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誰も立ち止まらない

 時刻は五時半、場所は駅の近くの交差点で、信号の前だ。できるだけ弾き語りをしても苦情が出ないような場所を選んだつもりだ。

 信号を待っている人々は興味があるのか、僕らをちらちら見ている。それを確認しながら、僕はギターを構えて、彼女にそっと視線を向けた。

 こんなところで歌うのは初めてだからなのか、彼女はどこか緊張している様子だった。体が硬直してしまっている。

 そんな彼女に対して、僕は「大丈夫だよ」と笑った。彼女はそっとうなずき、僕は呼吸を落ち着かせた後に、奏で始める。

 ギターの旋律が流れ出して、おずおずと彼女の歌声がそれに続く。周囲の視線が急激に冷めたのがわかった。信号が青になって、あっという間に僕らの前には誰もいなくなる。

 その事実が彼女の心をさらに縛り付けたのか、声が抑えられてしまって、歌詞の発音が滑らかでなくなっていった。顔色が青ざめて、俯いてしまった。

 僕はそれでも演奏を止めず、彼女に笑顔を向け続けた。彼女の傷だらけの心は、もう飛べるところまで来ているはずだから……あくまでも羽ばたかせるのは、僕の役目だ。

 それでも、彼女の目つきが突然変わったのは想定外のことだった。

 彼女は満面の笑みを浮かべて、歌い始めた。体の強張りは解けて、笑顔が浮かんでいる。人が変わったように、明るい声で歌い出した。

 その天才的な歌唱力が人々の心に伝播する。砂漠の中で、一輪だけ咲いたそのアルメリアに、飢えた生物達が集まってくる。

 想像を絶する歌を耳にしても、僕は何故だか手足の先が冷たかった。しかし、僕の手は独りでに動いて音楽を奏でていった。

 それが、僕の囚われだ。何の魂を込めていなくても、指が足先が喉が震えて、勝手に音楽を紡ぎ始めてしまう。

 これでは、僕らの奏でる音楽は機械的なものになってしまう。僕の想いも彼女の感情も、歌に篭もっていないのだ。

 僕はいつしか演奏をやめていた。彼女の歌だけが、しばらく走り続けた。けれど、その声は尻すぼみになっていく。

 僕らの前に集まりかけていた人々も、すぐに散っていく。僕は空のギターケースをそっと拾い上げて、彼女に歩み寄った。彼女は拳を握り締め、足元をじっと見つめていた。

「君は、機械になる必要なんてない。僕らはまた出直せばいいよ」

 そう言って僕は彼女の手を握って、歩き出す。音楽は消え失せ、雑踏の中に僕らの足音は消えていく。後に残ったのは、アスファルトを叩くピンヒールと革靴の音だけだった。


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