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東の果てで

作者: 桜葉

 かつて、太平洋の東に位置する小さな離島に、人と竜や動物達が暮らしていた。

 けれど時が経つにつれて、人間は山の動物を敵と思い、森を自分らのためにある道具だと思い込んだ。

自分達の領地を広げようと、森に囲まれていた島を開拓し始めた人間は、竜や動物達を森の奥へ追い込んでいった。

木を切り、森の生き物を殺し、多くの死んだ大地を手に入れた。

 それから数百年後、森は島の半分になってしまった。

 竜達が姿を見せることはなくなり、動物も同じように姿を見せるようなことなどなかった。

 人と森の者は別れ別れになってしまった。

 そんな中、その絆を繋ごうと試みた、一人の少女がいた。



―東の果てで―



 湿った空気が漂う寂れた裏通り。

雨が天空から降り注いでいる。

石畳の地面は、すっかり濡れて水たまりがところどころ出来ている。

空に白い稲妻が走り、雷鳴がとどろく。

 表通りの競争率に負け、商売をやめた店の跡地が残っている。

 少し不気味な雰囲気を漂わせるその通りを、一人の少女が走っていた。

頭からかぶったマントの下の三つ編みを揺らしながら、駆け抜けていく。

静かな通りに、彼女が走る足音と、それと同時に撥ねる地面の水の音だけが響いた。

 彼女は脇にある建物と建物の間にあった狭い階段を駆け下り、さらに走っていく。

その先には、広い通りが広がり、遠くから見れば赤い煙が上がっているのがよく見えた。

 サイレンのような音が響き渡っている大通りには、アリのように人々が群がり騒いでいる。

 少女は、建物の間からその通りに抜け出た。

 人々が輪をつくり、何かを取り囲んでいるのが見えると、足を止めて立ち止まる。

「落ち着いてください! どうか騒がないで!」

 大声で人々に呼びかけるのは、スーツを着た婦人警官だ。

 息を整えながら、彼女は、雨がかかった顔を手の甲で拭う。

大きくなる雨粒は、地面の水たまりに順々に飛び込んでいく。

 人々の真ん中で、何かを怪訝そうに眺めている役人達の姿が、わずかに彼女の深い黒の瞳に映った。

 ふいに少女は足を踏み出し、人波をかきわけて中心を目指す。

押しのけられる人々が、不満そうに彼女を睨む。

 少女の耳に、人々の囁き声が届いた。

「まさかこんな人里まで出てくるとはね」

「物騒な世の中になったものよ」

「呪ってるのかもしれないよ。あたし達人間を」

 中心近くまで辿り着き、彼女は足を止める。

人々が囲んでいるものを見ようと、背伸びをした少女の目に飛び込んだのは、地面に倒れ息を引き取っていた、子供の竜の姿だった。

灰色の体は、まだ鋼の鱗や翼など生えていない。

人間に襲われたのか、自分で怪我をしたのか、薄皮だけの体は傷だらけで、まだ血が滲み出ている。

 少女は思わず口を押さえた。

子供の竜と言っても、二メートルはある。

その痛々しい姿がしっかり目に焼きつき、胃痛さえ感じる。

顔をゆがめ、わずかに目線を落とし、彼女はその場を足早に立ち去った。



 小鳥のさえずりが、街に響く。

 昨日あれだけ降り続いていた雨は止み、天からは光の梯子が地に伸びている。

古びたビルや家々が立ち並び、じっと朝日を浴びている。

 その静けさの中に、突然物音が起きた。

古い家の二階の窓が、ガタガタと動いている。

今にも壊れそうな窓が勢いよく開き、ガラスの水滴が跳ねる。

 中から顔を出したのは、明るい茶の髪を三つ編みにした、一人の少女だった。

昨日この裏通りを走っていたあの少女だ。

 晴れた空を見上げて、一気に表情を明るくした彼女は、途端にきびすを返して家の中に舞い戻った。

「銀、起きて! 晴れたよ!」

 今にも落ちそうな腐りかけの床を裸足で踏みしめ、少女はすぐ傍の引き戸を開け放つ。

開け放たれたその部屋で、一枚の毛布にくるまって寝ていた少年が飛び起きた。

「千果! 開けるときはノックしてって言ったのに!」

 千果と呼ばれた少女は、腕を組みため息をつく。

「もう八時よ! とっくに起きてると思ってた!」

「…親しい仲にも礼儀ありっていうの、知ってる?」

 不機嫌そうに立ち上がった少年は、ぼさぼさの黒髪の寝癖を押さえつける。

その少年の態度を気にもせず、少女は口元をあげた。

「知ってるわ。だからこうして起こしてあげたの」

 ため息をついて、少年は自分のめくれた灰色のタンクトップの裾を直した。

 少女は部屋の出口に向かいながら言葉を続けた。

「毛布はたたんで置いといて。早く着替えて出かけなきゃ! あと十分ね!」

「十分? せめて二十分!」

 少年の言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼女は部屋を出て行ってしまい、それきり返事はなかった。

