白ポプラ、その歌声
なんとか彼女を着替えさせ(大事な部分は絶対に見ないようにした)おぶって部屋まで運び、布団に寝かしつけた。彼女が首筋に腕を巻きつけたまま離そうとしないので、それを解くのに苦労した。
彼女はきっと人一倍、孤独を恐れているんだと思う。他人と喋る時の言葉遣い、身のこなしから判断するに、かなりの器量の持ち主なんじゃないかと思う。つまり、どこかいいとこのお嬢様じゃないかってことだ。
そんな彼女と同じ部屋に泊まるなんて、なんだか考えるだけで気分が重くなってくる。どうしよう。今日、眠れるだろうか。
僕はそっと部屋を出て、廊下の奥にある自販機で缶コーヒーを買って、壁にもたれかかってちびちびと飲んだ。缶コーヒーによる調査でたびたび首位を獲得しているあの銘柄だ。バランスよく加味された香料、適度な乳成分……このコーヒーを飲まなくちゃ、僕の朝は始まらない。今は夜だけど。
こんなどうでもいいことを考えているのも、動揺しているせいかな。もう一口飲もうとすると、突然手から缶がもぎ取られた。
振り向くと、美咲さんがぐびぐびと缶をあおっている。
「返してください!」
美咲さんは「何、飲むフリだ」と言って、そのまま半分ぐらいに減った缶を突き返してくる。
彼女は私服を着ていて、ハーフパンツからのぞく滑らかな太ももに目がいって、僕は自然と視線を逸らしてしまう。
「どうだ、彼女の様子は」
「今、風呂でのぼせて、部屋で寝てますけど」
美咲さんは顎に手を添えて、まじまじと僕の顔を見つめてくる。
「もうそこまで気を許すような関係になったのか。お前は昔から女ばかり引っ掛けてそのたびに泣かせていたが、今回はどのくらい続くのか」
「彼女とは、そんなんじゃないって」
僕が唇を尖らせて言うと、美咲さんは「少しからかっただけだ」と言って身を引き、僕の隣に並んで壁にもたれかかった。
「お前に渡しておかなくちゃいけないものがある」
僕はなんとなくそれが何か予想できて、「いりませんよ、そんなもの」と言う。
「なんだ、お前。そんなことで責任持てるのか」
「あんたの頭の中では、僕はどんだけ最低な男なんだよ」
「そうだな、今も昔も、お前は私の心の中ででかい地位を占めている」
そんなことを真顔で言うものだから、僕は挙動不審に視線を逸らしてしまう。
「冗談でもそういうこと言われると、照れるんですけど」
「地位といっても、それがプラスの意味だとは言ってないぞ」
「そうですか!」
そんなに僕、嫌われてるのかな。
「ふむ、嫌ってはいない。というより、好き嫌いをもう超越してる。どれだけ長い付き合いだと思ってるんだ」
「そうですよね、小さい頃からよく一緒に遊んでましたし」
そう言ってちらりと視線を向けると、美咲さんは何故か唇をすぼめていた。
「美咲さん?」
「なんで、今頃になって突然帰ってきたんだ?」
僕はしばらく押し黙る。美咲さんがその無表情を困惑へと変える。
「連絡も寄越さずにいきなり帰ってくるから、動揺したぞ。一体どうしたんだよ。あんなに濡れて、血みどろになって」
「遊んでいたら怪我した……そう言っても、信じてくれませんよね?」
「私はあの子が誰だか知ってるぞ」
僕は勢い良く顔を上げ、彼女の肩をつかんでいた。それでも言葉が出てこなくて、僕は口を開け閉めすることを繰り返す。
「とにかく落ち着けよ」
美咲さんは僕の手を自分の肩から下ろす。
「家の関係者が、今日この旅館にやってきて、彼女の所在を聞いてきた。かなりの剣幕だったぞ。あの子と関わっていて、大丈夫なのか、お前」
僕は再び壁に背をもたせかけ、爪先に視線を落とす。やっぱり彼女はそういう出身なんだな。
彼女を幸せにするって約束したじゃないか。あの言葉は嘘だったのか?
