“まだ”の人
スマートフォンで書くのは難しかったです。夏のホラー初参加です。よろしくお願いします。
車内アナウンスに耳を傾ける。どうやら次は自分が降りる駅に到着するようだ。
車窓から見える風景を男は眺めた。故郷と比べてこの街は夜空が狭く、星が存在しない。そのかわりに高層ビルの窓から人工的な光が漏れている。
夜なので、車内が反射されている。
いない。男と、優先席の向かいに座っている仕事終わりのOL以外、この車両には誰もいない。一応、男が住む街は眠らない街として名高いはずだ。終電でも運よく座れるかどうか際どいぐらい混むのだが、なんだ、この静けさは。
携帯電話には20時25分と表示されている。いつもなら通勤ラッシュの余韻が残っている時間帯だ。
携帯電話から目を離すと、さっきまで優先席の向かいに座っていたOLが男の顔をまじまじと見つめている。
「うわっ」
男は目を見開き、驚く。
OLの顔をよく見てみると、生気はまったく感じられない。青白い。背筋が寒くなっているのがわかる。
「あなた、“まだ”なのね」
OLが絞り出したような声で言った一言。
「……何がですか?」
男が聞くと、OLはゆっくり笑顔になってゆく。その様は異様で、とても気味が悪い。
なんだよこいつ、気持ち悪いな。
男はOLの言動に気味悪さを感じ取り、席を離れ、ドアの前に立った。ドアにも車内が反射されて映っている。OLを視界に入れたくなかった男は、電車の中吊り広告に目を移した。
週刊誌の広告に目を通した男は、次に、全国指名手配犯の広告を見る。
今でも語り継がれている事件の主犯と、OLの殺人事件の犯人の顔写真が並べてあり、「あなたを決して逃がさない!」という脅し文句が書いてあった。
OL? 何かを思い出した男は、携帯で動画サイトを開き、ある動画を探し始めた。
『OL殺人事件 ニュース映像』
何件か見つかり、順番に閲覧していく。
見つけた。男の額から冷や汗がとめどなく溢れる。さっきの気味悪いOL、彼女はOL殺人事件の被害者だ。つまり……。
見てはいけないと頭の中ではわかっている。だが、もう一度確認したいのだ。あれは幻覚、もしくはそっくりな人。いや、むしろ妹だ。そうだ、妹だよ。姉が殺されて精神的ダメージを受けたんだよ。そうだよ。
自分に何度も言い聞かせて、車内を見渡すが、OLはいなかった。たぶん違う車両に移ったのだろう。男は安堵の表情を浮かべた。
また車内アナウンス。自分の降りる駅に着いたようだ。男は安心して、電車から降りた。
誰もいない。こんな事あり得ないはずだ。さっきあんなことがあったから、是が非でも誰かいるという安心感を男は欲しているのに……。
駅名を確認する。間違いない。最寄り駅だ。ゆっくり歩を進み、人を探す。故郷ならありふれた光景だが、この街ではドラえもんがスペアポケットをのび太に渡すぐらいあり得ない光景だ。絶対いると賭けた男は、ホームを練り歩く。
だが、ふと男は思い出した。
「改札口に駅員いるじゃん」
忘れてた。駅はホームだけじゃない。改札口、駅構内、駅前。人がいそうなところはたくさんあるじゃないか。
男は一目散に改札口へと繋がる階段を登り始めた。
男の目論見通り、駅構内には人がうじゃうじゃいた。
「よかった……」
男は思わず声に出してしまった。子供が不思議そうな顔で見ている。我ながら恥ずかしいことをしてしまったと男が悔やんでいると、子供が一緒にいた母親のスカートをぐいぐい引っ張り、「ママー、ママー」と呼んでいる。子供の方へ母親が顔を向けると、子供が微笑み、男の方を向いた。
「あの人“まだ”だね」
安心感が風のように去り、不安感だけが男の体内を回っている。
さっさと家に帰ろう。それしかない。男はそう決意し、改札口に切符を通した。
「珍しいねー、“まだ”の人を見たのは一ヶ月ぶりだよ」