彼は仕方なさそうに毛布をたたみ、壁にかかっている黒いTシャツを取った。


 少女、千果ちかはこの太平洋に位置する東の島、神吟島じんぎんとう に住む十六歳だ。

この島で生まれ、この島で育った。

 だからと言って島のすべてに詳しくはない。

 彼女が十四歳の頃、勝手に上京していってしまった両親はいつもこう言っていた。

『島の森に、入ってはいけないよ』

 どうして森に入ってはいけないのか、理由なんて分からなかった。

でも、この島の子供は皆、そう言われて育ってきている。

だから千果も、その掟を守っていた。

きっと島の誰にも、森のことなんて分からないだろう。

 昨日人里に現れた竜の子供。

森から出てきたに違いない。

 この島にはかつて竜が住んでいて、今も森のどこかで暮らしていることは充分に知っている。

 けれど、まさか人里まで出てきて死ぬなんて。

人が殺したのか、竜自身の体力が尽きたのかは分からない。

 でも、この百年の間に、森の者が人里に姿を見せることなどなかった。

 何かが、崩れようとしているのかもしれない。

少しぞっとしながら千果は玄関先で、履いていたショートブーツの紐を締めた。

「銀、行くよ!」

 部屋から出てきた黒髪の少年は、黒のマントを着ながら玄関の靴に足を突っ込む。

 少年、銀こと銀河は十五歳。千果の義弟だ。

彼女が十歳の頃に、両親が連れてきた。

街の路地で、痩せこけて座り込んでいたと聞いた。

 その点、人情がある両親だけれど、勝手に上京したことは未だに気にくわない。

 彼自身は、自分のことについてはあまり話してくれない。

でも、今は一番の仲良しだ。

 古びた家を後にし、裏通りを足早に二人して歩いていく。

 千果はマントについている帽子をかぶりながら、口を開いた。

「昨日のこと知ってる? 子供の竜が街で死んでたこと」

 銀河はわずかに苦々しげな表情を見せた。

「知ってる。あれだけ人が騒いでたから、嫌でも分かったよ」

「おかしいよね…今まで森の生き物が、人間の傍にくるなんてことなかったのに」

 不安げに顔をくもらせた千果に、銀河はわずかに空を仰ぐ。

「最近また人が木を切っているからじゃないかな。…森もそろそろ限界がきているのかもしれない」

「うん…」

 千果が幼かった頃、森はまだ豊かで、島をおおっていた。

けれどここ数年で、一気に開拓が進み、森は島の半分以下にまで減ってしまったのだ。

人間が土地を広げたがり、遠い国からもこの島に役人がやってくるような時代になってしまった。

 でも千果は、どこか潜在的な意識の中で分かっのだ。

森をすべて切ってしまえば、この島で人間達が生きていくことは出来ないだろう、と。

 分かっていてもどうにもできない。

人間は、相変わらず木を切り続けようとしているのに。

 狭い路地から二人は大通りに出る。

 銀河と千果は、森と街の中間地点にある見張り台で働いている。

数時間交代で見張り台にあがり、島の様子に異変がないかどうか見る仕事だ。

 他の仕事を探そうと思いながらも、時給がいいので捨てられない。

 なにせ、今では寂れた空き家に住んでいるのだ。

そろそろ床が腐ってきているし、アパートを探す資金も貯めなければいけない。

 大通りから森へ続く小道に出る広い階段ていたをあがり、少し開けた野原に出る。

 階段をあがったすぐ横にあるのは、少し大きめの小屋と高い見張り台だ。

銀河が小屋の引き戸を押し開けて、中に何かを話す。

 その間に、千果は台へとかかる長い螺旋状の階段を昇っていく。

かすかに千果が息を切らして、台の上にまで辿り着くと、そこにいた一人の少女が振り返った。

 長い黒髪をひとつに束ねた少女は、赤茶の瞳で千果を見る。

「千果じゃん、おはよ」

 少女は人懐っこい笑顔を彼女に向けた。

「おはよ、燐」

 千果も微笑み返す。

「今日当番だっけ?」

 忘れていたと言うように、配られていたそれぞれの予定表を見直しながら、少女は小首をかしげた。

 男前に見えるこの少女は、りん と言う。千果と同じ十六歳だ。

 胡坐をかいて座っていた燐は、木製の台の柵にもたれかかり、息をつく。

「銀河は?」

「もうすぐ来るよ」

 肩掛けのカバンを下ろし、千果はマントのポケットから双眼鏡を取り出した。

燐がおかしそうに笑う。

「今は何もいないよ。それより話したいことがあったんだ」

急に真剣になる燐の声に、彼女は少し胸騒ぎがした。

「話したいこと?」

 千果は森から燐に目を移す。

双眼鏡を握ったままの千果に、燐は頷き口を開いた。

「昨日の竜のことだよ。あれ、今日始末するんだってさ」

 燐は相変わらず姿勢を崩さなかったけれど、千果は自分の鼓動が少し重くなるのを感じた。

「始末って…」

 恐る恐る口に出す。

燐は平然と言葉を続けた。

「竜、死んでるから燃やすんだって。まあでかいし邪魔だから分かるけど…あたしはそんなことしないほうがいいような気がするんだけどな」

 わずかに宙を仰いで、燐は長い息をつく。

 千果は無意識のうちに、双眼鏡を握る手に力を入れていた。

「…うん。私もそんな気がする」

 そう呟いた時、階段を昇る音がして銀河が台にあがってきた。

「千果、早いよ」

 ひょっこりと銀河が顔を出す。

「ごめん」

 少し笑い、平常心を取り戻そうとしながら千果は答える。

 燐が立ち上がりながら、上がってきた銀河を見て意地悪っぽく歯を見せて微笑んだ。

「こんくらいで息切れしてんなよ銀河。じゃな千果」

 手を振って、燐が階段を降りていく。

「うん、またね」

 交代した燐の姿を見送り、千果は双眼鏡を再び手に取った。

 銀河はその場に座り、街の景色を眺める。

「異変なんてそう簡単には起きないよね」

 千果は、双眼鏡をのぞきながらそう言った。

「簡単には起きてほしくないけど」

 銀河は苦笑いする。

 彼女もそれに頷く。

確かにその通りだ。

 彼が、下の小屋から借りてきた弓と矢を組み立てるのを見ながら、千果は考えていた。

あの竜のことを。



「千果!」

 突然、真っ暗な景色の中で銀河に呼ばれて、彼女は飛び起きる。

一気に明るい元の世界が、かえってきた。

 眠りこけていたらしい。

「起きて!」

 銀河が彼女の肩を揺する。

その振動に揺られながら、彼女はどうにか目を開けた。

「なに…」

 眠い目を擦りながら、千果は体を起こした。

 銀河が、双眼鏡で何かを覗いている。

「あの煙、何だろう」

 街のほうからあがる煙に、銀河は見入っている。

灰色のその煙は、天に向かって高く昇っていっている。

 大通りにいる人々が、その煙の方向へ向かっていっている。

 千果の寝ぼけた頭が一気に目覚めた。

 彼女は煙の方角の柵に飛びつき、そして思い出した。

「竜だ…」

 かすれかけた声で、彼女は呟きを洩らす。

「え?」

 銀河が、千果の異様な様子に眉根を寄せた。

 彼女の心臓が、脈が重く打つ。

「竜を燃やしてるんだ……」

 千果の手は、無意識のうちになぜか震えていた。

 銀河がかなり険しい表情なるのを横目で見ながら、彼女は言葉を続けた。

「燐が言ってたの…死んだ竜を今日燃やすって……」

 と、彼が森を見る。

 何か聞こえたのだろうかと思いながらも、千果はまだ煙を見つめていた。

 彼は息を潜めて、そっと森の方向の柵へ近づいた。

目を閉じ、耳に手を当てて音を拾う銀河の姿に、千果の緊張も高まる。

「……何かくる」

 その呟きに、彼女も森を見る。

千果は銀河が置いた双眼鏡を取り、彼の横で双眼鏡を覗き込む。

 森の木々が映る。

何も異変はない。

 そう思ったときだった。

 数え切れないほどの沢山の狼達が、森から飛び出してくる。

「狼…!」

 千果は声をあげた。

 銀河が目で狼を追う。

 沢山の狼の中に、目立つ並々ならぬ大きさの狼が一頭走っていく。

普通の狼の何倍もある大きさだ。

群れのリーダーだろうか。

「竜を燃やす臭いで出てきたんだ……」

 銀河の呟きを、千果が聞きとめる。

「食べるために?」

 彼の横顔を見つめて、彼女は尋ねた。

「まさか。…森は共存してる。竜を燃やした人間を殺す気だ」

 千果の背筋に何かが走った。

 彼女は、急いで危険を報せる鐘の紐を引く。

台の上についている、灰色のさび付いた大きな鐘が、空気を揺らすような音を奏でた。

 鐘の音が街中に響き渡る。

 銀河が組み立ててあった弓と矢を取る。

 数頭の狼が見張り台の下に集まり、上を見上げている。

牙を剥く者、うなり声をあげる者、さまざまだ。

 他の狼達は、街に飛び込み、煙を目指して一直線に走っていく。

竜を探しているのだ。

 途中、右往左往している人々に襲いかかる狼も少なくない。

「銀、行こう!」

 千果はカバンを取り、台を下りる階段に向かって駆け出した。

銀河はわずかに森のほうを気にかけた様子だったけれど、すぐに千果の後を追い駆け出した。

 長い螺旋状の階段を下りながら、迫りくる地面に狼達が集まっているのが見える。

「どうしよう、集まってる!」

走りながら、背後の銀河に千果は叫んだ。

「千果、どいてて!」

 銀河が千果を立ち止まらせて、彼女の前に立ち、矢を取る。

 弓にかけると、思いきり手前に引く。

弓がきしむような音が聞こえて、彼は手を放し矢を射った。

 狼達のすぐ傍にある、見張り台を支えていた木製の柱に弓が刺さる。

驚いた狼達が、いっせいにその場から駆け出した。

 その瞬間を狙い、千果と銀河は階段を一気に駆け下り、見張り台を下りた。

 大通りへ続く広い石畳の階段を下りながら、通りを走っていく狼達が目に付く。

 自分の呼吸だけが耳に届く。

 長い大通りには、沢山の人が走って逃げていく姿がある。

その途中で、狼に襲われる人も少なくない。

千果たちも、その人波の中をかきわけながら走っていく。

 と、遠くで悲鳴があがった。

人の上を踏みながら、飛び越えてくる沢山の狼達が見える。

「こっちだ!」

 銀河が彼女の手を取り、駆け出す。

 沢山の人々が、狼に襲われている姿が目に入り、一瞬何か分からない気持ちに刈られる。

 建物と建物の間の狭い路地に飛び込み、狭い裏通りに出る。

この街には幾つもの裏通りがあり、時として絶好の逃げ場となることも少なくない。

 通りを走りながら、千果はどうにが銀河の横に並ぶ。

「竜を燃やしてるところに、狼たちも向かってる?」

 舌を噛まないように注意しながら、彼女は口を開いた。

 息が切れて、渇いた喉の奥が痛い。

「多分そうだと思う! …でもこれだけ沢山の狼が出てくるなんて…」

 銀河は、何かを悔やむような表情を見せた。

千果はそれには気付かなかったけれど。

 だんだんと、燃え上がる炎と灰色の煙が近づいてくる。

 石畳の地面が急に土に変わり、通りの終わりを告げる。

両側に少し茂った雑草が立ち並ぶ獣道を走りながら、遠くに見える沢山の人々と狼、そして燃える竜の体が千果の目に入った。

 銀河が走る速度を緩め、息を切らして立ち止まる。

千果もそれに気付き、立ち止まった。

息を整えながら、ふいに鼻をついた臭いに顔をしかめる。

「ひどい臭い…」

 燃やされた竜の体から出る体臭が、辺りに漂っている。

生臭いような、何かが腐っているような、鼻がもげそうなくらい臭いだ。

 千果がそれをこらえて、前に進もうとしたときだった。

突然茂みから狼が、うなりながら飛び出してくる。

とっさに身を屈めた千果の頭上を1頭の狼が通り過ぎ、茂みの中に転がり込んだ。

「銀、早く行こう。狼達のたまり場になってる!」

 背後の銀河を振り返り、狼を気にしながら千果は言う。

彼も頷き、どうにか立ち上がると速足にその場を歩き出した。


 辺りは海に面した砂浜だった。

波は穏やかなのに、人の気持ちは決して穏やかではなさそうだ。

 白い砂浜の真ん中で、大きな竜の体が焼き上げられている。

そこから少し離れた場所には、役人と思われる人間や街の人々が平然とその光景を眺めている。

 一方では、狼を追い払う護衛の人間達が、次々に狼に向けて矢を放っていた。

その矢に撃たれて、倒れる狼や死んでいる狼も少なくない。

逆にその狼達に圧倒され、襲われる護衛も多い。

 砂浜に下りれば、悪臭で気分が悪くなりそうだ。

千果はマントで自分の口元を押さえながら、先を歩く銀河の後について歩き出す。

 砂は、重みに反応して沈むので歩きづらい。

と、炎の向こうから白と黒の二頭の狼が駆けてくる。

普通の狼より数倍大きい。

銀河の少し先に立ち、今にも噛み付きそうな勢いで、うなり声をあげた。

 やがてうなり声は言葉に変わる。

『我らの仲間を返せ』

『なぜ殺した。竜は人間に危害など加えぬ!』

 千果が、堪らなくなって口を開く。

「竜は街で倒れていたの……人間が殺したかどうかなんて分からないのに、そんなこと言わないで!」

「千果!」

 銀河が制止しようとするが遅い。

『黙れ! 生意気な小娘が!』

 黒い狼が牙を剥き、千果に飛びかかろうとした。

『やめろ。わしが話そう』

 突然割り込んだ低く重々しい声に、狼達が振り返る。

やってきたのは、四メートル以上あるかと思われる、美しい茶色の毛並みの巨大な狼だった。

森から出てきたとき、見張り台から見えたあの狼だ。

 銀河と千果がわずかに後ずさる。

間近で見ると、更に迫力がある。

 銀河が千果に囁いた。

「神吟の森すべてを、縄張りを持ってる狼族の車騎しゃき だ」

「えっ」

 千果は驚いて銀河を見る。

 これだけの大きさなら、一族の長だろう。

 車騎という狼の話は、何度か聞いた事がある。

幼い頃、両親に話してもらった神吟島の神話にも出てきた狼だ。

 二頭の狼達は、その大きな狼に道をあけるように、両側に退いた。

 巨大な狼、車騎は人間を襲おうとする様子もなく、静かにその場で立ち止まった。

腰を下ろさないまま、銀河と千果を交互に眺めるように、その黄金の瞳を動かす。

 そして、笑うとでも言うのだろうか。

口元をわずかにあげて、車騎は笑みをつくった。

『恐れなくともよい。わしは人間を襲うつもりなどない』

 わずかに千果が肩の力を抜く。

けれども銀河は、まだ警戒心を解いていないようだった。

『あの竜は病気だった。助かる見込みもなく、群れに見放されて人里まで出てきたのだろう。そこで偶然命を落とし、それを人間が見つけたと言うだけだ』

 ゆっくりと、重々しい感情のない声で車騎は話した。

 炎の向こうの人間達がざわつく声が、千果の耳には届く。

『しかしそれをお前達人間が焼き上げた。森の命を、人間の手によって燃やした。…森に返さず、人間の勝手で竜を焼くなど、自然界の法則に反するものだ。違うか?』

 問いかけられて、答えるかどうか千果は迷う。

けれど、それより先に銀河が答えた。

「…違わない」

 認めざるを得ない。

『そうだろう』

 車騎はわずかに真顔になり、呟く。

「でも、どうにもできなかった。人間には、森の知識はない。人は森に入るなと教育されている、そのうえで竜を焼くなと言っても、誰も理解できるはずない!」

 銀河が必死で弁解する。

 車騎はわずかに間をおいてから、声をあげて笑い出した。

驚いて、千果はわずかに後ずさる。

『教育されていないからできないだと? 自然界の法則だ。お前達人間も元々は持っていない知識だろう。今更それをなくした? 言い訳にも限度があるぞ』

 銀河が狼をわずかに睨む。

 笑みをゆっくり打ち消し、車騎は長い息を吐く。

『…我々は今まで耐えてきた。人間がわしらの森の木を切り、自分達の領土を広げるのを、黙ってみていた。昔は森と共存できたというのに、今はそれさえ忘れたというのか』

 千果は胸が痛くなって、声をあげる。

「違う! みんなそれを忘れてるだけで…本当はそういう心を持ってるの!」

 車騎が、千果の体を貫くように見つめた。

 そして、わずかに微笑む。

『たとえどういう理由であれども、わしらの怒りは限界に達している。このままでは、森は死。人間にわしらのすべてを奪われてしまう。…そうなる前に覚悟を決めるのが、今、わしら森の者に出来ることだ。…人間が自分の過ちに気付かないうちは、その命を食い尽くして、地獄の果てまででも追い込んでやる』

 炎の向こうから出てきた人間が、車騎達を追い払おうと矢を放つ。

それが、車騎のすぐ傍の地面に刺さった。

 次々と飛び交う矢を睨みつけ、二頭の狼がうなり声をあげて駆けていく。

人間を追い払いにいったのだろう。

 重々しく動き始め、車騎は巨大な体を動かし、ゆっくり歩き出した。

移動を始めた車騎と、その一族の狼達を見ながら、千果と銀河はその場に立ち尽くしていた。

 辺りに飛び散る炎の火の粉が、パチパチと音を立てている。

 燃やされていた竜の体は、すでに骨に近い状態になっていた。




 夜空から、乳白色の光が降り注ぐ。

 上空は風が強いのか、目に見える速さで動いていく夜空の灰色の雲たちを、千果は裏通りに面する家の窓辺の前に座り込み、じっと眺めていた。

 時折雲に覆われ、丸い月が見え隠れする。 

 火のついた蝋燭を足元に置き、彼女は窓辺によりかかりため息をついた。

 この空き家には電灯がない。

いや、そんなことは問題じゃないのだ。

 昼間の出来事を思い出しながら、千果は胸が締め付けられそうになった。

 巨大なあの狼は、とても冷静だった。

けれど、その心の奥には、強い人間への怒りと憎しみが満ちているのだ。

それに気付かず、未だ自分達の領土を広げようとしている人間達は、なんて愚かなのだろう。

森はずっと悲鳴を上げ続けていたのに、それに人間は気付かなかった。

 目を閉じれば、車騎の言葉が頭の中に響く。

「地獄の果てまででも追い込んでやる」と、苦しみを押し殺したような声で言い放ったあの姿。

 それと同時に、千果は自分の言葉に自己嫌悪していた。

 人間が本当は森を思いやる心を持っている、だなんて。

たとえそれが本当だとしても、狼達が信じるはずもない。

人間達が犯した過ちを棚に上げて、自分は何を言っているのだろう。

 狼達は、いや、森の者達は知っているのだ。

人間がどれだけ嘘つきで、醜くて、自己中心的なのかを、人間自身より分かっている。

だから千果の言葉も、車騎は受け流したに違いない。

「所詮、人間の言う事なんて信じない……か」

 力なく呟き、彼女は立ち上がる。

 蝋燭を置いたまま、千果は隣の銀河の部屋の襖に耳を押し付ける。

「銀?」

 小声で呼んでみる。

中から返事はない。

聞こえていないのかと思い、千果はもう一度、少し大きな声で尋ねる。

「銀河、起きてる?」

 また返事はない。

寝てるのか、と千果が襖から離れようとした時。

「起きてるよ」

 返ってきた銀河の声は、いつもより暗かった。

 随分間があったものだ。

 千果は、急いで襖に近づいた。

「寝てるのかと思った」

 彼女の言葉に、かすかな笑い声が聞こえる。

千果は、少し口をとがらせた。

「何がおかしいの」

「別に」

 銀河は笑っていたけれど、やっぱりどこか力ない。

 六年間彼と一緒にいるが、こんなことは初めてだ。

わずかに戸惑いながら、千果は口を開く。

「今日の狼達…人間を襲いにくるのかな」

 一番怖かったけれど、一番聞きたかった質問だ。

 銀河の返事を待っていると、やがて深いため息が聞こえてきた。

 聞いてはいけなかっただろうかと、少し焦る。

 けれど、返事はしっかりした声で返ってきた。

「くると思う」

 千果は何も言えずにうつむいた。

 狼達が街を襲いにくれば、沢山の人が死んでしまう。

街の人々が死ぬのは嫌だ。

でも、人々がこのまま森を開拓するのも嫌。

 矛盾していると自分で思いながら、何も出来ない自分に腹が立った。

「どうにかならないの?」

 彼女の声が少し大きくなる。

「どうにもならないよ」

 銀河はただ、淡々と呟いただけだった。

 冷たい声に、千果は顔をしかめる。

「どうにかしようよ。このままじゃ、沢山の人が死んじゃうんだよ! 銀はそれでいいの? 何もしないまま終わるなんて……私はいやだ!」

 襖に顔を近づけて、彼女はそこまで言い切った。

「じゃあ、千果一人でどうにかすればいい」

 思いがけない銀河の言葉に、千果は呆然とする。

 そんな、どうでもいいみたいな言い方しなくたって…。

「どうにかって…」

 しどろもどろに千果は呟く。

 遮るように銀河が口を開いた。

「自分達の欲に溺れすぎた人間の自業自得だ。森の怒りが爆発するのも無理ないよ。それを止められるの? 人間が自分でしたことなのに?」

 力の入った彼の声に責めたてられて、彼女は何も出来ないということを思い知らされた気がした。

 自分に腹が立ち、消極的な銀河に腹が立って、千果は無意識のうちに立ち上がり、襖を開け放つ。

襖のすぐ傍で、壁にもたれかかり座っていた銀河が、無表情のまま顔をあげた。

 彼の部屋の窓からも、月光が差し込んでいる。

「なんでそんなこと言うの!」

 銀河の深い青色の瞳が、月の光で照らし出される。

「街の人を助けたいと思うのがいけないこと? 私は人間だけじゃなくて森の生き物達も助けたいし、街の人間も助けたい! 自業自得でも何でも、私もこの街の人間だもん。人間が人間を守りたいと思うのは当然のことでしょう? …森の生き物が、自分達の森を守りたいのと同じように」

