付けておくなんて、どんだけ気が多いんだよ、女ったらし」
僕は激しく面食らい、のけぞる。
「だ、だって……別に僕から誘った訳じゃ……」
「かまかけてみただけなのに、何をそんなに戸惑って襤褸を出している」
「なら、余計なこと言うなよ!」
怒り出す僕を尻目に、美咲さんはふう、と呆れるように溜息を吐くと、「彼女が待ってるぞ」と僕の背中を思い切り叩いてくる。
「なんでそんなに機嫌が悪いんだよ」
僕が言うと、美咲さんは「そう見えるのか?」とあくまでも無表情で言う。
「普通の人には能面にしか見えないだろうけど、僕には美咲さんの感情の機微なんてお見通しだからな」
「気持ち悪いこと言ってないで、さっさと行け」
そう言って彼女は腕を叩いてきて、すぐに立ち去ってしまう。まったく、素直じゃない。
美咲さんはいつも無表情で淡々としたクールな女性と思われることが多いんだけど、幼い頃から付き合ってきた僕には、彼女が今どういう感情を抱いているのか少なからず理解できる。
彼女にも楽しい時やつらい時が必ずある。美咲さんでもそうなんだ、僕のこの不安な気持ちも、彼女のように忍耐強く受け流すことができないのだろうか。
そんなことをだらだらと考えつつ、エレベーターを降りて部屋の前まで来ると、僕はそっとドアをノックした。
すると、走り寄ってくる足音がして、ドアがそっと開いた。
「おかえり」
彼女の顔には、もういつもの笑顔が浮かんでいた。僕はほっと息を吐く。自分では何もできなかった癖に、彼女の笑顔を見た途端に胸を撫で下ろしている自分がいる。どんだけ都合がいいんだよ。
「遅かったじゃない? 他の人と密会かな?」
笑顔のまま鋭い視線を向けてくるので、僕は「村を散策してたんだよ」と乾いた笑みを漏らす。
「音葉さんこそ何してたの?」
「私は……その、」
彼女は言葉を濁してお膳の前の座布団に腰を下ろし、視線を逸らす。
僕は向かいの席に座ってお茶を淹れながら、「今日はどうしたの?」と視線をちらりと向ける。
「別に……私は」
「せっかく友達に、ていうか親友に会えたのに、なんか浮かない顔して」
「うるさいな……こっちはこっちで事情があるの」
彼女は僕が差し出した湯飲みを荒っぽく受け取って、ふーふーと息を吹きかける。
「友達に会いたかったんじゃないのか?」
「別に、そういう訳じゃ、」
「確かに穂夏さんと会った時、嬉しそうな顔見せてたから」
その言葉に、音葉さんは硬直する。僕を食い入るように見つめてくる。
「何を……えらそうに」
「僕の錯覚だったかもしれないけど、やっぱり音葉さんは、」
「うるさい! 黙ってて!」
音葉さんは湯飲みをお膳に叩きつけた。僕はその激昂ぶりに戸惑う。
「私のことなんてこれっぽちも知らないくせに。よくもそんなこと、言えるよね」
そう言って彼女は睨んでくる。
「君の目には、私はどう映ってる? 罪深い人間かな? 狡猾な人間? それとも……」
彼女が前のめりになって、近づいてくる。その途端、手をぎゅっと握り締められた。骨までも捻り折られてしまいそうなほど、強く。
「僕は、」
掠れた声しか出ない。でも、ここで何か言わなくちゃ、僕は僕の責務を全うせず、放り出すことになる。だから、
「音葉さんはいつも明るくて、素直で、人当たりがよくて……何より、なんでもこなせるすごい人だと、思う……」
まだ二日しか時間を共にしてないのに、こんなことを言って意味があるんだろうか。でも、それでも僕は言わなくちゃいけない。彼女の笑顔が消えないように。その微笑が夏の火炙りのような光の中で溶けてしまわないように。
僕の言葉は、彼女に届いたんだろうか……僕はただその目を見つめる。すると、彼女の瞳孔が開かれた。その途端、湯飲みがお膳の上を転げていた。湖面のように鮮やかな緑が広がる。
彼女は鋭利な刃物を振るうように、壮絶な怒りの表情で僕を睨みつけていた。
「音、葉さん?」
「君は本当に、私のことを何一つわかってないんだね」
