その、契約
この海に来るのは、七度目だった。
汗で粘ついた首筋を、水平線の彼方から吹き付けてくる暖かな潮風が優しく撫でていき、その湿気を拭い取っていく。
視線を伸ばせば、透き通るような水面が目に染み入ってくる。青空から、夏の日差しが燦燦と降り注いできて、さらに足の指に絡んでくる白砂は、ほんのりとした熱さを纏って、シーツのように柔らかかった。
半月状に続く砂浜と、海底が透けて見える美しい水面が果てしなく続いている。
ここは碧海と言って、碧外村の南東にある大きなビーチだ。この村には僕の親戚が住んでいて、僕は小さい頃から何度もこのビーチを訪れ、遊び尽くした。
あの頃から何一つ変わっていない、その景色。
目にすると、僕は自然と微笑み、息が弾んでくるのを感じた。
そんな中、波打ち際に沿って歩いてくる一人の少女に気付いた。その姿を認めた瞬間、僕は息を呑み、思わず足を止める。
その長い黒髪は、今まで見たことがないような深い黒に染まっていた。日差しを受けた部分が、薄い七色のヴェールを纏っているようで、しっとりと湿っているようにも見えるその房は綺麗な曲線を描いている。
白い半袖からのぞく、その腕は折れてしまいそうに細い。しかしそのラインは細いながらどこか艶かしくもある。
鼓動が激しく高鳴っていく。
なんで、どうしてこんなに切なくて、でも穏やかな感情が湧いてくるんだろう。僕はそっとTシャツの胸の辺りを握りしめる。
オブシディアンのような、真っ黒で艶やかなその瞳。その中から、灰色の凝り固まった何かを見出した。それは不安や恐怖、絶望といった底冷えのする感情だ。
何故、そんなに悲しげな目をしているのだろう、と思う。
彼女が一歩、また一歩と近づいてくる。そして、ようやく僕のことに気付いたのか、彼女は顔を上げた。食い入るように僕を見つめてくる。
僕らの間で、言葉では形容のできない、どこか戦慄するような沈黙が降りた。彼女は何を思っているのだろう――僕も何に対してこんなに驚いているのかわからなかった。
彼女はやがて無表情のまま近づいてきて、僕の目の前に立った。どこか甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。
「君は、」
彼女は唇を震わせてぽつりとつぶやく。その、どこか高くて透き通るような声が頭に反響してくると、僕は身が竦んでもう何も言えなくなる。
「初めての人、だね」
彼女は身を乗り出して、じっと僕の顔を見つめてきた。
「君だったら……いいかもしれない」
彼女はそう言ってそっと制服のポケットに手を入れ――。
その瞬間、眩い光の筋が宙を切り裂いた。
喉元に突きつけられた銀色の刃先を呆然と見つめる。呼吸することもできず、ただ身を硬直させる。
「……お願い」
彼女は上目遣いで見てきてそう言う。
「一緒に死んで」
必死にそれを否定しようとしても、ナイフが肌に食い込んできて、言葉が出てこなかった。ツ、と雫が首から伝い落ちていく。
彼女が足を踏み出し、僕は海の方へと後ずさる。
「死んで」
彼女は同じ言葉を繰り返す。水の冷たさに足先から徐々に感覚が消えていく。
僕はようやく「……待って」とつぶやいた。けれど、彼女は進み続け、すぐに僕らの体は胸まで水に浸かってしまう。
「どうして、こんなこと……」
僕が呆然とつぶやくと、彼女は言う。
「この夢を、終わらせたいの」
そうして、ぎり、と歯ぎしりをした。
「同じ悪夢を何度見ればいいのかわからない。もう嫌になったの。だから、一緒に死んで」
彼女は僕の肩をつかみ、押し倒そうとした。僕らの体は重なり、そのまま水面へと倒れ込んでいき――。
その時、僕の中で何か抗いようのない衝動が駆け巡った。
彼女は今、こんなにも悲しそうな目をしてる。生きている意味がわからないと頑なに信じたまま、死なせていいのか?
何一つ、幸せを見つけられないまま、海の藻屑になっていくだけだ。それで、いいのか? いや、
「駄目だ」
右手に痺れが走った。少女が体を震わせ、目を瞠る。
――僕はナイフの刃先を右手で握っていた。ゆっくりと彼女の手から奪い取る。
水面に、絵の具を落としこんだような真っ赤な染みが広がる。僕は彼女の肩をつかんで、足を踏ん張ってバランスを取った。
「捨てる命があるなら、僕にくれ」
彼女の顔に困惑げな表情が浮かぶ。僕はそっと彼女の細い肩を押して、波打ち際へと誘導する。
「その命、僕に預けてくれ。必ず、幸せな人生にしてみせる。生きててよかったって思わせてあげるから。――だから、君の命を僕にくれ」
何を言ってるのだろう、僕は。でも、彼女の命を救いたくて、僕は「お願いだから」と言葉を繰り返す。
すると彼女は僕の顔を見つめ、涙の滲んだ声で「何を言っているの」と震えながらつぶやく。
ただ彼女をまっすぐ見つめる。すると、やがて彼女は視線を伏せた。
「本当に……信じてもいいの?」
躊躇いがちに、途切れ途切れになった声で言う。
僕はうなずいた。すると、彼女は顔を伏せて、押し黙った。やがて、強張っていた肩から力が抜ける。