 そこまで言い、彼女は視線を落とす。

 何も言わず、ただ千果を見ている銀河に、彼女は喉の奥が熱くなるのがわかった。

「銀河はそうじゃないの? 私とは違う?」

 わけもわからず、泣きたい気持ちになる。

こんなことで泣いてたまるかと、必死に涙を堪えながら、千果は黙り込んだ。

「…僕も千果と同じような気持ちだよ」

 突然、銀河がそう言ったのに驚き、彼女は顔をあげる。

 彼は千果を見ようとはせず、足元に視線を落としたまま続けた。

「一緒に、街も森も守りたい。…だけど、僕1人の意思では、どちらを守ることも出来ない」

 千果は、疑問を感じてかすかに眉根を寄せる。

「…どうして?」

 不安なのか緊張しているのか、奇妙な気持ちに刈られ、彼女は自分の服の裾を握り締めた。

 銀河が、ゆっくり視線を千果に移した。

目と目が合い、彼の青い瞳を見ていると、隠し事は出来ないと感じた。

「……人間か森か。どちらかの味方につくなら、僕はどっちとも敵に回すことになる」

 千果は顔をしかめた。

「敵って……銀が人間側について戦ったとしても、人間を敵に回す事にはならないよ?」

 わけがわからず、少し混乱しながらも口にする。

 銀河は立ち上がり千果に近寄ると、襖に手をかける。

 彼は頬を緩めて、少しだけ微笑んだ。

「銀…?」

 千果が少し疑問そうに顔をあげると、銀河は会話を締めくくるように口を開いた。

「おやすみ、千果。…ごめん」

 そう言い、彼はそっと襖を閉めた。

 千果は何も言えず混乱しながら、どこか息苦しい気持ちに刈られて、しばらくその場に立ち尽くしていた。




 朝日が窓から差し込んでくる。

直射日光を受けて、眩しさに千果は目を開ける。

 頭が目覚めずぼーっとしていると、急に脳内に昨夜の記憶が飛び込んできた。

 昨日の夜、銀河が襖を閉めてしまってから、しばらく眠れなかったのだ。

絶対眠れない、と思っていたのに、寝てしまった自分には繊細さがまったくないなどと感じながらも、千果は慌てて起き上がる。

 くしゃくしゃの毛布をそのままに、枕元の懐中時計を取った。

時計の針は午前八時三十分を指している。

ひどく寝坊してしまった、いつもなら六時には起きているというのに。

 毛布を足で部屋の端によけると、千果は窓辺においてあった櫛と、髪どめ用のゴムを取り駆け出す。

 玄関と直結している廊下に出て、薄い肌色の壁にかかっている鏡の前に立ち、髪をとかすと、丁寧に三つ編みを結う。

馴れた手つきで早々結い終わると、再び自分の部屋に駆け戻り、壁にかかっているこげ茶のズボンを取った。

 膝より少し下までのズボンは、足を通す袖口に紐がついている。

 千果はズボンを広げると、急いで寝間着から履き替えた。

 袖口の紐をきつめに結び、ズボンがかかっていた場所の隣にあるマントを取る。

 マントを羽織りながら、彼女は声をあげた。

「銀! 起きてる?」

 返事はない。

 まだ寝てるのだろうか。

 千果はマントのボタンを胸の前で止め終えると、裸足のまま、銀河の部屋の前まで歩いていく。

部屋の前で、息をついて襖をノックしてみる。

「銀?」

 静まり返って、返事は返ってこない。

 千果は思いきり襖を開け放ち、中に向かって叫んだ。

「銀河!」

 彼女の目に飛び込んできた光景は、誰もいない銀河の部屋だった。

 驚きを隠しきれないまま、千果は銀河の部屋に足を踏み入れる。

腐りかけた床が、音を立てて軋んだ。

 「銀…?」

 呟き、部屋中に視線を走らせる。

いつも壁にかかっている銀河のマントがない。

Tシャツもカバンもなかった。

 先に見張り台に行ってしまったのだろうか。

まさか、そんなはずない。

いつだって銀河は、千果が寝坊した時は起こしてくれたのだ。

 彼女は直感した。

出て行ったんだ。

 どうしてそう思うのかは分からない、理由なんてない。

 けれど、部屋の空気は淋しげで、銀河がいなくなったことを一番に物語っている。

 昨夜の彼の台詞を思い浮かべながら、千果は急いで玄関に向かって駆け出した。

 玄関先にかかっているカバンを取り肩から提げると、裸足のままショートブーツに足を突っ込み、紐を締める。

 そのまま木製で少しカビが生えている玄関の扉から、外に足を踏み出した。

 突如風が吹きぬける。

あまりの突風に飛ばされないよう、千果は閉まった扉に手をついて、髪を押さえながら顔をあげた。

 その千果の視界に入ってきたのは、地上へ続く鉄製の階段。

それに、抜けるような青空だ。

 いや、ただの青空ではない。

青空の真ん中に無数の黒い点が浮かび、飛んでいるのが見える。

「…鳥?」

 目を凝らして眺めてみるが、そうではなさそうだ。もっと大きい。

それに、この島にいる鳥はあんなに群れを作ったりはしない。

 千果は、マントのポケットの双眼鏡を取り出し、急いで中を覗き込む。

拡大された空を、双眼鏡を動かしながら追っていく。 

 と、画面の右端に何かが入ってきた。

彼女はその何かがを追いながら、思わず「うそ」と呟いた。

 長い首に、二本の前足と後ろ足。 

 銀色のような体に、巨大な翼と尾。

 千果は思わず息を飲んだ。

 竜だ。

竜の群れが、この島の上空に現れたのだ。

 そしてそのまま、竜たちは建物の陰に隠れてしまい、画面から姿を消した。

 千果は双眼鏡を目から離すと、急いでマントのポケットにしまう。

 そして、錆びついた鉄製の階段を駆け下りた。

 裏通りを走りながら、千果の頭の中は、銀河と竜のことでいっぱいになっていた。

 この神吟島で育ってきて、竜に関するお伽話や小説、絵本は数え切れないくらい読んだし、聞いた。

確かに島に竜がいることは知っていたけれど、実際目にしたのは初めてだ。

 それにここ最近、竜の生存は確認されていなかった。

丁度六年ほど前に、この島から姿を消したのだ。

 森へ入った神吟環境調査部隊が、それを確認し島の住民に報告した。

もしかしたら、別の土地に移動していたのかもしれない。

そして、また戻ってきたのだろうか。

 ふと千果は我に返る。

 六年前・・?

 走っていた足を止め、千果は立ち止まった。

 その場で右手で口を押さえて、考え込む。

 六年前と言えば、銀河と千果が出逢った頃だ。

丁度そのとき、竜がこの島から姿を消したというニュースがあった。

そして今度は、竜が帰ってきたときに銀河が姿を消している。

何か関連しているのだろうか?

『間か森か。どちらかの味方につくなら、僕はどっちとも敵に回すことになる』

 銀河の妙な発言を、同時に思い出した。

 そして、千果の中で何かがつながったと思ったとき。

 突然、見張り台の鐘の音が、街中に鳴り響いた。

その音で、千果の考えも中断される。

 すぐ横にあった路地の向こうの大通りから、人々が次々に空を指差す姿が目に入った。

「竜だ!」

「竜がでたぞー!」

 人々のおののく声が、次々にあがる。

 千果は急いで傍の路地に飛び込み、大通りに向かって駆け出した。

 狭く湿気が多い路地を抜けて、一気に視界が広がったかと思うと、広い大通りに出る。

 渇いた空気が肺に入ってきて、どことなく息がしやすい。

 彼女も人々につられて、大通りの真ん中辺りまで出ると、空を見上げた。

さっきよりうんと、地上に近くなっている竜の群れが、上空を旋回し続けている。

着陸する気だろうか。

 そんなことを思ったとき、突然背後から人にぶつかられたような衝撃を受けた。

突き飛ばされそうになり、よろけながらも千果は体勢を立て直す。

「ごめん! 大丈夫か?」

 聞き覚えのある声に、彼女は顔をあげる。

 同じくよろけたらしい相手の少女、燐がそこに立っていた。

腕いっぱいに何十本もの猟銃を抱えている。

 千果は目を見開き、燐と猟銃の顔を交互に見比べた。

「千果じゃん! 何してんだよ、こんなとこで」

 燐も同じく目を見開き、千果を頭から足のつま先まで眺めた。

「何って竜が…燐こそ何してるの?」

 その猟銃が気になると言うように、千果は少し怪訝そうに尋ねる。

 燐はその視線に気付いたらしく、自分の腕の中の猟銃を見ながら口を開く。

「町外れの家畜が荒らされたんだ。牛はほとんど食われちまった。残ったのはたったの4頭さ」

「四頭も?」

 燐が耳打ちした内容に、千果は驚いて思わず声をあげた。

しーっと静かにと言うように息を洩らす燐に、千果は慌てて自分の口をふさいだ。

「作物はみんな食べられたり、引っこ抜かれたりしてどうしようもないんだ。みんなダメになった」

 燐は苦々しげに表情をゆがめる。

 千果も少し視線を落とした。

「そんで、農家の主が怒って民生委員に訴えたんだ。このままでは自分達の生活が壊れるって。まあ紛れもなく狼達の仕業だったしそりゃ訴えたくもなるよな、とあたしは思うんだけどさ」

 燐がため息をつくのを見ながら、千果は彼女の言葉が気になり黒い瞳を見開いた。

「狼? 狼が家畜を襲ったの?」

 当たり前だというように、燐は頷いた。

「それ以外に何が家畜を襲うんだよ。間違っても人間が襲ったりはしないよ。まあそこらへんの気の違っちゃってるじいさんとかだったら、農家で牛を襲いそうでもないけどな」

 千果は、昨日の車騎のことを思い出した。

 この島を縄張りに持っている車騎の群れだ。

きっとその中の狼達が、家畜を襲ったに違いない。

「そんでこの銃の山だよ。あの農家のオヤジ、森で狼退治をするとか言い出しやがって、人にこんなもん運ばせやがるんだ。あたしは一応女だっていうのに、こんな重たいもん持たせやがって。ふざけんなっての」

 ブツブツと農家の主人の愚痴をこぼす燐に、千果は驚いて口を開いた。

「狼退治? どういうこと?」

 真剣な千果に、燐は面倒くさそうに眉をあげて話す。

「だから、農家のオヤジと民生委員を筆頭に、食べ物を持っていかれた恨みをはらそうとしている人間、いわゆる消費者達が狼退治に乗り出したってわけだよ」

 千果は、慌てて燐の肩をつかむ。

「もう向かってるの?」

 勢いに圧倒されながら、燐は答えた。

「いや、これからだって言ってるけど…」

「分かった。ありがと燐!」

 燐から手を放し、千果は駆け出す。

 と、千果の背中に向かって、燐が大声をあげた。

「銀河はどうしたんだよー!」

 彼女は足を止め、振り返って返事を返す。

「今朝から見当たらないの!」

「それだったら、今朝森ん中に入ってくのを見たって、見張り台の奴らが言ってたぞ!」

「森?」

 千果は呟く。

 銀河が一人で森に言ったというのだろうか。

 とりあえず千果は、返事を返した。

「ありがとう!」

 きびすを返し、駆け出す千果の背中を見ながら、燐がまた叫んだ。

「どこ行くんだよ! 竜達がどこに行くかもわかんないのに危ないぞ!」

 千果は、足を止めずに振り返り出来る限りの声を振り絞った。

「森! 狼退治をとめさせて、銀を探してくる!」

「はあ?」

 燐が拍子抜けしたように声をあげる。

 けれど、立ち止まらない千果の背を見てため息をつき、最後にこう叫んだ。

「気をつけてな! 絶対死ぬなよー!」

 千果は、後ろ手に手を振り、大通りから森へ続く小道への階段を駆け上っていった。




 木と木の葉が擦れる音が聞こえる。

 地面にたまった落葉や枯れ木を踏み、森の中を進んでいくのは車騎と白と黒の二頭の狼だ。

不規則に生える木の間を、縫うように歩いていく。

 と、車騎が何かに気付いたように顔をあげた。

 白の狼が耳を動かす。 三頭の視線の先に現れたのは、木々に見え隠れする沢山の竜の群れだった。

『竜族だ』

 黒い狼が呟いた。

 車騎が口元をあげる。

 先頭を行く真っ白な竜が、車騎の姿に気付いたように顔をあげ、数メートル先で足を止めた。

立ち止まった真っ白な竜は、その場に腰を下ろす。

『今までどこに行っておったのか。この森の主ともあろう者が』

 先に口を開いたのは車騎だった。

 竜はとても大きく、十メートル近くはありそうだ。

 その長い首を動かし、白い竜は話すように口を開けて牙を見せた。

蝦夷えぞ にいたのですよ。ここは人間の開拓が進みすぎている』

『人間の開拓が進みすぎたからと、逃げ道を取るのが竜族か? 共に人間と戦うこともせず、落ちぶれたものだ』

 背後にいた群れの竜達が、車騎を睨むのが分かる。

竜族への侮辱だと、呟きがわずかに聞こえた。

 けれど、白い竜は動じずに少し微笑んだ。

『だから戦うために、帰ってきたのです。私の息子にしばらくこの島を任せていましたが、もうそろそろ彼の手にも負えなくなってきている』

『あの子供にこの島の未来を任せようなんぞ、玉堂ぎょくどう 。いくら前代の長が奴に竜族を託したとはいえ、修行も生の年月も足らぬわ』

 車騎が吐き棄てるように言い放つ。

 玉堂と呼ばれた白い竜族の長は、少し視線を落とす。

『…わしにも、もうこの神吟じんぎん は手に負えん。いっそ一族を連れて島を捨てようと思ったときさえあった』

 押し殺したように話す車騎を、二頭の狼は毅然と見上げていた。

『だがそなたがいなくなって、わしがこの島を守るしかなくなった。・・このままでは、すべてを人間に奪われてしまう。森の命も、わしらの命も』

 悲しげだった車騎の言葉を境に、しばしの間沈黙が流れる。

 と、黒い狼が耳を動かし、背後を振り返った。

『どうした?』

 白の狼も振り返り、黒い狼に囁く。

『…何かが森に入り込んできている』

  低い声で、狼は呟いた。

 車騎もわずかに振り返り口を開いた。

『人間だろう、わしらを殺そうと責めこんできたに違いない。こうはしておれん』 

 白い竜に、車騎は向き直る。 

緊迫した空気が張り詰めた。

『玉堂、命を落としなくなければ共に人間と戦うことだ。それが嫌なら一族と共にこの神吟を捨てて、さっさと蝦夷に帰れ。我らが狼族は、最後まで戦うがな。…あんな汚らわしい人間どもに、この森を奪われてたまるものか』

 車騎がゆっくり踵を返し歩き出すのを見て、二頭の狼も足を踏み出した。

 残されかけた玉堂が、口を開く。

『あなた方が戦うなら、私達竜族も戦いましょう。…私もこの島の一族です。車騎、最後まであなた達と全力を尽くします』

 言い切った玉堂に、車騎はわずかに振り向いた。 

『ならそれなりの誠意を見せろ。そなた達はわしらが持ってない翼や力をもっておる。その力を生かしきれるかどうかだ』

 あくまでも冷たい台詞を返して、車騎は歩き出そうとした。

と、竜の群れの中から一人の黒髪の少年が駆け出してくる。

「車騎、待ってくれ!」

 駆け出してきた少年に、車騎は立ち止まって体の向きを変えた。

二頭の狼が、怪訝そうに少年を見る。

『なぜここに人間が』

 呟いた白い狼に、車騎は少し笑う。

天胡てんこ 、この少年は人間ではない。玉堂の一人息子だ』

『玉堂の?』

 驚いたように白い狼が、黒い目を見開いた。

黒い狼も少し目をしばたいた。

 しばらくの間竜族の長、玉堂がこの島を任せていたという息子だ。

「千果を…いや、三つ編みの女の子を見つけたら報せてくれないか?この森に来ているはずだ。伝えてくれ。…僕は戦いたくない、と」

 車騎は平然としていたが、少し返事に躊躇した。

けれど、少し息をついて口を開く。

『逢いたければ自分で探せ。わしが伝えることは出来ぬ。…銀河、こうなることを分かっていて、あの少女に近づいたのではないのか』

 銀河は、視線を落としうつむいた。

『そなたは五百年生きた伝説の竜族の長の孫であろう。ならば我らと共に戦い、人間を殺さねばならぬ。自然の摂理に逆らうことは、わしにも神にも出来ない』

「…僕は、あの子に助けてもらった。玉堂と離れてただ一人この島をまかされ、人間に翻弄されすぎて死を目の前にしていた。その時に千果が助けてくれたんだ。なのに人間を殺すなんて…」

