変装
僕らは風呂に入って着替えを済ませた後、「菊」と名付けられた、なかなか上等な部屋に案内された。
主室は八畳間で、テラスへと続く部分は吹き抜けになっていた。床の間は綺麗に磨かれて静謐な雰囲気に包まれており、なかなか趣向が凝らされた部屋だった。
僕は美咲さんから救急セットを借り、少女から手当てを受け、そのまま時刻は六時を過ぎ、夕食時になる。
従業員の方が部屋を訪れ、お膳に料理が並べられた。
食前酒、先付、旬菜、香り、と来たところで彼女が箸を止め、なんでとっとと自己紹介しないかな、と溜息を吐いた。
「私達、同じテーブルについてご飯食べてるけど、まったくの他人なんだよ? この構図は可笑しいぐらいに奇天烈だよ」
「まあ、確かにそうだね」
僕は彼女のグラスに烏龍茶を注ぎながら、
「氷室光彦……僕の名前。今一人旅の最中でね。今日から夏休みだったから」
「……私は矢切音葉って言うの。今日が終業式。でも、嫌になって抜け出してきたの」
「なかなかチャレンジャーだね。僕も昨日、とんずらしてぬいぐるみ買いに行ったよ。アルマジロの」
気持ち悪い趣味だね、と少女は顔をしかめる。
「今頃、父さんと母さんは必死に私を探してると思う。まあ、気にしないけど」
それきり彼女は黙り込んでしまう。僕はとりあえず言うことがないので、
「あ、海老があるよ。あげる。好きでしょ?」
「ありがとう」
「りんごジュースもどう? 好きでしょ?」
「うん」
そうやって彼女の好きそうなものをチョイスして振舞っていると、彼女は眉をひそめ、気味悪がった。
「なんで、私の好きなものを全部知ってるのかな? エスパー?」
「君の顔を見ていると、色んな食べ物が脳裏に浮かんでくるんだ」
「なにそれ、気持ち悪」
そんな他愛もないことを話しながら、料理のコースが止肴まで来たところで、少女が首を傾げながら言った。
「前から言おうと思ってたんだけど、なんで手ぶらなの?」
僕は首を傾げたけれど、やがて大きくうなずいた。
「ホントだね」
「どうするのよ、これから。荷物どこに置いてきたの?」
「最初から持ってこなかったみたいだね。財布もないみたい。今頃海の中かな」
すると、少女は大きく溜息を吐き、「どんだけ抜けてるのよ」と呆れたように言った。
音葉さんはとりあえず、僕の宿泊費も捻出してくれると言う。どこにそんな金があるのかと聞いてみたら、「さっきお金、いっぱいおろしてきたんだ。しばらく困らないぐらいに」とさらっと澄まし顔で言ってのけた。彼女は結構いい育ちをしているのかもしれない。
従業員が食事の後片付けを済ませて出て行くと、部屋の中に僕と彼女だけが取り残される。すると、彼女はどこか決意を滲ませた表情でこちらを見てきて、その真剣な眼差しに自然と僕は畏まった。
「さっき、追われてるって言ったよね?」
彼女はぽつりとつぶやく。僕はうん、と大きくうなずいた。
「今から私、男になる」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。男になる?
「だから、君も手伝って」
「まさかその長い髪、切っちゃうの?」
「そう」
音葉さんはうなずいて、さっき美咲さんに借りたのか、大きなハサミを差し出してくる。
「君が切って」
「ほんとにいいの? かなりバッサリいっちゃうけど」
「いいの」
音葉さんはテラスへと降りて椅子に腰かけて、こちらに背中を向けてくる。その長く艶やかな髪が肩から滑り落ち、風にふわりと浮き上がった。
「あそこに戻るくらいなら、すべてをなくしてしまう方がずっといい。……だから、お願い」
僕はやがて息を吐いて、「わかったよ」とうなずいた。差し出された布を受け取り、彼女の肩に置いた。
「バッサリいくよ」
「うん」
そっと刃先を彼女の髪に突き当てた。
微かに彼女の肩が震え、でも僕は構わずに刃をスライドさせた。髪が宙を舞い、地面へはらりと落ちる。
そこでふと手を止める。すると、
「早く。決心が揺らがないうちに」
僕は唇を引き結び、もう迷うことなく作業を進めた。




