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私服姿とホームラン

 そうして翌朝。僕は最悪の気分で目を覚ました。眠ったのはつい数時間前で、全然休めなかった。あのまま玄関で寝たという訳ではなくて、ちゃんと真綿布団のほわほわでしなやかな感触に包まれて寝たんだだけど、どうしても眠れなかった。

「す……すう……」

 すぐ傍らで眠っている彼女の寝顔をそっと見遣ると、瞼の内で眼球がわずかにきゅるきゅると動いている。僕の両足に、そのしなやかなかかとと太ももが乗っていた。

「……ううん」

 彼女がわずかに身じろいだ途端、両足が振り上げられ、僕の腹に食い込んだ。僕は激しく呻いて、畳の上を転げ回った。

 彼女の目が開き、「うん……?」とどこか妖艶な声を漏らしながら、起き上がる。

 目をぐしぐしと擦って、そのとろんとした瞳を僕の顔へ向けてくる。

「あ、おはよう」

 彼女の無防備な姿に僕はもう脱力するしかなく、「おはよう……」と溜息混じりに声を返す。

「うわ、もう七時じゃない! お腹も空いてるし、さっさと着替えよう!」

 彼女がそう言って突然浴衣の帯に手を掛けたので、僕は慌てて部屋を出て、襖を閉めた。唐紙障子の向こう、背後からくぐもった衣擦れの音が聞こえてきて、僕はまた動揺し始め、玄関を見渡してインテリア風水を確認する作業に没頭した。

「何恥ずかしがってるの? もうそんなこと気にするような仲じゃないでしょ?」

「あのね……僕らはまだ昨日出会ったばかりなんだよ?」

「いいじゃない。私の肌見たんだし、昨日は一緒に寝たんじゃない」

「いや、本当はそれが問題なんだよ……」

 僕がぶつぶつとつぶやいている間に、彼女は手早く着替えて襖を開けた。支えを失って倒れ込みかける僕の目に映ってきたのは、彼女の私服姿だった。思わず声を失ってしまう。

 あれ……? もう浴衣しかないはずだけど……。

 彼女ははにかむように笑って、「美咲さんに頼んだんだ!」と叫ぶ。

「美咲さん、そんな女の子っぽい服持ってたの?」

 モロッコ風のスカーフの柄を全体に散りばめた、肩ひもの付いたなかなか可愛らしいワンピースだった。その上に、シンプルなVネックのサマーカーディガンを羽織っている。

 なんというか……正直言って、可愛い。私服を着るだけでここまで変わるもんなんだな。昨日あんなことやそんなことをしてしまった自分に対して激しい罪悪感が湧いてくる。

 見入っている僕に、彼女は何故か眉を逆立てて怒り始める。

「あのね、美咲さんはれっきとした女性だよ? この服だって、美咲さんに選んできてもらったんだから。光彦は彼女の何を見ているの? ほんっとに最低だね!」

 面と向かって「最低」と言われると、もうへこむしかない。でも、あの美咲さんだよ? お金渡したら、ジャージ一式買ってきそうなものだけど。

「もう! とにかく早く着替えて! 美咲さんが朝食の用意して待ってるんだから!」

 彼女は僕の背後に回りこむと、ぐいぐい背中を押してきて、部屋の中へと押し込んでくる。

「とにかく早く! 制限時間は四十五秒! よーい、スタート!」

 彼女が掛け声を上げて、ぴしゃりと襖を閉めたので、何に急き立てられているのかわからないまま、僕は浴衣を脱いで急いで着替え始める。

 なんで僕、こんなに彼女に尻に敷かれてるんだろう。この立ち位置がずっと続くのか? なんだか不安になってきた……。


 朝食を食べ終えると、彼女は今日も海に行きたいと言い出した。

「だって、追われてるんじゃなかったっけ?」

「大丈夫よ。もうこんなに髪の毛短くしたんだもん」

「服装が女の子だから、もろにわかると思うけど……」

「ああもう、うるさいな! 後ですぐに着替えるから!」

 じゃあ、何の為に着替えたんだよ……。

 すると、彼女は湯飲みを啜りながら顔をしかめて、ぽつりと言った。

「わからないなら、もういい。馬鹿たれ」

 ひどい言われようだな、おい。どんどん扱いがひどくなっている気がする。


 そういうことで、彼女はTシャツにチノパンツという格好に着替えて、僕達は旅館を出た。

 緑のグラデーションが果てしなく続く田舎道へと出ると、虫の重唱が聴覚を覆う。

 彼女は近辺に住んでいるはずなのに、ここの界隈の土地柄にはまったく疎いのか、僕の服裾を握ってどこか心細そうに背後から付いてくる。

 碧海は、日中なかなか人が集うスポットなので、人目につくことを忌避している今の彼女には、注意深く場所を選んであげないといけない。だから僕はとある場所へ向かっていた。

「そんなにとっておきの場所があるの?」

 彼女がどこか気だるそうな声でつぶやいた。

「うん……子供の頃によく行ってた場所なんだけどね。もう人目に触れてるかもしれないから、その時は夜まで待つしかないけど」

 舗装されたアスファルトの道路が続く区画へと出ると、中学校の門が見えてきた。

「ここは知ってる。何度も来たから」

 彼女が突然ぽつりとつぶやいた。

「もしかして、この中学校に通ってたの?」

「……うん」

 彼女はそう言って、突然僕の腕をぐいと引き寄せた。

「気を付けて。周囲に目を光らせていて」

 僕は目を丸くする。どういう意味?

「私が前を歩くから、君はその後ろにゆっくりと付いてきて」

 そう言って、彼女は中学校の門の前をそっと歩き出した。僕は言われた通り、その背中を追いながら、ちらりとグラウンドを見遣る。

 野球部員達が牽制しあうように野太い掛け声を飛び交わせて練習に励んでいた。バッドを打ち鳴らす小気味よい音が断続的に聞こえてくる。

 ホームベースの辺りでバッターが豪快な打球を空高く舞い上がらせた。それは斜めの軌道を描いて跳ねて――。

 それが突如方向を変え、落下してきた。

 悪寒が脊髄を伝い落る。僕は何か声を上げて、彼女へと振り向いた。けれど、間に合わない。打球はまっすぐ彼女へと向かっていき――。

 彼女は気付いていないのか、じっと前を向いていて、彼女の脳天がかち割れるまでの最後の刹那――。

 そっと彼女の左手が持ち上げられて、『振り向かずに』、手でボールを受け止めた。僕は目を見開く。なんだ……? 素手で、受け止めた?

 彼女が足を止め、こちらにゆっくりと振り返る。その、感情の篭もっていない瞳。

「本当に、すごい偶然だね」

 彼女はそう言って笑った。そうしてそっと門の先へとボールを放って、腕を伸ばして僕の手をつかんでくる。

「行こう」

 彼女は僕の手を引いて、その途端、駆け出した。僕は足がもつれそうになりながら、その後頭部を食い入るように見つめて、精一杯追いついていく。




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