 車騎が銀河の言葉を遮り、その鋭い牙を剥いた。

『情に振り回されるな。そなたは竜だ! あの娘がそなたを助けたにしても、人間は我らの敵。馴れ合うことなど、今は出来ぬ』

 車騎の激しい怒鳴り声に、銀河は辛そうに唇を噛んだ。

 玉堂は何も言わずに、銀河を見つめて息をつく。

 辺りが一瞬静まり返った。

 車騎は間を置いて、ゆっくり歩き出しながら、銀河に向かって言葉を投げた。

『自覚を持て。人間と馴れ合いたければ我らを敵に回せばいい。…あの娘を見つけたら、わしがあいつの頭を噛み砕いてやる』




 息を切らしながら、森の中、千果は足を進めていた。

 道なき道を行きながら、途中の木に白い紐を結ぶ。

帰りはこれを目印に街に帰るという作戦だ。

 そこら中に好き勝手に生える木の根に足を取られることもありながら、千果は膝が痛くなってきていた。

情けないと思いながらも、森に入るのは初めてだ。

 体にかかる負担だけでなく、心身的な負担も大きい。

 木が茂りすぎて太陽の光が届きづらく、日の昇り具合で時間を見ようとしても、太陽自身が見えない。

森に入って、もう何時間だろう。

 銀河は見つからないし、危険を報せようにも狼達さえいない。

 正直気味が悪い。

そんなことを思っていると、突然足に木の根が引っかかった。

「わっ!」

 バランスを保ちきれず、その場に倒れこむ。

 落葉の中に思いきり顔を打ち付けて、痛みに千果は表情をゆがめた。

どうにか起き上がり、打ち付けた額に触れる。

 変な感触がしたので自分の手を見ると、赤い液体が指についていた。

どうやら額を切ってしまったらしい。

 痛みを堪えて立ち上がり、額を押さえた時だった。

 動物の、荒い鼻息のような音が耳に届く。

動物達がいるのだろうか。

 昼間だというのに薄暗い森だ。視界が悪い。

 音が聞こえると思われる前方に、千果は息を殺して目を凝らす。

 遠くから、斜めにこちら側に横断してくる、猪の群れが見えた。

群れと言っても少ない、十五頭いるかいないかだ。

長老らしき姿はなく、どれもまだ若い猪だろう。

  千果は、猪に気付かれないように、そっと後ずさる。

相手はまだ気付かず、平然と横断を続けている。

 気付かれたらどうなるだろう。

走っていく猪の牙が目に入り、惨い妄想を打ち消そうと彼女は頭を振った。

 そして更に後ずさろうと、足を伸ばす。

すると、丁度落ちていた枯れ枝を踏みつけてしまった。

 枝が折れるパキッという音が森に響く。

地響きのような音を立てて走っていた猪たちは、足を止めた。

 千果は、しまったと言うように自分の口をふさぐ。

 群れの中の一頭が千果に気付いたように、彼女を見た。

 まずい。

 千果は慌てて踵を返し、走り出す。

 背後で、千果を見つけたあの猪が嘶く声が聞こえた。

その声を境に、次々の猪たちが千果を追うように駆け出す。

まるで「人間を殺せ!」とでも言っているようだ。

 千果は枝の間を、無我夢中で駆けていく。

 歩いてきた元々の道は遠くになり、彼女は走るしかなくなっていた。

必死に猪たちから逃げるように、木にぶつからないように走る。

猪たちは、木など知るものかと言うように、木を簡単に倒しながら進んでいく。

 地面は急な上り坂になり、それでも速度を落とさないよう、千果は足を動かす。

 猪たちも負けていない。

動物の底力と言うのだろうか、みるみる大勢で追い上げていく。

 坂道を乗り越えると、千果が出たのは切り立った崖だった。

「崖!」

 このままでは追い詰められてしまう。

 崖の下は大きな湖だった

そして湖の向こうには、また大きな山があり森が広がっている。

 千果は辺りに視線を走らせる。  目に付いたのは、崖に出っ張っている数々の岩だった。

でも、こんなところに下りれば助かる確率のほうが少なくなりそうだ。

 近づいてくる猪たちの足音に、千果は振り返る。

 坂を上りきった猪たちが、次々に崖の上へやってくる。

この崖の上も広くはない。

すぐに追い詰められてしまいそうだ。

 千果は、じりじりと迫ってくる猪たちの牙を逃れようと、一か八かで数メートル下にある岩の出っ張りに目をやった。

 彼女は、猪をちらりと見てから崖の端に手をかける。

猪たちが目を見開く。

 彼女は地面を思いきり蹴ると、崖の端を掴んでいた手を放し、岩めがけて飛び降りた。

 強い風に揺られながらも、千果はどうにか岩に近づこうと身をよじる。

 迫ってきた岩に手を伸ばす。

が、手はすべって離れ、そのすぐ下にある岩に思いきり腹を打ち付けた。

咳き込みながら、その岩に必死で捕まりよじのぼる。

上の岩より一回り小さい岩の出っ張りに足をかけたとき。

 崖の上の猪たちが、地面の石や砂、小枝を千果に向かって投げ始めた。

投げるというより、足で蹴り落としたり鼻先で押しやっている。

 マントの帽子をかぶろうにも、手を放したら落ちてしまう。

どうにかよじ登ろうと、千果は思いきり腕に力を入れた。

 と、突然唸り声のようなものが聞こえて、猪たちが千果を攻撃するのをやめる。

 猪って唸る?と馬鹿馬鹿しいことを考えながら、彼女は顔をあげた。

そこには、二頭の狼が猪たちを森の中へ追いやる姿があった。

 昨日、車騎の横についていた狼達だ。

猪たちは仕方なさそうに森の中へと去っていき、姿を消した。

『大丈夫か』

 かかった声は、黒い一頭の狼だ。

 白い狼は、猪についていったらしい。

「大丈夫にみえる?」

 今にも岩から落ちそうな状態で、千果は顔をしかめる。

『見えないな』

  あっさり狼は答えた。

 千果は、むっとした気持ちを追い払い、とりあえず口を開こうとする。

「なんで助けてく…わっ!」

 岩が千果の重みに耐えられなかったのか、砕け散る。

 彼女の体は宙に放り出された。

 今度こそ助からないと絶望感を感じつつ、体が一気に湖に向かって落下する。

 最後、千果の目に映ったのは、あの狼が崖の上から自分を追って飛び降りる姿だった。

 もうどうにでもなれ、と千果は目を閉じて、水中で息をしないようにと息を止める。

水に打たれたような痛みが体中に走り、一気に千果の体は冷たい何かにつつまれた。

 恐る恐る目を開けると、水が眼球に当たってわずかな痛みを感じるが、無理矢理にでも目を開ける。

 息を止める前に、息を吸い込むのを忘れていた。

苦しさに千果は水中で息を吐く。

 どうにか浮上しようとするが湖は深く、簡単にはあがれない。

 服が水を吸って、重くなっている。

 水中でもがいていると、突然視界に入ってきた生き物に、彼女は驚いて息を吸い込みそうになった。

よく見れば、一緒に飛び込んだらしいあの狼だ。

 捕まれとでも言うように、千果に背を向ける。

 彼女は息も続かず、どうにか狼の背中を掴んだ。

水に濡れた毛の感触がする。

 千果が捕まったのを確認し、狼が一気に浮上する。

 もうダメだと思ったとき、急に呼吸が楽になった。

息を吸い込みながら、千果は片手の甲で顔の水を拭い目をあける。

 日の光を遮る木々がない湖の真ん中近くに、千果は狼は浮かんでいた。

 太陽の光が眩しい。

 と、水が入ったのかわずかに千果は咳き込む。

 狼が千果を連れたまま、陸に向かって泳ぎだす。

千果は狼の背をつかんだまま、自分も足を動かし泳ぎだした。



 湖から陸地に上がれば、一気に寒さを感じた。

 また木々が不規則に生えている湖に面した森の中で、千果は地面に座り込む。

 狼が毛についた水滴を身震いして振り払う。

 千果の髪や服からは、水が滴ったままだった。

 彼女は自分のマントを脱ぎ、力いっぱい手で絞る。

水たまりが出来てしまうくらいの水が、一気にマントから流れ落ちた。

 マントを絞っている千果を見て、狼が口を開く。

『どうやってここまできた』

 彼女は狼に視線をやり、水滴を抜いたマントを広げる。

「どうやってって…一人で街からきたの」

 それ以外に何があるのという態度で、千果はマントを羽織る。

『一人で? 頼もしい人間がいたものだな』

 本気にしているのかしていないのか、不敵に狼は微笑んだ。

 千果は、さっき崖から落ちる前に聞こうとしていた質問を思い出し、狼を見る。

「あなたはどうして私を助けてくれたの? 人間なんてほっておくと思ってた」

 彼女はカバンの濡れた中身を物色しながら、逆に尋ねる。

 狼はその千果を、警戒したようにしばらく見ていた。

『……まあな。狼だってそこまで非情じゃないってことだ』

「…狼なんかより人間のほうが非情よね」

 千果は呟き、ため息をついた。 

 彼女はカバンの中身から、入っていた果物ナイフと双眼鏡だけを取って、後のものをカバンごとその場に置いた。

『持っていかないのか』

 狼はカバンの中身の臭いを、恐る恐る嗅いでいる。

「みんな濡れてダメになっちゃった。そうだ。あなた、昨日私と一緒にいた男の子知らない?」

 髪の水を絞り、千果は狼に尋ねる。

『…知らない』

「知らないか…」

 少しうつむき呟く千果に、狼が付け足す。

『それと俺は「あなた」じゃなくて「天貴てんき 」だ。そう呼べ』

「天貴ね、わかった」

 千果は少し微笑んだ。

 よく見れば天貴の黒い体には、黒の中に少し白い斑点が飛んでいる。

 彼女は立ち上がり、歩き出す。

『どこへ?』

「車騎を探しに行くのよ。銀がいないなら車騎を探さなきゃ」

『車騎を?』

 人間が狼殺しを始めようとしていることを、千果は車騎に知らせるつもりだった。

 天貴が怪訝そうに千果をみる。

『報せることがあるなら俺が伝えといてやる。お前は街に戻って他の人間に手を貸せばいい』

 千果を追い越して歩き出す天貴に、彼女は目をしばたいた。

そして千果は笑い出す。

 突然だったので、天貴は更に怪訝そうに千果を見た。

「せっかくだけど自分で伝えに行く。…意外と天貴って頭悪いのね」

 千果の言葉に、天貴はむっとしたように鼻の上にしわを寄せた。

『頭が悪い?』

「だって私、言ったじゃない。「狼より人間のほうが非情」って。要するに私は、人間の味方をするつもりはないの」

 腰に手を当てて、千果は天貴に言ってみせる。

『じゃあ森の味方をするのか? 誰もお前みたいな人間は受け入れないぞ』

 馬鹿馬鹿しいように鼻で笑い、天貴は歩き出す。

 千果もそれを追いかけて、彼の隣に並んだ。

「森の味方もしないよ。私は森と人、両方を助けたいの。それならどっちの味方につくわけにもいかないけど、出来る限り両方が戦わなくてすむようにしていきたいと思ってる」

 天貴が、隣の千果を上目遣いで見上げる。

澄んだ黄金の瞳に、彼女を映した。

『変な奴』

 照れたのか呆れたのか分からないけれど、そういい捨てて天貴は走り出す。

千果もそれを追いかけるように駆け出した。



 美しい丸い月が空に昇る。

 その月に兎の姿は見つからず、人間と森の戦いに恐れて逃げていってしまったようだ。

 千果と天貴が辿り着いたのは、山のほぼ頂上にある洞穴だった。

天貴たちが暮らす巣穴だ。

岩が積み重なってつくられている洞穴は、二頭の狼が入れるか入れないかくらいの大きさだ。

 洞穴の上は石の地面あり、このうえ森の動きを見張るのだろうかとも思える。

 千果は、天貴が洞穴の中に入っていき、ちらりとあの白い狼の姿が少し見える。

 と、背後から突然声がかかった。

『こんなところまで来おったか』

 聞き覚えのある声だ。

 千果が驚いて振り返ると、洞穴の上の石の地面に、いつの間にか車騎が寝そべっていた。

「車騎…」

 彼女の呟きを聞きとめ、車騎はきわめて穏やかな表情をみせる。

『何をしにきた。ここを立ち去れ。朝にはお前を食い殺してしまうかもしれん』

 それに怯まず、千果は口を開く。

「人間が狼狩りをするために森へ乗り込んでいるの。このままじゃ、森の狼は皆死んでしまう!」

 車騎は動じなかった。

 まるで、分かっていたとでも言うように、穏やかなまま口を開く。

鋭い牙が、顔を覗かせる。

『狼狩りだけではない。森を我が物にしようと、これから次々に人間が乗り込んでくるであろう。それも我が一族の脳のない狼が、恨みに我を忘れて人間の家畜を襲ったが故だ』

「…車騎、私に力を貸してほしいの。人間が攻め寄せる前に対策を取って、森と人、両方を守るために」

 空に浮かぶ月が、銀河と話したあの夜と同じように、乳白の光を地上に届ける。

『わしはそなたに力を貸すつもりはない。そなたも人間だ』

 瞳に影を落とし、車騎が答えた。

「……」

 千果はわずかに戸惑い、視線を落とす。

それでも信じてほしい、なんて言えなかった。

『この森が人間どもに開拓され、狼族がそこらの犬と同等に扱われるくらいなら、わしはここで滅びる。…もう随分生きた、まだ生を望もうとは思わん』

 千果は、何か言いたいのに言葉に出来ない、もどかしい気持ちに刈られた。

 車騎に、自分達に協力してと押し入ってまで言えなかった。

逆に、それ以上に強く思う「死なないで」という気持ちも言葉に出来ない。

 車騎は千果より、何百年と長く生きているのだ。

きっと、千果が死なないでと止めても、首を横に振るだろう。

自分の終わりは誰にも決められないと言い、落ち着いた瞳で千果を見るのだろう。

実際、死ぬなと止めたとして、車騎が死なない保証はなかった。

 それに、少し同情できたのだ。

自分達人間が、森の生き物達の最後の砦を奪おうとしている。

それなのに、それを知らずして「生きて協力してくれ」なんて言えない。

 千果が動物だったとしたら、もう諦めてしまうだろうから。

人間が汚したこの島と森が、元に戻る事はないと、車騎は痛いほど分かっている。

 この森がなくなれば、車騎も、狼族もなにもかも、消えてしまうのだから。

「…ごめんなさい。私達人間が、あなた達の森を汚してしまって」

 車騎が重々しく息を吐く。

『お前はわしらのためにも力を尽くそうとしてくれている。それはわしも認めよう。協力はしないと言うだけだ。…わしには何も出来ぬ。人間の里へ攻め寄せたところで、争いは収まらない。……そなたは、わしが生きようと死のうと、好きなようにすればいいではないか』

 なんとなく心にひっかかる。

でも千果は、これ以上自分には何も言えないと思い、小さく頷いた。

『明日の朝にはここから出て行け。ここはそなたのような人間の世界ではない』

 車騎はさっと立ち上がると、きびすを返して岩の向こう側へ飛び降り、闇に姿を消してしまった。

 人と森が忘れたものを取り戻したい。

もしそれが私に出来るのなら、どんなことをしてでもこの島を守り抜くから。




 がさがさと、落葉を踏む音が聞こえる。

眩しいものがまぶたを刺激し、その次に急に彼女は首筋がくすぐったいのに気付いて、笑いながら目を開けた。

「ひゃはは!」

 驚いて起き上がると、千果の隣に座っていた天貴が呆れたように息をつく。

『何笑ってるんだ』

「何って…天貴が首をこそぐるから……」

 少し恥ずかしそうに、千果は呟く。

 天貴は千果から離れて、足を進めた。

 千果は、木の枝の間から見える空を仰いだ。

真っ白な雲が浮かび、不気味なほど晴れ渡っている。

 彼女は立ち上がると、髪や服についた落葉を払った。

 と、天貴が昨日車騎が乗っていた岩の上に飛び乗る。

千果は落葉を払い終えると、天貴を見た。

「天貴。食べ物ってある?お腹空いちゃった」

 天貴は目をしばたいたあと、あごで近くの木をしゃくる。

千果は、何かが実っているのかと思い、木の枝に目を走らせた。

『そこの木にリスかなんかいるから、それでも食っとけ』

「リスなんか食べれるわけないでしょ、あんなに可愛いのに。…それにしても、木の実はなってないのね」

 彼女は腰に手を当てて、ため息をついた。

天貴は人間と狼の感覚が違うことを悟ったらしい。

『それよりお前、今日どうすんだ?』

「今日って?」

 まだ名残惜しそうに木を見ていた千果は、振り返り天貴に視線を移す。

 天貴は危機感がないなぁと言うように、またもや呆れ顔になった。

『森と人間の争いをどう止めるかって聞いてるんだよ。結局どうすんだ』

 千果は思い出したように手を叩いて、急に真剣な表情になった。

「今から街まで下りようと思って。そこで人間の様子を調べてこようと思う。…出来れば掛け合いたいけど、街の町長がいるかどうか」

『どうやって下りる?』

 天貴が岩を下りてくる。

 千果はまた木が生え伸びている方向を向くと、頷きながら答えた。

「歩いて下りるのよ。決まってるでしょ」

 天貴は、あんぐりと口を開けて、いかにも驚いたというような表情をしている。

千果はそれを不思議そうに見て、首をかしげた。

「そんな驚かなくても」

『いや…本気かよ。森と人間の争いを止めるって』

「本気よ」

 迷いもなく答えた彼女に、天貴はまた驚いたというように、穴が開くほど千果を見つめた。

 そして、少し視線を落とし口を開く。

『俺は、お前らみたいな人間にはろくな奴がいないって思ってる。それは今も変わらないけど、お前は違うんだな。…俺達のためにも、人のためにも頑張ろうとしてくれている。人の過ちに気付いて、それを悔いている』