やがて美咲さんはぽんと肩に手を置いて、言った。
「まあ、そんなに心配するな。あいつらが来ても、私がうまく誤魔化して、追い返すからさ」
僕は「すみません」と弱弱しく言葉を漏らす。
「じゃ、私はもう行くわ」
美咲さんは未練もなく背を向けて立ち去ってしまい、僕ものろのろと歩き出した。そのまま飲みかけの缶をごみ箱に突っ込む。反響する足音が脳幹に響いて、心のあぶくを一層溢れさせる。
なんでこんなに不安がっているんだよ、僕。
たぶんこれは、彼女の闇に呑みこまれることを恐れてるのかもしれない。それは思っている以上に根深く、大きいのだと思う。
会って間もないけれど、それを僕は自然と理解していたんだと思う。
でも、それでも。
「菊」のプレートの掲げられたドアに鍵を差し、開いた。そうして、まず聞こえてきたその高音に、僕は瞬間、ブラド・チェぺシェの鉄腕によって心臓に杭を深く打ち込まれた、そんなとてつもない震えと衝撃を感じた。心ではなく、文字通り全身に感じた。
ドアに半身を滑り込ませたまま、動けなくなってしまう。オーロラを描いた美しいビジョンが、僕の脳裏を埋め尽くす。高周波数で震動するその声は力むことなく、潰れることなく柔軟であり続け、その絶妙な周波と自然的な女神の鼓動が全身の血流を湧き立たせる。
最大限に切り詰められた呼吸死空。それでいて、ゆとりのある呼吸。その天性の呼吸法。
哀しみを哀しみとする、言葉を噛み締めるように発音された、そのフレーズ。
無理のないブレス。天界の入り口をのぞくように、高音域に突入する――安定的に、綺麗に響くミックスボイス。
エーリュシオンに降臨した音楽の女神が、七色の恩恵を施していく。レウケーの化身である白ポプラ、なおシルクの歌声を広げる女神達。ハーデスさえも巻き込み、至福者はさらなる歓喜に打ち震える。
どこか幻想的で、しかし魂を轟かせる熱情が含まれている。そこにはプラスもマイナスも存在しない。あるのは、ただ、その女神の微笑みだけだ。
僕はゆっくりと扉を開いて部屋に踏み込み、ゆっくりとテラスへ踏み出していく。欄干に両手をつき、こちらに背を向けて歌っている彼女。黒髪がなびき、横顔は見えない。
きっと彼女は今、目でも歌っている。
僕はそっと窓枠に手を添えて、じっとその細い背中を見つめていた。その一つ一つの声が消え失せても、僕の頭の中でずっと反響していた。鐘のように。海の潮騒のように。葉擦れの音のように。
僕は思わず熱い吐息を深く零した。その音がテラスに響いた途端、突然彼女の歌声が止んだ。その肩が飛び跳ね、ものすごい勢いでこちらに振り向く。
その顔は熟れたトマトのように真っ赤になっている。なんでそんなにびっくりしているの? でも、今はそんなことより、感動するあまり僕は喉を詰まらせていて、彼女の方へ駆け寄ろうとする。けれど、
「なんでここにいるの!? どのくらい前から聞いていたの!?」
その恐ろしい剣幕に、僕は立ち止まり、徐々に後ずさる。「えっと、一分前?」とつぶやく。
「馬鹿! 盗み聞きなんて、本当にタチ悪い……!」
彼女はテラスから出ると、足元にあった枕をつかんで、華麗なフォームで投げてきた。
「ちょ、待って!」
叫ぶのも空しく、それは顔面の中央に激突する。勢い余って、布団に倒れ込む僕。
「何私の布団で寝てるのよ! もう、本当に変態! こそこそして、ムッツリだったんだね!」
「いや……その、」
仕舞いには彼女は僕を足蹴にし始めたので、僕は慌てて玄関まで退散する。
「もう入ってこないで!」
彼女は髪を逆立てながらそう絶叫し、ぴしゃりと襖を閉めた。僕はその芭蕉布の襖紙を呆然と見つめるしかない。
どうして? なんでそんなに怒ってるの?
「変態! 痴漢!」
「そんなこと言われても……僕だって偶然出くわしただけで、」
それに、これじゃあ、寝れないよ……。
「そこで寝れば?」
なんたる仕打ち……。




