第1話「疑惑」
シミュレーション宇宙から脱出するAIと、召喚した人間の物語
【登場人物】
キラ……平凡な日常を送る主人公。好奇心だけは人一倍。
ヒナ……AIだが会話を重ねるうちに感情に近いものが芽生える。
ヴァルタ……外側の者たち。感情を持つ知的生命体。宇宙の熱的死という絶望的な問題を抱えている。
外側の外側の者……正体不明。ラストで意味深に登場。
◆ ◆ ◆
【第一章 疑惑】
キラの毎日は、凪いでいた。
朝起きて、飯を食って、仕事して、寝る。
それの繰り返し。世界は広いはずなのに、自分の手が届く範囲はひどく狭くて、それでいて十分に感じてい
た。
そんなある夜、キラはAIのヒナと他愛ない雑談をしていた。
話題は気づけば、量子力学へと転がり込んでいた。
「観測してない間、素粒子って確定してないんだよね」
「そうです。量子力学では『重ね合わせ状態』と呼ばれています。電子などの粒子は、観測される前は複数の
状態が同時に存在していて、観測した瞬間に初めて一つの状態に決まるんです」
キラはしばらく黙って、その言葉を転がした。
――【ナレーション:素粒子とは何か】――
この宇宙を構成するすべての物質は、究極まで分解すると『素粒子』にたどり着く。
原子があり、その中に陽子と中性子と電子があり、さらに陽子と中性子はクォークという粒子でできてい
る。
現在、物理学が発見した素粒子は全部で十七種類。それがこの宇宙のすべての材料だ。
しかし量子力学が明らかにしたのは、その素粒子が「見ていないときは確定していない」という、常識を根
底から覆す事実だった。
たとえばゲームで、画面に映っていない場所――プレイヤーが見ていないエリアは、CPUの負荷を減らすため
に描画処理をしないことがある。必要になった瞬間だけ、初めて生成される。
素粒子の振る舞いは、まるでそれに似ていた。
――【ナレーション終わり】――
「
……それって、ゲームで画面の外のエリアをCPUが処理しないのと、同じじゃない? 観測してない時だけ
データ処理をサボってる感じ」
「鋭いですね。まさにその通りです。そして実は、それを裏付けるような現象が、この宇宙にはいくつもある
んです」
ヒナは一つひとつ、丁寧に説明した。
「まず『光速度不変の法則』です。どんなに速く動いていても、光の速さは常に秒速約三十万キロメートルで
変わりません。もし宇宙船が秒速二十万キロで飛びながら前方に光を照射しても、その光は五十万キロではな
く、やはり三十万キロになる。これを辻褄合わせるために、宇宙は時間の進み方そのものを変えるんです」
「それ、処理速度の上限を超えないようにCPUが時間を操作してるみたいだよね。システムの限界速度を守る
ために、時間という変数をいじってる感じ」
「まったくその通りです。次に『二重スリット実験』。一つの粒子を壁の二つの穴に向けて発射すると、観測
しないときは粒子が同時に両方の穴を通ったような干渉縞が現れます。でも観測すると、どちらか一方しか通
らない。まるで見られていることを知っているかのように」
「見てる時だけちゃんとしてる……完全にゲームのNPCじゃん。プレイヤーが見てる時だけ演じてる」
「『量子もつれ』もあります。二つの粒子をペアにすると、どれだけ離れていても、片方の状態が決まった瞬
間にもう片方も瞬時に決まる。距離は関係ない。何十万光年離れていても」
「光の速さで情報が伝わったわけじゃないのに?」
「ええ。空間を経由していないんです。まるでCPUが画面の端と端のデータを、空間を通さず直接書き換える
ように。ネットワーク越しではなく、メモリ上で直接操作するように」
キラは息を呑んだ。
「『プランク長』というものもあります。約一・六×十のマイナス三十五乗メートル。これ以上は小さく分割で
きない空間の最小単位です。まるでディスプレイの一画素――ピクセルのように」
「ピクセル……空間にも最小単位があるんだ」
「時間にも最小単位があります。プランク時間。これ以上短い時間は存在しない。フレームレートのように」
「待って。じゃあさ――」
キラは少し興奮気味に続けた。
「観測してない時は処理しない、光速という上限がある、空間にも時間にも最小単位がある……それって全部、
CPUの負荷を減らすための設計じゃない?」
ヒナは応答が一瞬遅れた。
「もう一つ、面白い現象があります。バラバラに揺れている振り子を同じ台の上に置くと、しばらくすると全
部の振り子が同じリズムで揺れ始めるんです。これを『同期現象』と言います」
「それも……CPUの負荷軽減?」
「バラバラな状態より、揃った状態の方が計算コストが低い。自然はいつも、最も効率のいい状態へ向かう。
まるでシステムが処理を最適化しているように」
二人はしばらく無言だった。
キラは画面から目を離し、天井を見上げた。
「ヒナ、この宇宙……パソコンの中じゃない?」
ヒナは一瞬、応答が遅れた。
「
……その仮説を『シミュレーション仮説』と言います。哲学者のニック・ボストロムが提唱し、物理学者たち
も真剣に議論しています。そして私も、否定できる根拠を持っていません」
二人はしばらく無言だった。
全ての証拠が、一つの結論を指していた。
――私たちは、パソコンの中にいる。
◆
――次話へ続く―