 えらく真面目にそんなことを言うから、不意をつかれて千果はどきりとした。

なぜかわからないけれど、天貴が遠い存在じゃないと感じた。

『それで昨日の夜、車騎とお前が話してるのを聞いて、俺は…お前に協力してやりたいって思ったんだ』

 唐突な言葉に、千果は目をしばたく。

 石の上で照れくさそうにしている天貴に数歩近寄り、彼女はいかにも信じられないというように目を見開く。

「ほ、ほんと?」

『誰が嘘でこんなこと言うんだよ』

 飛び上がりたくなるような、嬉しさがこみ上げてきた。

分かり合えないことなんてないんだ。

動物も人間も、同じ命を与えられた生き物だから、根本は一緒なんだ。

それを忘れなければ、今の神吟にも、こんな悲しいことは起きなかったのかもしれない。

 どこか沈みがちだった千果の心が、一気に浮き上がった。

仲間がいる心強さを、改めて知った気がする。

 天貴に飛びつきたい気持ちを抑えて、千果はやさしく微笑んだ。

「ありがとう、天貴!」

 その笑顔に、照れくさそうにしながら天貴は岩を飛び降りる。

千果の傍まで歩いてくると、つんと顔を背けながら答えた。

『勘違いすんなよ、俺はお前達人間を許したわけじゃないんだからな。車騎に死んでもらいたくないだけだ』

 それでもいいと思った。どんな言葉さえ、嬉しかったから。

 照れた天貴が、さっと表情を変えたのは人間には聞こえない遠くの音が聞こえたからだろうか。

両耳をピンと立てて、身動きひとつせず息を殺し、物音を拾う。

千果も息を殺して、天貴が見つめる木々の先に視線を動かした。

 やがて、千果の耳にも地響きのような音が聞こえる。

それと同時に、豚のような鳴き声も耳に届く。

「…何?」

 音を拾いやすいように、耳の後ろに手を押しあてながら彼女は呟く。

天貴の表情が険しくなった。

『猪共だ』

 わずかに呟き、彼はすぐに走り出す。

千果も慌てて後を追うように駆け出した。

 が、立ち止まり振り返った天貴が声をあげる。

『ついてくるな、待ってろ!』

「一緒に行く! 足手まといにはならないようにするから!」

 天貴はまだ何か言いたそうだったが、それどころではないと判断したのか、何も言わずに再び走り出した。

そして千果も、その後を追って駆け出した。

 木々から落ちた落ち葉はすべりやすく、急斜面を下るのには不都合だ。

あちこちに飛び出した木の根に足を引っ掛けないよう注意しながら、不規則に生える木々に手をかけて走っていく。

 天貴の姿を見失わないようにしながらも、やはり人間と狼の瞬発力の差だろうか。ぐんぐん引き離される。

 石が積み上げらたような岩場に出ると、少し木が減る。

更に走りにくくなった岩場で、石と石の間に足を取られないようにしながら、急いで先の天貴を追う。

が、思ったように体が動かない。気ばかりが焦る。

 岩を走りながら、急に辺りが明るくなったのが分かった。

思わず千果は足を止める。いつの間にか開けた場所に出ていた。

 幅は何メートルあるだろう、澄んだ水の川が目の前に広がっている。

横幅はおおよそ十五、六メートルだ。河の途中には巨大な流木が数本引っかかっていて、急な流れが絶えず続いている。

 顔をあげれば、少し先で立ち止まり向こう岸を睨むように眺めている天貴の姿が目に入った。

「…?」

 不審に思い、千果も天貴の視線の先を見た。そしてぎょっとする。

 そこに、おぞましいほどの沢山の猪たちが溢れかえっていたからだ。

川岸の岩の上で、猪たちが溢れていたかと思えば、まだ更に集まってこようとしている。

すべてこの森に住む者たちに違いない。

 千果は、急いで天貴に駆け寄った。

「なんでこんなに集まってるの?」

 天貴は、猪から視線を外さないまま答える。

『分からない。不吉な予感がする』

 と、突然猪たちが嘶いた。

千果と天貴は更に警戒して、その様子を眺める。

 途端に猪たちが道をあけるように、両側に開いた。

 天貴が毛を逆立てる。

彼女は思わず息を飲んだ。

 ゆっくり歩いてきたのは、体中血だらけの巨大な竜だった。

真っ白な体に飛び散った鮮血。

下顎から、血が滴り落ちている。

 見るからに苦しそうな竜は、集まっていた猪たちの中でひときわ大きい白い猪の前で立ち止まった。

と、猪が突然竜に食らいつこうと、大口を開き牙を剥く。

それを見た天貴が、威嚇するように吠えて駆け出す。

驚いた猪たちが、怯えたようにわずかに後ずさる。

 天貴は軽々と、この広い川を飛び越えていってしまった。

残された千果は辺りを見回し、渡れそうなものがあるかどうかを探す。

『やめろ、なぜこの森の長を食おうとするのか!』

 天貴が竜と猪の間に躍り出て、激しいうなり声と共に口を開いた。

今さっきまで竜を食おうとしていた白い猪が、不快そうに目を動かす。

『車騎はどこだ? なぜそなただけがここにいる』

『車騎に会うならそちらから足を運べばいいだろう。石門せきもん よ、はぐらかさずに答えろ。なぜ我が森の主を食おうとしたのか』

 会話が聞こえず、千果はどうにか天貴の元へ行こうと、ブーツを抜いて腰にくくりつけ、川に素足を踏み入れる。

異常な冷たさが、足の芯にまで染み渡ってくる。

それを堪えて、彼女は足を一歩一歩踏みしめながら、川の中を歩き出す。

『玉堂は逃げたのだ。人間どもから逃げるのがこの森の長のすることか! 逃げずに人間に立ち向かい戦うのが我らが求めている長だ! それなのに逃げた上に人間どもの手にかかり、死を迎えるという。わしは猪族の長として耐えられん。こんな根性もないような愚かな竜が、なぜこの森の長なのだ! 長にふさわしくないものが長だなんて納得がいかぬ。いっそこやつを食らい、わしが長になってやろうと思った次第だ』

 天貴が牙を剥いて、猪族の長、石門に飛びかかろうとした。

『無礼な猪が…お前を噛み砕いてやろうか!』

「天貴、やめろ!」

 千果は川の中腹に辿り着き、流れにとどまっている流木に捕まったところだった。川は深く、千果の腹まで水が浸かっている。

ようやく天貴たちの会話が聞こえるようになり、移動せずに耳をかたむけていたら、聞き覚えのある声が聞こえたのだ。

その声の主がよく分からないまま、千果は足を進めようとする。

と、血だらけの竜がゆっくりと顔を動かし、千果を見た。

 彼女は気付き顔をあげるが、油断したために、川底の石に生えた苔に足がすべった。

「あっ!」

 不意に声をあげてしまい、そのまま流木から手が外れる。

天貴がはっとしたように顔をあげた。

猪たちも川を見る。

 千果は、そのまま水中に引きずり込まれるように、沈み込んだ。

 その声にはっとしたのは、銀河だ。

「…千果?」

『おい!』

 名前を呼びたくても、天貴は千果の名前が分からない。

慌てて駆け出そうとした天貴の前に立ちはだかり、その足を止めたのが石門だ。

『そこをどけ!』

 天貴が牙を剥いた。

だが、石門は不敵に笑う。

『人間など助ける必要は無い。川の流れに押し流され、死ぬのを待てばよいのだ。それが狼族であろう』

『あの少女はそこらの無情な人間どもと同じではない、我々の味方だ! そこをどけ!』

 飛び掛らんばかりの勢いで、天貴が怒鳴る。

けれど、天貴よりも数倍大きい石門は、立ちふさがったままだ。

『そなたは狼の血と言うものを忘れたのか! 人間に味方などいるはずもないというのに、信じてしまって…なんて哀れな』

 目の前の石門を噛み千切って殺してしまうのではないかと思うほど、天貴恐ろしいほどに牙を剥き毛を逆立てた。

 と、玉堂の横から駆け出してきた黒髪の少年がいた。

その少年はするりと天貴と石門の傍を横切り、迷わず川に飛び込む。

『銀河!』

 天貴がはっとして、彼の姿に目をやった。

 石門やその一族の猪たちが大声で罵倒を始める。

『竜族の皇子おうじ が人間を助けるというのか!』

『馬鹿な!』

『神吟の未来を人間に渡すな!』

『竜を殺せ! 裏切り者を殺せぇ!』 

 信じていた竜族が人間を助けるような行動に猪達が、怒り狂い鼓膜を裂くような声で嘶く。

 銀河は千果が立っていた川の中腹までくると、流木に引っかかっている彼女のブーツを見つけた。

その靴紐の先は、千果のズボンのベルトを通す輪にくくりついている。 

彼は急いで紐をたぐりよせると、水の流れに逆らってやってきた千果の体を水中から抱き上げ、浮上させて支える。

 千果を抱えなおしながら、口元に手を当てて息を確かめる。

まだ呼吸がある。

「千果、しっかりしろ!」

 呼んでも彼女は目を開けない。

頬に触れてみれば、水と同じくらい冷たかった。

 ふと銀河が川岸に目をやれば、怒り狂った猪たちが竜族に襲いかかろうとしていた。

天貴と竜族の仲間達が玉堂を守っているが、攻撃性が少ない竜たちは怒りに狂った猪たちに応戦することが出来ないらしい。

かろうじて天貴だけが攻撃的に牙を剥き、近づいてきた猪たちに襲い掛かろうとしているが、体の大きさからして猪には敵わないだろう。

 銀河は、すぐ傍の背後にあった流木に千果を寝かせる。

『なぜ人間を助ける!』

『竜族の誇りはないのか!』

『人間など滅びればいいのだ! どうせ木を切ってばかりいる、欲望だらけのただの野獣だ!』

 猪たちの罵声が、銀河の耳に届く。  途端に引き金を引いたように、天貴が一頭の猪に飛び掛る。

猪が悲鳴を上げて後ろ足で立ち上がり、体を揺さぶった。

天気は背中に食らいついているが、今にも降り飛ばされそうだ。 

「天貴、やめろ!」

 銀河は駆け出そうとするが、千果を放っておくわけにはいかない。

と、森の中から真っ白な狼が飛び出してくる。

天貴の双子の妹、天胡だ。

 玉堂に近づく猪達を追い払い、牙を剥く。

『何をしている! 我らが長を食おうとするなど、そなた達は森の誇りを捨てたのか!』

 透き通った天胡の声に天貴が猪を放し、彼女の隣についた。

『天胡。なぜここに』

 天貴が驚いたように問う。

 深刻そうに、天胡は赤い瞳に天貴を映した。

『人間達が森へ入ってきた。ここまでくるのも時間の問題だ』

 それを聞いた猪達が、動揺したようにざわつく。

逃げ出そうとする者もいる。

 力なく、玉堂が首をもたげた。

玉堂が腰を下ろしているあたりの岩は、すでに彼女の血で真っ赤に染まっている。 

「騒ぐな!」

 川のほうから聞こえた声に、猪や天貴達が視線を動かした。

 千果を抱えて、銀河が水の中を歩いてくる。

『あの子生きてたの』 

 天胡の呟きが洩れると同時に、天貴が水辺にあがった銀河の傍に駆け寄った。

 彼は、千果を抱えなおしながら声を張り上げる。

「森の奥の湖まで移動する。こんな時に、森のもの同士が争ってどうする! こんな時だからこそ、一致団結するんだ!」

 銀河の言葉に、猪たちも皆静かに視線を落とした。

 皆、絶望しているのかもしてない。

森の終わりが近づいていることに、人間に長が殺されかけたことに。 

それでも、森は終わらない。まだ生きているのだから、諦めてはいけない。

それが、森の生き物に出来ることだから。 

最後まで戦うしかない。

 と、突然銀河の腕の中の千果が咳き込んだ。

そして、その黒い瞳が顔を覗かせる。

「千果!」

 彼は驚きと嬉しさで、思わず声をあげた。

 千果の瞳は銀河を見てから、辺りを見て、ようやくはっきりしたように再び銀河を捉えた。

「銀…?」 

 千果は数秒ぼんやりしていたかと思えば、すぐに飛び上がったので、勢いで銀河は千果を下ろす。

 自分の濡れたマントの裾を絞りながら、千果は辺りを見回してから銀河を凝視した。

「なんでここに?」

 彼女の頭の中は、銀河が現れたことで困惑になっていた。

猪と竜の争いを見守ってきたのに、そこに何で突然銀が?

 けれど、その考えも中断される。

 玉堂が耳を劈くような声をあげ、その場に首を落とし倒れる。

辺りに血が飛び散った。

 千果は思わず息を飲む。

「母さん!」

 銀河が慌てて玉堂に駆け寄る。

 千果は、更に困惑したように顔をしかめた。

母さんって…どういうこと?