その表情に反して、零れ出た声は静かで、かすかに震えていた。けれど、そこに込められた激情はおぞましいほど色濃い。
「何一つ理解していない。一体私の何を見ていたの?」
そう言って彼女は僕の胸倉をつかむと、思いっきり引っ張り上げた。僕はそのまま彼女に引きずられていく。足が畳に激しく擦れて、肌が傷ついた。
彼女は無言でドアを開き、僕の体を廊下へ投げ出した。僕は板張りの床に背中を叩きつけられ、呆然と彼女を見つめる。
「……消えてなくなれ」
彼女はぽつりとそうつぶやき、そしてドアを勢い良く閉めた。その声が、いつまでも僕の頭に反響し、胸をごぽごぽと茹だてていく。
その声は、いつもの彼女のものではなく、そう、それはちょうど風呂で彼女がのぼせた時につぶやいた声のトーンに似ていた。禍々しい程に負の感情が込められていて、それでいて力強いその声。
僕は床の冷たく固い感触を背中に受けながら、呆然とドアを見つめる。ノブに映った、ひしゃげた自分の丸顔が泣いているようだった。
僕は情けないことに、彼女に拒絶されたショックから立ち上がることもできず、そのまま床に転がっていた。すると、「おい」と軽蔑したような言葉が響いてきて、視線を上げると、美咲さんがこちらに歩いてくるのが見えた。
「いつまで経っても飯食いに来ないからどうしたのかと思って来てみたが、床に這い蹲って何してる」
そのままげしげしと蹴り始めたので、僕は堪らなくなり、起き上がった。
「すみません。でも、音葉さんも僕も、今日は食事を抜きますので」
すると、美咲さんは突然僕の胸倉をつかんで捻り上げた。
「何言ってんだ、このチンカス。大地の恵みを無碍にするってのか? 地面に額を擦り付けてテラに謝れ!」
そう言ってぐいぐい額を押し付けてくるので、「食べますって!」と半泣きで叫ぶ。すると美咲さんは、
「だったら、早く来い。音葉の奴は一回引き篭もったら出てこないぞ、きっと。今日はこの部屋で寝ることはあきらめろ」
「じゃあ、僕はどうすれば……」
「床で寝ろ」
ふざけるなよ。さっきは床で寝ることが好きで寝転がっていた訳じゃないんだって!
「とにかく同僚を待たせてるから、さっさと行くぞ」
僕は溜息混じりに「わかったよ」とつぶやき、美咲さんの背中を追う。
本当に強引なんだよな、この人。でも、これが彼女なりの気遣いだったりするから。
遅めの夕食を摂った後、僕は美咲さんの申し出に従って、彼女の部屋に泊めてもらうことになった。罵詈雑言の数々を吐露する彼女だけれど、実際はとんでもないお人よしだったりする――なんてことはまるでなくて、
「パソコンの設定がわからないんだ。直してくれ」
実利一辺倒の彼女らしい要求を突きつけられて、僕は思わず嘆息する。
それから彼女が仕事を終えて帰ってくるまで、僕はパソコンの設定変更を手早く終えて、ネットサーフィンに精を出していた。気付くと、村の有名店舗のホームページを全部チェックしていたりする。すると、そっと襖が開かれ、美咲さんが部屋に入ってきた。
「終わったか?」
彼女はそう言って僕の肩に手を乗せて、パソコンの画面を覗き込んだ。開いていたページはこの村でも有名な和菓子屋のホームページで、美咲さんは「ふん」と言ってしばらく画面に見入った。
肩に体重が圧し掛かっている。それだけでなく、首筋に熱い吐息が吹きかかってくるから、わずかに動揺する。早くどいてくれよ。そう思っても、彼女の落ち着いた雰囲気が妙に気分を和ませてきて、何も言えなかった。
「和菓子か」
篝火で炙ったような、熱のこもったその声。
昔僕らは一緒に村を駆け回って、そしてあの店で、季節の香りが花開くあの味を知ったんだ。それは僕らにとって一生に一度だけの感動で、あの時の感覚はいまだに舌から消えずに残っている。それはきっと、美咲さんも同じだ。
「水まんじゅうが食いたいな。あの柚子餡がまた堪らないんだな」
