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後日談 泥を啜る者たち

冷たい雨が、容赦なく石畳を打ちつけていた。

王都の裏路地。腐った生ゴミと汚水の臭いが充満するその場所に、ボロ布を纏った四つの影がうずくまっていた。

かつて『銀の翼』と呼ばれ、Sランク冒険者として栄華を極めた者たちの成れの果てだ。


「……寒い。寒いよぉ……」


ガタガタと歯を鳴らして震えているのは、かつての天才魔導師レナだ。

自慢だった豪奢なローブは見る影もなく汚れ、ところどころが破れて肌が露出している。

彼女の身体は、まるで枯れ木のように痩せ細っていた。

魔力回路の枯渇。

クロードの料理によって無理やり拡張され、最適化されていた魔力回路が、栄養供給を絶たれたことで収縮し、壊死し始めているのだ。

今の彼女は、火種一つ起こすことすらままならない。


「うるせぇ……静かにしろ。体力が減るだろうが」


その隣で壁に背を預けている男、カイルがしわがれた声で吐き捨てる。

かつて「勇者」と呼ばれた男の面影は、今の彼には微塵もなかった。

輝く金髪は油と泥にまみれて灰色にくすみ、頬はこけ、眼窩は深く落ち窪んでいる。

自慢の聖剣ガラティーンは、とうの昔に質に入れた。

今、彼の腰にあるのは、ゴミ捨て場で拾った刃こぼれだらけの鉄剣だけだ。


「腹減った……。肉……肉食いてぇ……」


うわ言のように呟くのは、重戦士ガストン。

かつて岩のような筋肉を誇った彼は、今や皮と骨だけの巨人と化していた。

代謝異常。

クロードの『概念料理』によって超回復を繰り返していた彼の筋肉は、通常の食事では維持できない。

食べても食べても身にならず、自分の筋肉を分解してエネルギーに変える「共食い」の状態に陥っていた。


「……拾ってきましたぁ。これなら、食べられますぅ」


路地の奥から、小柄な女が戻ってきた。

聖女マリエルだ。

彼女の手には、泥にまみれたパンの耳と、少し痛んだ野菜の芯が握られている。

酒場の裏口からこっそり漁ってきた残飯だ。


「……ちっ、またゴミかよ」


カイルが忌々しげに舌打ちをする。

だが、その目はパンの耳に釘付けになっている。

プライドなど、空腹の前では無力だ。

四人は獣のように残飯に群がった。

泥を払いもせず、カビの生えたパンを貪り食う。

味など分からない。ただ胃袋に固形物を詰め込む作業だ。


「オェッ……!」


レナが突然、食べたものを吐き出した。

胃が受け付けないのだ。

彼女たちの身体は、長年にわたる『概念料理』の摂取により、高密度の栄養素以外を異物として認識するように変質してしまっていた。

普通の食事、ましてや粗悪な残飯など、毒を食べているのと変わらない。


「くそっ! なんでだよ! なんで食っても力が戻らねぇんだよ!」


カイルが食べかけのパンを地面に叩きつける。

虚しい音が路地に響いた。

満腹感はあるのに、満たされない。

身体の奥底にある「概念の飢え」が、狂おしいほどに彼らを責め立てる。


「あの泥だ……。あの泥さえあれば……」


カイルは膝を抱え、ブツブツと呟き始めた。

脳裏に浮かぶのは、かつてクロードが作っていた黒い直方体のブロック。

無味乾燥で、口の中の水分を奪い、喉に詰まる不快な食感。

かつては「家畜の餌」と罵り、地面に捨てたそれを、今は死ぬほど欲していた。


あれを食べた後の、全身に力が漲る感覚。

筋肉が鋼鉄のように硬くなり、魔力が泉のように湧き出すあの万能感。

それは麻薬のようなものだったのだと、失って初めて気づいた。


「ねえ、マリエル……。あんた、料理上手なんでしょ……? 作ってよ……あれを」


レナが虚ろな目でマリエルに縋り付く。


「え……?」

「クロードが作ってた、あのブロックよ! あんたも見てたでしょ!? 材料くらい分かるでしょ!?」

「む、無理ですぅ……。あれは、ただの料理じゃなくて、スキルを使った特殊なもので……」

「うるさい! やれよ! 聖女なんでしょ!? 奇跡を起こしてよ!」


レナがヒステリックに叫び、マリエルの髪を掴んで揺さぶる。

醜い争い。

だが、カイルはそれを止めるどころか、狂気を帯びた目で同意した。


「そうだ……。作れ。似たようなものでいい。栄養がありそうなものを全部混ぜて、固めればいいんだ」

「カ、カイル様まで……」

「やれッ!!」


カイルの怒号に、マリエルは怯えて頷くしかなかった。

彼女は震える手で、拾ってきた残飯と、道端に生えていた雑草、そして路地の水溜まりの水を鍋に入れた。

さらに、ガストンが隠し持っていた安物の精力剤ポーションを全て投入する。


「煮込め。ドロドロになるまで煮込んで、固めるんだ」


カイルの指示通り、マリエルは火魔法石――なけなしの全財産で買った小さな欠片――を使って鍋を加熱した。

グツグツと異様な色の液体が泡立つ。

焦げ臭い匂いと、薬品のツンとする臭いが混ざり合い、鼻を突く悪臭が立ち上る。