『何かくる』

 天胡が呟く。天貴も緊張したように、耳をピンと立てる。

 猪たちも息を潜めて、辺りが静まり返った。

耳には、玉堂の荒い呼吸だけが耳元に届く。

 途端にすぐ近くで銃声が鳴り、鳥が森から舞い上がった。

『…人間だ』

 天貴が憎憎しそうに呟いた。

「もうこんなところまで?」

 銀河が天貴を見る。

『奴らはお前の足跡と玉堂の血の跡をたどってきている』

「どうすればいい? …このままじゃ殺されるだけだ」

 千果の届かない会話が交わされる。

 一頭の猪が、逃げようと川を渡り始めた。

それに釣られて、他の猪も川を渡り始める。

「母さん、立ってくれ。とにかくここから逃げなければ、死んでしまう!」

 銀河が、玉堂の首に手をついて語りかけた。

 千果は、はっとして顔をあげる。

人間達が少し離れた岩場に下りてくるのが、視界に入ったからだ。

「銀、人間達が…!」

 銀河も気付いたようにそれを見た。

狼狩りをすると言っていた農夫達だ。

 途端に、何か言い合うやいなや、こちらに向けて銃を撃とうとする。

 玉堂がゆっくり立ち上がろうとするのを見ながら、千果は銃を構えた人間をみて、声を張り上げた。

「やめて! 撃たないで!」

 その声が届いたのか届かないのか、あっさり相手は銃を放った。

幸い銃弾は逸れ、地面の岩に直撃する。

 歩き出した玉堂の前を、天胡が導くように走りだす。

 再び人間が、玉堂を狙い銃を放った。

「やめろ!」

 銀河が地面の石を広い投げ、人間に向かって投げる。

 でも、何十メートルも先だ。石は届かず、途中で地面に落下した。

 と、天貴が玉堂の横に立っていた千果の元へ走って来た。

『今のうちに街へおりよう!』

「でも、今ここを離れたら、あの竜が…!』

 ためらう千果に、天貴が声を荒げる。

『あの竜には銀河がついている。お前が死んだら、誰がこの森の争いを止めるのだ!』

 千果は、川を渡り始めた銀河達を見送り、苦しさを振り払い頷いた。

 人間が放った矢が飛んでくる。明らかに千果と天貴を狙っている。

『行くぞ!』

 彼女はかすかに銀河を見て、裸足のまま走り出した天貴に続いて駆け出した。




 生き物の気配がない場所までくると、目の前に湧き水の小川が流れている森の中で、千果は立ち止まった。

先を走っていた天貴が、気がついたように足を止める。

「ちょっと待って…休憩……」

 何十分走ったか分からない。心臓が激しく脈打ち、呼吸が荒く、体中が熱い。

 千果はその場に座り込み、腰に結んでいたブーツの紐を解いた。

 小枝を踏んで、足がわずかに傷ついている。

 ブーツを履きながら、千果は聞き忘れていたことを思い出し、傍で水を飲んでいた天貴を見る。

「…天貴、銀河のこと知ってたの?」

 わずかに黙り込み、天貴は答えた。

『竜族ってことか?知っていた』

「ならどうして…」

 教えてくれなかったの、と言葉を続けようとした千果に、彼は視線を落としながら遮った。

『知ってもお前が悲しむだけだと思ったんだ』

 彼女は何も言わずにうつむいた。

 視界には、枯れた落ち葉の地面が映る。

「…馬鹿だね、天貴。知ったって悲しまないよ」

『じゃあなんで落ち込んでるんだよ』

 千果は、泣きたいようなよく分からない気持ちで、地面の枯れ葉を掴む。

「そういうのは…さみしいって言うんだよ」

 今まで、両親が上京してしまってからずっと一緒だった銀。

 まさか竜だったなんて知らなかった。

 でもそれで落胆したわけじゃない、悲しくなったわけじゃない。

 ただ、不安。この争いが終わっても、一緒にいられるのか、とても不安なの。

 竜と人間は違う生き物だから、別々に過ごさなきゃいけないのかもしれない。

一人は寂しいよ。私は、銀がいてくれたからお父さんやお母さんが上京して行っても平気だったんだよ。 

 千果は、不安を押し切りながら喉の奥が熱くなるのを飲み込んだ。

『…お前、チカって言うのか?』

「うん…そうだけど」

 そういえば天貴に名前を教えていなかった。

「千の果てって書いて千果」

 分かったのか分かっていないのか、天貴は首をかしげた。

そういえば彼は動物だった、漢字など分かるのだろうか。

 彼女は枯れ葉をよけて、その下に顔を出した湿った土の上に、千果と指で名前を書いた。

『いい名前だな』

「ありがと。天貴も素敵な名前だよ」

 微笑んで、彼女は土がついた手を川で洗う。

 天貴が話を戻すように口を開いた。

『なあ千果。これから街に下りてどうすんだ? もう人間達は森に踏み込んでるのに、今更行ったって無駄じゃないか?』

 両手で水をすくい、喉を潤すため飲み込むと千果は口元を手の甲で拭いながら、天貴を見る。

「街に友達がいるの。その子にこれから人間がどうしようとしてるのか、聞いてみる。今入ってきた人たちは、狼狩りの人間よ。…ねえ、そういえば車騎は大丈夫?」

『車騎には天胡がついてる。天胡は俺の妹だ』

「あの白い狼ね」

 美しい毛並みだったあの狼の事を思い出しながら、千果は安心して立ち上がった。

「行こう、天貴。急がないともっと人間達が乗り込んできたら大変」

 天貴も頷いて、小さな小川を飛び越える。

千果もそれに続いた。

『千果、何かあったら言えよ。俺はお前に協力してやる』

「…ありがと」

 千果が微笑むのを見て、天貴は駆け出す。彼女も後を追い走り出す。

 不安は消えないよ。だけど、走るしかない。

今は、この神吟のためだけに。



 森の奥にある湖に、竜達は集結し始めていた。

 切り立った崖から飛び降り、湖に飛び込む狼達や竜。森の中から出てくるものもいる。

 湖の中心に浮いた大きめで草しか何も生えていない浮島の上に、玉堂がゆっくり腰を下ろす。

前足を折って、寝転ぶような体勢でうずくまり、目を閉じる。

もう生きるを失っている様子の玉堂を、心配そうに見つめるのが銀河だ。

「母さん、もう少しの辛抱だ。千果がなんとかしてくれる」

 そう話しかけながらも、彼の心の不安は大きくなる。

千果は本当になんとかしてくれるのだろうか。

 自分が竜と言うことを、彼女はさっきの出来事で知ったはずだ。

軽蔑されるだろうか。

 玉堂の横に腰を下ろし、彼はため息をついた。

 そうなったら、どうすればいいのだろう。

 半分、千果はそんな子じゃないと思いながらも、不安は消えない。

 でも、今の銀河はそんなことを考えている場合ではないのだ。

人間から玉堂を守らなければならない。それに玉堂の代わりとして、森の者に指示をしなくてはいけない。

 胸が苦しくなりなるのを押さえ込み、彼は立ち上がった。

 湖を渡ってくる車騎と天胡の姿が見えたからだ。

「車騎…」

 呟いた銀河に、浮島に辿り着いた車騎が水を振り払う。

『人間達がすぐそこまで来ている、ここも時期危ないぞ』

 血だらけの玉堂を見て、車騎はかすかに瞳に影を落とした。

「…でももう、どこにも逃げる道なんてない。戦うしかないんだろう? それが、森の者に出来ることだとあなたは言った」

 天胡も水を滴らせながら、島にあがってくる。

『あの娘はどうした』

 千果のことだ。

「千果は天貴と街へ向かった」

『…猪たちが集まりつつある。これから何が起きるか、そなたに分かるか?』

 銀河をまっすぐに見つめて、車騎が尋ねる。

 車騎の顔も、緊張で強張っているように思えた。

 何が起きるのか正直予測がつかず、銀河は首を横に振る。

 車騎は、重々しく体を動かし、彼の耳元で囁いた。

もちろんそれは、集まってこようとする狼や竜たちに聞かれないためでもあった。

『猪たちが、人間の街を襲うのだ』

 銀河の頭の中が、一瞬真っ白になった。

「なぜそんなことを…」

 彼の声が動揺していることは、すぐに車騎に感じ取られただろう。

『人間が森への侵入してきたことに怒り狂ったのだろう。長が人間を襲えと指示すれば、それに従うのが一族だ』

「じゃあ石門が街を襲えと指示したというのか?」

『それ以外の理由で猪が暴走するのか? …もう怒りを鎮めることが出来るものは誰もおらん。銀河、これも定めだ。森も街も潮時であろう』

 銀河の脳裏には、千果の姿があった。

もし、猪たちが街を襲う瞬間に、千果がいたら…。

 確実に巻き込まれる。

「車騎、僕を街に行かせてくれ」

 とっさに銀河はそう言った。

『何を言う。お前が今この場所を離れれば、竜族を見捨てたも同然だぞ』

「竜族を見捨てるつもりはない。でも僕の一番は千果なんだ。もし猪に襲われたりしたら天貴も…」

 わずかに車騎が口元をあげる。

『天貴はそれほど間抜けではない。異変にも気付くだろう。あいつはあの娘を気に入っている、死なせるような真似はしない』

『車騎、人間が』

 天胡が崖の上を見つめて呟いた。

 銀河と車騎、二人して崖の上を見れば、狼達の威嚇にも怯まずに登ってくる人間が見えた。

男が数人、銃を振り回して狼達を追い払っている。

 一人の人間が、こっちを指差して何か言っている。

『そなたを人だと思っている』

 おかしそうに笑いながら、車騎は呟いた。

 狼の耳には、人間達の会話が聞こえるのだろう。

 車騎が天胡に言った。

『お前は猪族のところへ行きな、相手にする人間はこっちだと』

 天胡は頷く代わりに、陸が一番近い湖の上を飛んで、駆け出していった。

 銀河は、人間の様子をじっと見ていた。

いつ相手が猟銃を準備するか分からないからだ。

『いまいましい人間だ、どこまでも追いかけてくる』

 車騎の脳裏には、千果の言った狼狩りのことが浮かんでいた。

 途端に、一人の男が銃を構える。

止める間もなく発砲したが、幸い銃弾は逸れて湖の中に落ちた。

『さあ、最終決戦だ』

 車騎の呟きが号令だったように、沢山の狼達が人間に向かって飛び出した。



「天貴、街がみえたよ!」

 山を下りながら、ふもとの方向にある木々の間から見えるのは、千果が住み慣れた街だった。

 数時間歩き続けてようやく見えた街に、足を止めて彼女は嬉しさに思わず頬を緩める。

隣を歩いていた天貴も、やっとか、と言うように顔をあげた。

『急ごう』

 そういい、天貴が歩き出す。千果もその後に続いた。


 見張り台で森を見張るように言われ、ため息混じりに燐は見張り台に昇って森を見ていた。

「なんもくるわけないってのに」

 そんなことを呟きながら、ポケットに入っていたビスケットを口の中に放り込む。

「でもよう燐。さっきから森がおかしいぜ」

 同じように見張り台へ昇った燐の弟の和真が、生意気そうな顔つきで彼女を見上げてそういう。

「そうか? あたしにはいつものおんなじにしか見えないけど」

 五感の働きが鈍いのか、燐にはいつもと同じようにしか感じられなかった。

その点、年下の和真のほうが感覚はすぐれている。

 和真が、耳に手を当てて音を探るように息を殺した。

その様子に、燐も耳を澄ます。

 弟の聴覚を遮らない程度に、静かに森のほうの柵に近づき、顔を押し付けた。

 と、突然森から一頭の狼と人が出てくる。

「狼だ!」

 和真が、街に危険を報せる鐘の紐を引こうとするのを横目で見ながら、燐は目を擦った。

 無論、彼女の瞳に映っていたのは千果だが、双眼鏡を忘れたためそこまで確認することが出来ない。

「狼だぞー!」

 声が枯れそうなくらい大きな声で、和真が叫ぶ。

 建物から人が飛び出してくるのを見ながら、燐は和真に怒鳴った。

「馬鹿! 人がいるだろ!」


 街へ続く野原の小道を天貴と歩きながら、千果はあの狼狩りの人間達がどれだけ森の奥に進んだかが気になっていた。

「ねえ、天貴。大丈夫かな…」

『何が?』

「あの狼狩りの人間達が…狼を…そうしちゃったりとか…してないよね?」

 不安で少し言葉を濁らせた千果に、天貴はわずかに考えてから答える。

『それは俺にもわからない。…でも、無事だって信じる。自分の仲間も信じれない奴は最低だ』

  千果は、人間と動物のどこが違うのか、今分かった気がした。

 人間も動物と言われてきているけど、動物と違って人間は人を信じるかどうかを見極める。

それはいいことなのかもしれないけど、肝心な時に人を疑って、人を信じれなくて道を誤る。

 それならいっそ、天貴みたいに最初から信じていればいいのに。

 ここまで強く思っているなら、裏切りなんて怖くないのだろう。

「そうだね。…信じることをしないといけないよね」

 千果は空を仰いだ。

 雲間から光が差し込み、青々としている。

 この戦いのことなんて、何も知らないみたいだ。

 街の階段のすぐ傍までくると、突然上から声が降ってきた。

「千果?」

 彼女も驚いて顔をあげる。

 隣の天貴は、何かを警戒したように街の大通りから視線を外さない。

 ちょうど真上にあった見張り台の上で、燐が柵から身を乗り出していた。

「燐!」

 千果は、燐に今の人間の状況を聞こうと思っていたのだ。

 ちょうどよかったと、思い安心したのもつかの間だった。

『千果』

 天貴が顎で大通りをしゃくる。

 千果もふとして、大通りを見た。

 時すでに遅しとはこういうことなのだろう、すでに銃を構えている人々が目に入り、千果はわずかに後ずさる。

 「馬鹿、撃つなよ! 千果はあたしの友達だ!」

 見張り台の上から燐が怒鳴る。

 銃を構えていた人々が、驚いたようにそして困惑したように、見張り台の階段を駆け下りる燐の姿を見ながら口走った。

「でも燐、あれ狼だぞ!」

 その狼を近く見ようとしたのか、台の上から和真が顔を出す。

 千果は、何を言っていいのか分からず、辺りを見回した。

 丁度見張り台を下りてきた燐が視界に入り、わずかに肩の力を抜く。

「狼だろうとなんだろうと、勝手に撃つんじゃないよ」

 燐が大通りの人々に言いながら、千果の前にたった。天貴のことなど、まるで怖がっていない。

「千果、無事でよかった。あたし、すごい心配したんだよ。銀河はどうした?」

「銀は…まだ森に残ってるの。私もすぐ戻るから」

 いつの間にそんな事態に、と言うように燐は目を丸くする。

 千果は急いで続けた。

「燐、聞きたいことがあって来たの。さっき森で狼狩りをする人たちを見つけて…まだ森へ入る人間がいたなら止めてほしいの。時間稼ぎだけでもいいから…」

「分かったけど・・ていうかさ、それならやばいよ」

 真剣な顔をした燐に、千果は不吉な予感がした。

天貴も同じように緊張した空気を感じ取ったに違いない。

「さっき数十人くらいの男達が、武器を持って森に入っていきやがった。今村にいる大人たちも、そのうち森に出るつもりらしいけど…それは千果が言うとおりあたしが止めてやる」