そう言っている美咲さんの顔は無表情のままだけれど、それでも僕にはわかった。無表情の中でもちゃんと笑顔が現れていることに。本当にわずかだけれど、口角が上がってるし、目尻の皺も深くなっている気がする。ほんの少しの変化だけれど。
「材料の良し悪しで言うと、蜜柑屋の原材料の品質は最高級だからな。それでいて自然素材の美味しさもきちんとバランスよく出ているし、ひとつひとつ、丁寧に仕上がっているから、当たり外れなんてものは絶対にない。お茶を引き立てるその味わいに加えて、自然折々の四季の趣を呼び起こすその完成度は食した者を唸らせること間違いなしだ。味、色、形、香り、すべての要素で調和している事実は、まったく芸術品としてもまったく一級品だ」
美咲さんは気づけば、僕の手からマウスを奪って、色んなページを開いていた。
彼女の頬が僕の頬と擦れ合った。その、わずかに火照った肌。
それでようやく美咲さんは我に返ったようで、後ずさって壁に背中を打ちつけた。
「えっと……僕、ここからどいてるから」
そう言って身を引くと、彼女は「いや、いい。パソコンはもう閉じてくれ」と言って洗面所の方へ歩き去ってしまう。
思わず僕は微笑む。あんな楽しそうな美咲さん、久しぶりに見た気がする。
「布団、敷いておいてくれ」
洗面所の方から美咲さんの声がする。うん、と僕はうなずいて襖を開いて布団を出し――。
そうして、布団が一式しかないことに気付く。……あれ?
すると、美咲さんが戸口から顔を出して、「布団は一式しかないから、今夜は一緒に寝るぞ。少々きついかもしれないが、我慢しろ」と言って、戻っていった。
僕は羽毛布団を手にしたまま、硬直するしかない。
おいおい……昨日といい、今日といい、どんな拷問だよ。
いくらなんでも若い女性と同じ布団で寝ることはできないので、僕は座布団を敷いて眠りにつくことにした。やっぱりよく眠れなかった。美咲さんは早朝に起きてきたので、実質数時間しか眠れなかったことになる。
「とにかく彼女に謝れ。それで追い返されたら、もうあきらめろ」
美咲さんはそう言って部屋のドアを施錠し、背中を叩いて僕を送り出して、職場に向かっていった。
……なんだか憂鬱だな。なんて謝ればいいんだよ。
四階のその部屋まで来ると、僕は深呼吸して、そっとドアをノックした。それでも返事はなく、もう一度ノックしても、彼女は出てこなかった。
そっとノブを握る――すると、開いた。僕はなんだか下着泥棒のような心持ちで中へと入る。主室には誰もいなかった。洗面所をのぞく。すると、彼女が鏡と向かい合ってじっと自分の顔を見つめていた。
声をかけるのを躊躇ってしまう。彼女の瞳があまりに切実で、真剣な色に満ちていたから。
「音葉は……ここにいる」
彼女がぽつりとつぶやいた。
「ここに、いるの」
そう言って彼女は鏡に顔を近づけ、微笑んだ。僕はその顔を見て何も言えなくなって、震えてくる足腰を必死に踏ん張らせて立った。
彼女がそっと鏡を離れたので、僕は反射的に玄関まで引き返す。彼女が洗面所から出てきて、「あ」と僕を見つめた。
そうして僕と彼女の視線が繋がった。お互いにどこか居心地の悪さを感じて、目を逸らし合う。それでも、
「昨日は……ごめん」
このまま躊躇っていたら、いつまで経っても謝れそうになかったから、僕は掠れた声でつぶやいた。
「君を傷つけたのなら、謝るよ。ごめん」
すると、彼女がどこか揺れる瞳をこちらに向けてくるのが視界の端に見えた。
「私こそ……突然部屋から叩き出したりして、大人気なかったよ」
彼女はそう言って苦笑して、「まだあの契約は続いているよね?」とつぶやいた。
――その、契約。
今、きっと僕の顔はだらしなく緩んでいるに違いない。僕は人形のように顎をこくこくとうなずかせて、彼女の言葉に肯定した。
すると、ようやく彼女の顔に蕾が開いたような淡い微笑が浮かび、「ご飯食べに行こう」と僕の腕を取った。