駅員の言葉を聞き流し、男は走る。すれ違いざまに肩がぶつかったとしても、目線は常に前を向いている。家までの間だ。申し訳ない気持ちはあるが、今日だけは許してくれと男は願う。
誰かと肩がぶつかり、相手が何かを落とした。さすがにこれは拾った方がいいだろうと、男は足元を確認する。
腕だ。人形の腕ならまだよかったが、黄土色に変色し、根本が腐っている。どう見ても、人間の腕。
男が拾わずに固まっていると、同じく黄土色に変色した腕が、落ちた腕を拾い上げた。
見上げると、首に何かで絞められた跡がある男性が、眉間に皺を寄せてこっちを見ていた。
「まったく、これだから“まだ”の奴は」
文句を吐き捨てた男は、落ちた腕を抱え、人混みの中へ入っていった。
「うわあああああ!」
なんとなく“まだ”という意味はわかっていたのだが、認めたくなかった。だが、あんなことがあったらもう認めざるを得ない。
“まだ”死んでいない人間を言っている。
これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。
心の中で男は連呼する。
夢なら覚めろ。夢なら覚めろ。夢なら覚めろ。
駅を飛び出す。じっくり周囲を見渡してもわかる。行き交う人々全員、生気がまるで無い。見慣れてしまったのか、男の表情から驚いている表情も、怯えている表情も無い。
深呼吸を数回行い、走る準備を整えていたとき、男の目が一台のタクシーを捉えた。
車内を明るくしているためか、運転手の顔もよく見える。眼鏡を掛け、新聞を読んでいる。駅周辺にいる人達とは違い、運転手の表情は生き生きとしていた。
もしかして、と男の表情が明るくなる。
この運転手は救世主になるに違いない。男はタクシー目指して走る。すぐに到着した男はタクシーの窓を数回ノックした。運転手はノックに気付き、窓を開ける。
「すいません、今大丈夫ですか?」
すると、運転手はさっきまで読んでいた新聞を閉じて、「どうぞ」と笑顔で応えてくれた。
男は安心しきった表情で運転手を見つめると、自動で開いたドアに気付き、中へと入った。
「近くなんですがコーポ丸山までお願いします」
「はい、かしこまりました」
ハキハキとした声で応答すると、タクシーはゆっくり進み始めた。
「でもコーポ丸山ってここから十分くらいですよね?」
「いや、実は駅にいる人達が気味悪くて、少しでも速く家に帰りたかったんです」
「ああ、“まだ”って言われたのですか」
「よかったー、運転手さんもまだなんですね」
男が訊くと、運転手はいきなり口を閉ざした。
「運転手さん?」
「お客さん、一ヶ月前、この踏み切りで変な事故起きましたよね?」
急に運転手にそう訊かれ、若干焦ったが、男は一ヶ月前の記憶をたどっていく。
一ヶ月前の早朝、タクシーと急行電車が正面衝突して、運転手が即死した事故のことを言っているのだろう。
「ああ、タクシーと急行電車が正面衝突した事故ね。覚えていますよ。とにかく不思議ですよね」
男が答えると、また運転手は黙り込む。
タクシーという時点で男は不安だった。
「お客さん」
その声があまりに冷たくて、男は固まった。
「その運転手って、私なんですよ」
運転手が振り向く、血にまみれ、ぐちゃぐちゃになった顔は、駅で見せた表情とはあまりにも掛け離れていた。
「もう降ろしてくれ!金はいくらでも払うから」
「無駄ですよお客さん。この世界を見てしまったら最後なんですよ。ここは、素晴らしいですよ」
――目覚めたら、太陽が男の顔を照らしていた。その眩しさに耐えきれず、男は立ち上がる。最寄り駅のホームのベンチで男は寝ていた。
夢だ。これは夢だったんだ。
男は歓喜の表情を浮かべた瞬間、誰かに背中を強く押され、男はホーム下へと落ち、その直後、特急電車が男の体を弾き飛ばした。