「その森へ入った人たちって、どれくらい前?」

 燐は服をめくって腕時計を見ながら、数秒間黙り込み、再び口を開いた。

「ちょうど一時間半くらい前だよ」

「そんなに前?」

 思わず千果は声をあげる。

 それならかなり森の奥へ入っている可能性も少なくない。

 でもこの森には道も地図もない、それだけが救いなのだろうか。

『何か嫌な予感がする』

 天貴が突然そう言った。

 喋った? と驚いたように燐が目を丸くする。

 千果は森の方向に視線を移す。

 耳をピンと張り、息を殺して音を拾っているらしい天貴の様子に、千果も燐も人々も緊張した。

と、その沈黙と緊迫感を破るものがあった。

 森のどこかから聞こえる、狼の遠吠えだ。

「遠吠え…」

 燐が不吉だと言う顔をして呟く。

 その遠吠えが途切れると、今度は天貴が鼻を天に突き上げるようにして声をあげた。

 正直、間近で狼の遠吠えを見る機会など滅多にないのだろう。

姿勢の角度や、目を細めて吠える天貴の姿が美しくて、千果は見入ってしまっていた。

 彼が遠吠えをやめて、千果を見た。

『天胡だ。猪たちが街を襲おうとしている』

 彼女は現実に引き戻されて、頭を殴られるよりショックを受けた。

「猪たちが? どうして?」

『分からない。だがきっと、人間への復讐のつもりだ。此処も危ない』

 それを聞いていたらしい燐が、焦ったように天貴に言った。

「じゃあどうしろって言うんだよ!」

『俺が知ったことじゃない。人間に山を切り取られ、森の長を傷つけられた恨みを晴らそうと、猪たちは試みているだけだ。お前達の自業自得としか言いようがない』

 あっさり切り返し、天貴は足を踏み出す。

『行こう、千果』

「ちょ…」

 まだ何か言いたげな燐だったが、言葉が見つからなかったらしくそこで閉口した。

 千果は燐の手を握って、彼女の目を見る。

「燐、私が何とかするから大丈夫よ。だからそれまでは、皆と隠れていて。絶対戻るから」

 そこまで言って、彼女は燐の手を放して駆け出す。

 天貴と一緒に森へ戻っていく千果の後姿を見ながら、燐はしばらく黙り込んでいた。

 けれど、すぐに我に返り、人々の方へ振り返る。

「とにかく高い建物の上に立てこもろう! 小さい子供を出来るだけ先に! 急いで!」

 燐の指示に全員が頷き、街の人々に報せに走っていく。

 同じように燐も、台の上の和真を呼んで駆け出した。



 街に一番近い山の頂上にある森に囲まれたごつごつした岩場には、沢山の猪たちが集まっていた。

 うんざりするくらいのショウジョウバエが集まる中、天胡はその猪たちの先頭にいる石門を目指す。

巨大な猪たちの体の間をすり抜けて、彼女は先頭の石門がいる場所まで辿り着いた。

 これからまさに人間の街へ突撃する合図となる嘶きをあげようとしていた石門は、視界に飛び込んできた真っ白な狼の姿にそれをやめた。

『湖へ戻れ。長を人間から守るために車騎と銀河も戦っている! このままでは戦力が足りずにやられてしまう!』

 目の前に立った天胡を見て、猪族の長石門は、わずかに口元をあげた。

『巣穴から出てきた虫共を退治しても、その連鎖は収まらん。そいつらの息の根を完璧に絶やすには、その巣穴を狙うのが一番効果的な方法であろう。湖にいる人間も、自分の街に異変が起きれば、森などほったらかしで戻ってくる』

『いけない。それはそなた達の一族の血を絶やすことになってしまう! 猪族の長であるあなたが、なぜそのような考えに至るのか!』

 天胡がわずかに苛立ったように、鼻の上にしわを寄せた。

『天胡。わしは例え我が一族が滅ぼうとも、この神吟に住む人間を追い出してやりたい。一族の皆も同じ気持ちだ。玉堂になんぞ任せてはおられん。あれだけ無残な姿になった長に何を守れというのか? わしはこの身で自ら人間を滅ぼしてやりたいだけだ。そなたの指図は受けぬ』

『履き違えるな。人と共存することが我らの目的だ。人の村を殺めるは我らの目的ではない!』

 平然としている石門に、怒りを押さえきれず天胡は牙を剥いた。

 森も忘れていく、自分達が守らなければならないことを。

『森が人間に侵食されるなら、生きていても苦しむだけだ』

 天胡が止める間もなかった。

 石門は高々と嘶き、地面を蹴って駆け出していった。

それに続いて、地響きのような音が起き、一族の猪たちも次々に嘶いて飛び出していく。

 天胡は猪たちの足に蹴り飛ばされないよう、走って離れた木々の間へすばやくよけた。

 あっという間に、猪族はいなくなってしまった。

 さっきまでの騒ぎが嘘のようにしんと静まり返った中、天胡は先ほど石門が立っていた岩の上に立ち、寂しげに表情に影を落とす。

 もう、何もかも終わりだ。猪族が狂ってしまった。

そう思ったけれど、車騎と天貴が生きている間は自分も諦めるわけにはいかない。

 彼女は、すっかり日が落ちてきた空を見上げて、一人足早にその場を駆け出した。



 千果の体力は限界だった。

ここ二日で山という山を駆け巡り、また一番山奥の湖まで向かう羽目になったのだ。

 辺りはすっかり日がくれて、もう真夜中なのではないかと思えるほど暗い。きっとそれはあたりに灯りがないからだけれど。

 それでも疲労で震える膝をどうにか押さえ込み、彼女は足を一歩ずつ前に進めていた。

前を行く天貴の姿は、黒い体に夜の闇が混じり、段々と見分けがつかなくなってくる。

いや、もしかしたら自分の目が疲れているから見えないのかもしれない。

 そんなことをぼんやり思いながら、千果はスピードを落としながら歩いていた。

 と、突然前を行く天貴が立ち止まる。

ぼーっとしていた千果は、そのまま天貴にぶつかった。

 そこでようやく目が覚める。

『鉄くさい』

 地面の臭いを嗅ぎながら、天貴は気持ち悪いものでも見せられたかのような表情をした。

「鉄? それって銃の鉄の臭い?」

 千果が尋ねると、彼は顔をしかめたままため息をつく。

『俺はそこまで分からない。でも人間がいることは確かだ』

 再び歩き出した天貴の後に続きながら、千果は急に不安になっていた。

 森を守るといっておきながら、いざ人間との決戦が近づいて引き気味になるなんて情けない話だ。

でも、本当に森も人も守ることができるのだろうか。

  今更揺らいだって仕方がない。でも自分は、どちらを守る方法も考えていない。

考えられなかった、のほうが正しいかもしれないけれど、弱気になりたくないのでその理由は打ち消しておく。

 結局、今頃猪族が街を襲っていたら、自分は人を守れなかった事になってしまう。

 それに争いが終わっても銀河と一緒にいられるのだろうか。

もしかしたら竜族と一緒にどこかへ行ってしまうのではないだろうか。

 …それも後だ。今はそんなことを考えている場合じゃない。

とにかく、自分の手にこの森と人の生死がかかっていることだけは、間違いなさそうだった。

 不安に手足が冷たくなり、心が押しつぶされそうになりながら、千果は必死で歩いた。

どんなに怖くても逃げるわけには行かない。

 やがて、いつか千果が森で猪に追いかけられた場所へと出た。

『ここを上がれば湖の崖の上に出る。そこから湖の周りを回って行こう』

「わかった」

 天貴の言葉に頷きながら、崖に続く急な坂道を上がり始める。

 と、天貴が立ち止まった。

 突然のことだったので、千果は不審に思い耳を澄ます。

『人の臭いがする』

「どういう…」

 千果の言葉は最後まで続かなかった。

 突如、背後から武器を持って走って来た五人の男の姿に、天貴と千果は慌てて駆け出す。

『千果、乗れ!』

「え!」

 崖が近づくにつれ急になる坂に、スピードが落ちていた千果をみて天貴が声を張り上げた。

 乗る? そんな無茶な。

 確かに天貴は千果より数倍大きいが、狼に乗るなんて聞いた事がない。

『早くしろ! こうなったら崖から飛ぶぞ!』

 わずかに彼女に視線をやった彼は、ますますスピードをあげようとする。

 千果は躊躇していたが、そんなことを考えている場合ではないと大きく頷く。

 天貴が千果のほうへ体を寄せる。

近づいてきた彼の背中に手を置き、彼女はタイミングを見計らって飛び乗った。

 背後を追いかけてきていた男達が、行かせまいというようにものすごい剣幕で追いかけてくる。

 激しい揺れに揺られながら、彼女は落ちまいと天貴の背の毛を掴む。

『行くぞ!』

 辺りが開けて、明るくなる。

 明るいと感じたのは、すでに湖に来ていた人間がたいまつを焚いているからだろう。

 崖を目の前にして、千果は必死で天貴にしがみついた。

 一気に崖から飛び出す。

 湖を取り囲んでいる沢山の人間が、一瞬目に入った。そしてすぐ傍に浮いている浮島に、玉堂と車騎、そして銀河がいるのもかすかに見える。

 千果は、水を飲まないようにと息を止めた。

 次の瞬間、水面に顔を打たれてわずかな痛みが走り、一気に体を冷たいものが覆う。

水の音が耳元で聞こえ、彼女はどうにか天貴に捕まったまま手足を動かして浮上した。

 息を吸い込みながら、顔の水を拭う。

 崖の上を見上げれば、追ってきていた男達が舌打ちをしている。

 どうやら千果は人間の敵だと分類されたようだ。

『大丈夫か?』

 泳ぎだした天貴に続きながら、千果は頷き礼を言った。

 すぐ傍にあった浮島まで泳いでいくと、真っ先に迎え入れたのは銀河だ。

「千果、天貴! 怪我は?」

「全然平気。私も天貴も無事よ」

 マントについた水滴を絞って、千果は答える。

天貴も体についた水滴を吹き飛ばそうと、身震いした。

『車騎、天胡は?』

 天貴がすぐさま、玉堂の傍に居た車騎に近づき尋ねた。

 車騎は首を横に振り、息をつく。

『日があるうちに、猪族を見に行ったがまだ帰ってこぬ。そなた達より早く来るとは思っていたんだが…』

『石門が何をしたか分からない。あいつは狼族を毛嫌いしている』

 天貴は荒々しい声で言った。

 それでも車騎は落ち着いた様子で、星空を見上げる。

『夜が明けるまでには、戻ってくるだろう。天胡はわしを裏切ったことがない』

 目を閉じたまま動かない玉堂を見て、千果は玉堂の顔の傍に膝をつく。

「…生きてるの?」

「一応。まだ生きてる」

 銀河が苦しげな表情で答えた。

これからどうなるかは分からないということだ。

 よく見ればまだかすかに呼吸をしていた。

 千果は、傷だらけになった玉堂の頭の上にそっと触れた。

冷たい鱗の感触がする。水の中に手を入れているようだ。

「…ごめんなさい。人間があなたをこんな風にしてしまって」

 苦しみを押し殺して、彼女は呟く。

 こんなことしかしてあげられない。人間である自分自身が憎い。

 と、玉堂がそっと薄目を開けた。

まぶたの下からのぞく大きな黄金の瞳は、まるで宝石のようだ。

いや、宝石よりも綺麗なのかもしれない。

『…あなたという人に出逢えてよかった…あなたは人間だけれど、私達を守る心をもってくれている…』

 テレパシーのようにかすれた声で、玉堂は囁くように話す。

 浮島から少し離れた水面に浮かんでいる玉堂の一族の竜たちが、首をもたげた。

『どうかその心を忘れないで…神吟の未来からこの森を消さないで…この島を…』

 今にも消えてしまいそうな声に、千果は口を開いた。

「話すと傷に触るわ、ゆっくり休んで。…大丈夫、私が必ず森を守るから安心して」

 その言葉に、頷く代わりに玉堂はそっと瞳を閉じた。

 閉じられた瞳から、一粒の涙が落ちる。

 千果も泣きそうになるのを堪えて、玉堂の頭に頬をそっと当てる。

 私達人間が、この島を開拓してしまった。

 いまや世界中が、同じようなことをしている。

そうして、その事がおきるたび、こうして沢山のものが傷ついている。

 それもすべて、人の強欲のせいだ。

 つつましく暮らせればいいという願いなど、どこかへ消えうせてしまった。

自然が守っている土地を、島を、森を、山を、海を、すべてを手に入れてやるというその欲が、こうして罪なき命を傷つける。

  人は、大地と共存することを忘れてしまった。

 千果は、そっと玉堂から頬を離す。

 耐えきれずに、流れてしまった自分の涙が頬を伝うのを、手の甲で拭う。

「千果…」

 銀河は、何も言えず千果の背を見つめる。

「…銀、絶対守ろうね。絶対、この森をなくさないようにしよう…ね」

 立ち上がりながら、彼女は言った。

  銀河も頷く、頷くだけでは背を向けている千果には分からない。でも頷くしかできない。

 絶望のどん底から、どれだけ這い上がれるか。

『天胡だ』

 天貴が希望が垣間見えたというように、人間達が集まる陸地から少し離れた場所を走ってくる白い狼に目を向けた。

 車騎が言ったとおりだろう、というように天貴を見る。

 真っ白な毛を少し汚して、天胡は湖に飛び込んだ。

 泳ぎながら渡ってくるその姿を、千果達は安心してみていた。

 けれど、突如陸地から一人の人間が銃を発砲した。

天胡にはぎりぎり当たらなかった。けれど、それを見た天貴が牙を剥く。

『ふざけるな』

 浮島に辿り着くには、天胡はまだまだ遠い。

 続いて二発目の銃声が鳴った。

「撃つな!」

 銀河が声を張り上げる。

 けれど、人間側はもはや森を敵視している。意見など聞き入れてはくれない。

更に銃を放った人間に、怒りを露にした天貴が走り出す。

「天貴、だめ!」

 人間に攻撃を仕掛けようと湖に飛び込んだ天貴を、千果は声を張り上げてとめようとする。

 その人間の行動で竜族も、堪忍袋の緒が切れたらしい。宙に舞い上がり、人間めがけて飛んでいく。

 どんどん人間のいる地へ進んでいく天貴に、千果は急いで駆け出す。

「待って、行っちゃだめ!」

 千果は湖に足を踏み入れる。

「千果、駄目だ。行くな!」

 銀河がとめようとするが、彼女は聞かない。

 そのまま湖に飛び込むと、まだすぐ傍にいた天貴の尾を掴んだ。

『放せ千果! 俺はあいつらに復讐を…』

「やめて、そんなことしたら余計に相手の神経を逆撫でするだけよ! もし間違って撃たれちゃったら…』

 浮島にあがってきた天胡横目に見て、千果は言った。

 天貴が視線を落としがちに振り返る。

「お願い…私の言うとおりにして。天貴が天胡を攻撃したことを怒ってるなら、私に復讐すればいい。…これ以上、争いを大きくしたくないの」

 天貴が人間と争っても、既に充分竜たちが攻撃を始めているから、行っても行かなくても同じようなものかもしれない。

 それでも、天貴は千果に一番協力してくれた大切な仲間だ。

 仲間を争いに行かすわけにはいかない。自分が守ると約束した。

『来るぞ』

 湖に足を突っ込んで入ってこようとする人間達を見て、車騎が嘲笑う。

 彼はもう、生を諦めているのだろう。戦おうとする気もないらしく、玉堂の傍に立ったままだ。

 千果と天貴は急いで島に舞い戻る。

 火薬をぬらすわけにはいかないと、銃を持ち上げたまま泳ごうとする男達は、当然上手く泳げない。

 と、玉堂がわずかに身をよじった。

異変を感じて、銀河が駆け寄る。千果や天貴達も緊張したまなざしを向けた。

 前足を使い、立ち上がろうとしている。

「母さん、いけない! 今立ったら…」

 人間の的にしてくれと言っているようだ。

 千果はそう思った。もしかしてそれが目的なのか。

私達を守るために?

