旅館へ
ようやく波打ち際まで戻ってくると、僕達は砂浜の上に体を投げ出して、へたり込んだ。彼女は息を切らせながらも、「どうしてあんなことしたの」と血に濡れた僕の手を見つめて、言った。
「気付いたら、ナイフをつかんでたんだ」
弱弱しく笑う。そんなことよりも、彼女が生きる道を選んでくれたことが嬉しかった。
彼女はそっと制服のポケットから濡れたハンカチを取り出して、僕の血を拭い取り、それを手に巻きつけてくれる。
「本当に、馬鹿だよ、君は。なんで、素手でナイフをつかむかな」
そもそも君があんな行動を取らなければ、こんなことにはならなかったはずだけど、と思ったけれど、僕はただ「よかった」と言葉を漏らした。
「死んでしまったら、何もかも終わりなんだ。悩むことも、嘆くことも、悲しむことさえできない。生きているからこそ、人は何かを感じることができるんだ」
彼女は視線を逸らし、「説教する気なの?」と言う。
「いや、生きててくれてよかったってただそれだけ」
「初対面なのに、なんでこんなに親しげなのかな」
彼女は溜息を吐き、立ち上がる。
「とにかく手当てしないと」
僕は歩き出そうとする彼女の裾をつかんで引き止める。
「僕のことはいいから。このままだと君が風邪を引いちゃうから、とにかく着替えを用意しなくちゃ。この村には知人がいるから、その人に頼もう」
ビーチを出てすぐのところ、横断している道路を渡り、そのまま道に沿って坂道を上ると、瓦屋根の大きな屋敷が見えてくる。高い塀に囲まれた敷地を半周したところで、その門が現れた。「水簾荘」という見事な達筆で書かれた看板が掛かっていた。
「知り合いがここで働いてるんだ。アポ取ってないけど、きっと温泉に入らせてもらえるよ。ついでに着替えも借りられると思う」
すると、少女は周囲へちらりと視線を向け、「ねえ」とどこか言いにくそうにつぶやいた。
「今日、ここで泊まっていいかな」
僕は首を傾げた。
「別にいいだろうけど、なんで?」
「私、追われてるんだ」
「え?」
彼女は何かを言い掛けて、しかしすぐに俯いてしまう。
僕は彼女の顔を見つめていたけれど、やがてうなずき、「わかったよ」とうなずいた。彼女はそっと顔を上げて弱弱しい笑みを浮べて、「ありがと」とうなずいた。
門をくぐると、手すりつきの石階段があって、そこを上って玄関まで来ると、館主と従業員が明るい声で挨拶してくる。彼らはその途端、僕らの姿を見て、ぎょっとした顔をする。
僕が「美咲さんをお願いします」と言うと、館主と従業員が顔を見合わせ、すぐにうなずいて建物に入っていった。その後すぐに美咲さんが出てきた。
肩で切り揃えたその髪は、琥珀を溶かし込んだような色合いをしている。その目は細くて鋭く、端整な顔と相まって、怜悧で気丈な雰囲気を漂わせていた。
彼女は眉を寄せながらこちらに近づいてきて、目の前で立ち止まった。僕らは見詰め合う。
「お前……光彦か?」
彼女は僕の顔を食い入るように見つめて言った。
「久しぶりだね、美咲さん」
僕が微笑むと、美咲さんはさらに眉間に皺を寄せて顔を近づけてきて、鋭い視線で僕の顔を射抜いた。
「見惚れてるのかな?」
僕は笑う。
「馬鹿か。ていうか、お前本当に……光彦か?」
「見てわかるでしょ?」
「外見は光彦だが、雰囲気が違う」
彼女はそう言ってしばらく僕の顔を見ていたけれど、すぐに身を引いて「まあいい」と首を振る。
「とりあえず用件を聞こうか」
「温泉に入らせて。そして、着替え貸して」
すると、美咲さんは舌打ちをして、「面倒臭いことしたもんだな。こっちに来い」と建物の中に入っていく。
突然大正時代にタイムスリップしたかと錯覚するような、趣深い外観の玄関へと入る。僕らは三和土から館内へと上がり、そんな中、美咲さんが、従業員から受け取ったタオルを僕達に手渡してくる。
廊下のガラス戸から、新緑の鮮やかな庭園が見えた。廊下一帯は静謐な雰囲気に包まれていて、庇や格子、それから障子によって、ほのかな明暗が演出され、落ち着いた雰囲気を形作っている。
「まったく、一番忙しい時間に来やがって」
美咲さんは吐き捨てるようにそう言う。
「いいじゃん、久しぶりに会えたんだからさ。まだ部屋は空いているの?」
すると、美咲さんは僕を睨んできて、「思春期のガキが二人で寝泊りか」と言って、僕の隣にいる彼女を見やった。少女はどこか萎縮したように肩を縮め、
「別に、この人と同じ部屋に泊まるっていうわけじゃ……」
美咲さんは「二つは空いてないぞ」と言った。
「一部屋だけだ。間違いが起きるかもしれないが、私には関係ないことだからな」
「そんな……」
少女は動揺する。
「でもまあ、そこの男はそういうことにはまるで興味がない人間だから、安心していいと思うぞ」
少女がちらりと視線を向けてきて、「本当?」と問いかけてくる。
「大丈夫。もしもの時はちゃんと責任取るから」
「お前、心構えする部分が違うだろ」
「冗談だって」
「まあ、もしもの時は私の部屋に来るといい。一応、館主に事情を説明してみるから」
すると、少女は「ありがとうございます」と深く頭を下げる。
「ふん、まあ光彦には貸しがあるからな。これでチャラだ」