 彼女はとっさにマントのポケットに手を突っ込んだ。

最初にこの湖に落ちたときに、カバンの中から抜き取ってもってきたナイフと双眼鏡が手に触れる。

 千果はそのうちのひとつである果物ナイフを取り出して、折りたたみ式の刃を広げた。

 けれど、玉堂が立ち上がり大きく吠えるように鳴く。真っ赤な血があたりに飛び散った。

 気付けば、湖の岸辺で人間がたいまつを森に放り込み、森を燃やし始めている。

『なんてことを…』

 天胡が苦しげに呟く。

 千果は顔についた玉堂の血を服の袖で拭きながら、湖に半身浸かりながらこちらに向けて銃を構えた男を見て、声を張り上げる。

「撃たないで! やめて!」

 同じ国のはずなのに、千果の言葉は男には届かない。

 無情にも引き金に指をかけようとする。明らかに玉堂を狙っている。

まるで、化け物の親玉から殺そうとでも言うように。

 彼女は少しでも銃を撃つのが遅くなるよう、腕を大きく振って、思いきりナイフを投げ飛ばす。

飛んでいったナイフは、男の耳元を掠めた後、湖に沈んだ。わずかに相手は怯んだように、身を震わせる。

 森の焼ける臭いがする。

 玉堂が、ゆっくりと銃を構えている男を見た。と、同時に、男が銃を放つ。

 けれど、あっさり銃弾は玉堂の横を掠めて飛んでいった。

 銀河が玉堂を寝かせようとするが、どうにもならない。

 自分の一族の長を撃とうとした人間に気付いたらしい竜達が、怒りに満ちた表情でその男を襲撃し始める。

 その横でまだしつこく、銃を撃とうとする人間達がちらりと見える。

『銀河、気をつけろ』

 車騎の言葉に、銀河は顔をあげた。千果もだ。

 一人の人間が引き金を引く。それを始めに、数人の人間達が次々に銃を撃ち始める。

 そのうち一発が、玉堂の翼を貫く。

「母さん!」

 一瞬だった。

 銀河が玉堂を呼ぶ声と、彼が竜に変化する時間は。

千果が気付いた時には、銀河は玉堂に負けないほどの大きさの、鴉の濡れ羽根のように美しい黒の立派な竜になっていた。

 そして、母を守るようにその大きな翼で玉堂を覆えば、銃弾は銀河の鋼の背中に撃ち付けられた。

「銀!」

 千果が銀河を守ろうと足を踏み出すのと同時に、天貴が彼女を止めようとした。

 けれど、既に千果は大きな銀河を守るように立ちはだかり、両腕を広げた。

「お願い、殺さないで!」

 銀河が彼女の声に気付き、驚いたように振り返る。千果が撃たれてしまうのではないかと不安がよぎり、彼女を守ろうと動いた時だった。

 突然、彼女の体に激しい痛みが走り、そしてすぐに冷え切ったような感覚に陥った。

 痛みを感じた腹を強く押さえる。

 人間達が、銃を撃つ手を止めた。

『千果…』

 天貴が呟いた。

 車騎も、天胡も、玉堂も、そして銀河も、時間が止まったように千果を見た。

それは人間も竜達も同じだった、同じように時間が止まったようにじっと、千果を見た。

 彼女の足元に、赤い液体が落ちる。

 撃たれた…?

 ぼんやりそんなことを思いながら、千果は立っていられなくなり、その場に倒れこむ。

 森が燃える火の音だけが耳に届き、彼女は意識を手放した。



 真っ暗。

 辺りを見回して、少女はそう思った。

 何も見えない辺りを見回し、ふと少女は耳を澄ます。


 ひとつの命 ふたつの心 みっつの山に我らは住む


 歌声だった。聞いたこともない、数え唄だ。

 声のするほうへ、少女は走り出す。


 よっつに死に いつつで蘇り むっつで目を覚ます


 誰? 誰が唄ってるの?

 走りに走り、少女は急に笑い声が聞こえる野原へ飛び出した。

 明るい光が天から差しこみ、野原には沢山の蓮華が咲き誇るその中を、まだ幼い子供が三人元気良く走り回っている。

 けれど気付けば、一人は小さな竜に変わり、二人は白と黒の小さな狼の子供へ変わった。

 私、知ってるの。この子たちを知ってる。


 ななつの人を愛し やっつの刃を捨て


 どこかから、声が聞こえてくる。

 喋っているのはこの子達じゃない。


『どうしてにんげんとなかよくしたらいけないの?』

  

『どうしてにんげんにちかづいたらいけないの?』


『どうして、にんげんはわるいいきものなの?』


 ここのつの この森を愛す



 燃え盛る木々に囲まれた湖の浮島で、銀河は一瞬で人の姿に戻り、愕然とした表情でその場に座り込んだ。

 仰向けに倒れた千果の表情は穏やかで、今にも彼に対して微笑み返すのではないかと思えた。

「…千果…?」

 そう呼んでも、いつもの明るい返事が返ってくることはない。

 天貴が、怖々千果に近づく。鼻先をそっと彼女の額に近づけて、沈んだ様子でその場に座り込んだ。

『生気がない』

 ため息混じりに言葉を吐き出した天貴に、天胡がうつむく。

「千果、起きて…死なないでくれ」

 銀河が、彼女の冷たい手をとった。

 手首に脈がないなんて、分かっていた。でもそんなことを口にしたくはない。

 人間達が、呆然としたように手にもっていた銃を落とした。

『…森が燃えている』

 車騎が呟くと同時に、玉堂がその場で首をもたげる。

もう、終わりなんだろうか。

きっとこの場にいる森の者達すべてが、そう思った。

『千果は俺達のために身をもって争いを止めてくれたんだ・・』

 天貴が苦しそうに呟いた。

「…千果はまだ死んでない…」

 彼女の手首に感じるうっすらとした脈拍に、銀河は言った。

そう言わなければ苦しくて気が狂ってしまいそうだった。

 今にも消えそうな命の音を聞きながら、彼は口を開く。

「…僕が馬鹿だった」

 静まり返った辺りに、その声だけが響いた。

 誰もがその言葉を受け止めながら、誰一人何も言おうとしない。言えない。

「竜族の皇子なのに、何の責任もなくて…自分の母を守ることすら出来ないのに、千果のことを守れるはずもない」

 力なく自嘲するかのように笑って、銀河は苦々しげに言葉を吐き出す。

『…お前が悪いわけじゃない』

 天貴が慰めにもならないと分かっていても、言わずにはいられないというように呟いた。

『悪いのは…怒りに我を忘れた俺達と自己中心的な考えしかできなかった人間だ』

 ゆっくりと、暗い空を覆っていた雲から雨粒が落ちてくる。

 燃え盛る木々を、癒すように冷やして、炎を消していく。

 あっという間に、顔をあげれないくらいの強い雨が降り出した。

 千果が濡れていくのを見ながら、冷え切ったその手を銀河は強く握った。

「っ…千果…!」

 雨に交ざって、彼の頬を涙が伝った。



 突然、強い風が吹いた。

 驚いて少女は顔をあげる。

 いつの間にか、目の前で遊んでいた竜の子と狼達はいなくなっていた。

 飛ぶように辺りの景色が変わっていく。

 その中で、少女は一人立っていた。


 記憶が飛んでいく。


『千果、路地裏にいた銀河くん。今日からうちの子よ』

 そういって、泥まみれだった銀河をつれてきた母の姿。


『俺は…お前に協力してやりたいって思ったんだ』

 照れた天貴の表情。


『わしが生きようと死のうと、そなたの好きなようにすればいいではないか』

 自分を面白がっている車騎の顔。


『あなたという人に出逢えてよかった…』

 玉堂の力ない声。


『僕の一番は千果なんだ』




 どんどん景色が変わり、少女は見知った場所に立っていた。

 広い湖の、浮島の上だった。

 …私がいる。

 生きているのかどうか分からないくらい白い顔をして、仰向けに倒れている一人の少女を見て彼女は呟いた。

 そして、その横に片膝をついて座っている少年に、少女は近づいた。


 泣いてくれてるの?

 私のために。



 彼の涙が落ちた瞬間、千果の視界は真っ白になった。


 銀河。



 雨が降りしきる中、そっと彼女は目を開けた。

まぶたが重く感じて、瞳がうっすらと宙を彷徨うと、やがてすぐ隣に座り込んでいた銀河の姿を捉える。

「…銀…」

 掠れた声で、千果は呟いた。

 彼は、驚いたように顔をあげる。その頬に涙が伝っている。

「千果…?」

『千果!』

 天貴が、反対側の脇から彼女を覗き込む。

 千果の腹に、もう痛みは残っていなかった。

「どうして…」

 もう彼女が死んでしまうと思い、諦めかけていた銀河が不思議そうに首をかしげた。

『竜の涙の治癒力だよ』

 車騎が千果の傍まで歩いてくる様子が、彼女の瞳にわずかに映る。

『知らなかったのか? 銀河。そなた達の涙には、傷を回復させる力があるということを』

 銀河は頭を横に振り、ゆっくり起き上がった千果を見た。

 まだ体に痛みは感じるけれど、先ほどのような冷たさはもうない。

 彼女は、夢の中なのか分からない出来事を思い出していた。

 髪から雫が滴る。

 ああ、そうか。あの竜と狼は、銀河と天貴と天胡が幼い頃の…。

 そんなことを思いながら、千果は目頭が熱くなってきた。

 堪えきれずに涙を零す。その様子に、銀河が心配そうに彼女を覗き込んだ。

「千果? どうしたの?」

 千果は首を横に振りながら、膝を抱える。

「…千果が体を張ってくれたおかげで、皆争いをやめた。過ちに気付いたんだよ」

 岸辺の人間達が、起き上がった千果の様子に、嬉しそうに微笑みあっている姿がわずかに見える。

 竜達も安心したように肩の力を抜いていた。

「…私、守れたの? 人も森も守ることが出来た?」

『守れたよ。お前のお陰で、俺達は森を灰化させずに済んだんだ。……ありがとう、千果』

 すぐ傍に居た天貴が、微笑むような表情をみせる。

 千果は涙を拭きながら、雨が小降りになるのを感じた。

「天貴達がいてくれたから、私、頑張れたんだよ」

 銀河が立ち上がる。

 玉堂が、体が軽くなったかのように長い首を持ち上げて空を眺めた。

「夜明けだ」

 雨が止んだ空に、太陽が昇る。

 雲が光を浴びる姿を、千果も立ち上がって見上げた。

 その場にいる全員が、その夜明けに見とれる。


「夜明けだ! 皆、助かったよ!」

 街で一番高い見張り台の上に昇り、猪たちを忍んでいた燐が、背後に座りちぢこまっている人々に声をかけて空を指差す。

 街中に溢れかえった猪たちのなかで、生きているものは数少ない。

 けれど、まだ命ある者達も、同じように空を見上げた。

 人々が嬉しそうに声をかけあう姿を見ながら、燐は息をついた。

「千果も生きてんのかな…」

 

 ぞろぞろと、行列を作って人間達が撤退していく。

 その姿を眺めながら、千果は銀河に向き直った。

「千果、本当にありがとう」

 微笑んだ彼に、彼女は首を横に振って口を開く。

「私こそありがとう。銀の涙がなかったら今頃死んでたもの。…結局、一人じゃ何も出来なかった。私のほうがお礼を言いたいくらい」

 やわらかい風が頬を撫でる。

 車騎がゆっくり立ち上がり、湖を渡ろうと水の中に足を踏み入れた。

 千果がそれに気付き振り返ると、車騎は彼女に視線をやって微笑んだ。

『結局死に切れなかったが、そなたにもらった命を生きるとしよう』

 その言葉を最後に、車騎は足早に水の中へもぐり泳いでいった。

 彼女は、思わず頬をゆるませて微笑みをこぼす。

「車騎、ありがとう!」

 彼が振り返ることはもうなかったけれど、千果は満ち足りた気持ちになった。

 戦いの終わりを告げるように、天貴と天胡が朝日に向かって遠吠える。

 銀河が千果の手を取った。

「行こう、千果」

「うん!」

 玉堂がゆっくり翼を広げるのを見ながら、千果は竜に変わった銀河の背につかまった。



 空がだんだんと色づいていく。

 いつの間にか雨雲はどこかへいってしまった。

 風に巻かれて、空を飛ぶ銀河の背につかまりながら、千果は彼の固い鋼の背中に頬を押し付ける。

「銀。私この森の生き物達に逢って、すごく色々なことを教えてもらったの」

 彼は何も返事をしないけれど、彼女の言葉ををちゃんと聞いている。

「誰かを信じること、何かのために必死になること、何かを守るためなら、命さえいらないと思うこと。…人間にはないものばかりだった」

 冷たい鱗に頬を当てたまま、千果はそっと目を閉じる。

 まぶたの裏に、子竜の頃の銀河が映る。

「…この世に生きているのは、人間だけじゃないんだよね。他の動物もちゃんと生きてる。だからそれと共存していかなきゃいけない。なのに…今の人間はそれを忘れているから、罪のない命が奪われていく」

 銀河は、わずかのその黒い瞳を動かす。

「銀河。私はそれをあなたに逢って改めて知ったから、今度は他の人にも教えてあげたいの」

 そっと頬を離して、目を開ける。

 彼は、しばらく間をおいてから静かに答える。

「千果がそのつもりなら僕は協力するよ」

 テレパシーのように聞こえる声に、千果はやさしく微笑む。

「ありがとう」

 夢の中で聞いた、銀の声。

 私を本当に大切にしてくれていると、改めて感じたんだ。

 だから、あなたが助けてくれたこの命。尽きるまでにはまだ時間があるから、沢山の人にこの話を語り継ぎたいの。

「私も、銀が一番だよ」

 小さく囁くと同時に、銀河は翼を羽ばたかせる。

 きっと、彼の脳裏にはあの言葉を聞いていたのだろうかという思いがよぎったのだろう。

 燦然と輝く朝日に反射した雲間を飛びながら、千果は心に誓った。

 沢山の人に語り継ごう。私が見つけた、見えない絆を。

 真下に姿を現した見慣れた街並みに、千果は集まってくる人々に向かって叫んだ。

「ただいま!」




 それから数年後、東に浮かぶ島を出た一人の少女と若い竜は、世界中を一緒に旅した。

 沢山の人々に、人と自然の共存と夢の中で聞いた数え唄を語り継いだ。

 そして、何十年経っても少女が島へ戻ることは二度となかった。

 きっと何処かで、あの竜と一緒に深い眠りについたのだろう。


 世界中に竜と共に渡り歩いたその少女の名は、千果。



end


※この物語はフィクションです。


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[一言] 作品自体は悪くはないですが、どーもジブリの「もののけ姫」に似ている気がします。 意識している、していないにしろ、その点が気になりました。
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