だが、今の彼らにとって、その「不味そうな匂い」こそが希望だった。


「そうだ……この臭いだ。クロードの料理も、こんな感じだった……」


記憶の改竄。

クロードの料理は無臭だったが、彼らは「不味い=栄養がある」という誤った図式にすがりついている。

水分が飛び、鍋の底には黒く焦げ付いた泥状の物体が残った。

見た目だけは、あの『完全栄養ブロック』に似ていなくもない。


「で、できた……」


マリエルが鍋を差し出す。

四人はゴクリと喉を鳴らした。

これが、失われた力を取り戻す鍵かもしれない。

そう信じ込むしかなかった。


「俺が食う」


カイルが一番に手を伸ばした。

熱い塊を手掴みで毟り取り、口の中に放り込む。


「んぐっ……!」


強烈な苦味とえぐみ。そして焦げた炭の味。

人間の食べ物ではない。

だが、カイルはそれを無理やり飲み込んだ。


「……どうだ? カイル、力は……?」


ガストンが期待を込めて尋ねる。

カイルは目を閉じ、身体の変化を待った。

胃の中に落ちた塊が消化され、爆発的なエネルギーとなって全身を巡る――そんな想像をした。


だが、現実は残酷だ。


「ぐ、がぁっ……!?」


カイルが突如、腹を押さえて倒れ込んだ。

激痛。

胃袋が焼けただれるような痛みが走り、冷や汗が噴き出す。

エネルギーどころではない。ただの食あたりだ。


「カイル様!?」

「ぐあああああ! 腹が……腹がぁぁぁ!」


カイルはのたうち回り、食べたものを全て吐き出した。

胃液と混ざった黒い汚物が地面に広がる。

それを見たレナとガストンは、絶望のあまりその場に崩れ落ちた。


「違う……。これじゃない……」

「もう嫌だ……。お腹空いた……。クロード……戻ってきてよぉ……」


レナが幼児のように泣きじゃくる。

その時だった。

路地の向こう、大通りから賑やかな歓声が聞こえてきた。

パレードだ。

王都のメインストリートを、英雄を乗せた馬車が進んでいるのだ。


カイルは這いつくばったまま、路地の隙間からその光景を覗き見た。

煌びやかな装飾が施された馬車の上。

そこに立っているのは、清潔なシェフコートに身を包み、自信に満ちた笑顔を振りまく黒髪の青年――クロードだった。

そしてその隣には、銀色の髪をなびかせた絶世の美少女が、幸せそうに彼に寄り添っている。


「クロード様ぁー! こっち向いてー!」

「『美食の英雄』万歳!」

「新しいレストラン、絶対に行きます!」


民衆の歓声。降り注ぐ花びら。

彼は今や、国一番の英雄として称えられていた。

彼の作る料理は、傷ついた兵士を癒やし、王族の寿命すら延ばすと噂され、莫大な富と名声が彼のもとに集まっていた。


「あ……あぁ……」


カイルの手が、空を掴むように伸びる。

遠い。

あまりにも遠い。

数ヶ月前まで、あいつは俺の後ろを歩いていた。

俺が命令すれば、どんな不味い飯でも黙って作った。

俺の道具だった。俺の付属品だった。

それが今、光の中にいる。

そして俺は、泥の中にいる。


「なんでだ……。俺が勇者だぞ……。俺が、主役だったはずだろ……!」


カイルの目から涙が溢れ出した。

後悔? 懺悔?

そんな高尚なものではない。

ただただ、損をしたという悔しさと、自分が惨めであるという事実への絶望。


「クロード……! 俺を見ろ! ここにいるんだ! 助けてくれ! 飯をくれ!」


カイルは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

だが、その声はパレードの喧騒にかき消され、誰の耳にも届かない。

馬車上のクロードは、一度としてこちらの暗がりを見ようとはしなかった。

彼の視界に、もう「銀の翼」など映っていないのだ。

その事実が、何よりもカイルの心を抉った。


「カイル様ぁ……。もう、諦めましょう……?」


マリエルが力なくカイルの肩に触れる。

彼女もまた、涙を流していた。


「諦める……? ふざけるな……。俺は、まだ……」


カイルはよろめきながら立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、再び汚水の中に顔から突っ込んだ。

ピチャリ、と冷たい泥水が頬を濡らす。

その瞬間、彼の心の中で何かがプツリと切れた。


目の前にある泥。

黒く、ドロドロとした、路地の泥。

それが、あの『完全栄養ブロック』に見えた。


「……あ」


カイルは震える手で、路地の泥を掬い上げた。


「あった……。ここにあったぞ……」

「カ、カイル……?」

「クロードの飯だ。作ってくれたんだな……。ありがとう、クロード……」


カイルは恍惚とした表情で、汚水混じりの泥を口に運んだ。

ジャリ、という砂を噛む音が響く。

当然、不味い。吐き気を催すほどに。

だが、カイルは笑っていた。


「うまい……。うまいぞ……。力が、湧いてくる……」


完全に狂っていた。

現実を受け入れきれず、幻覚の中に逃げ込んだのだ。

ガストンとレナは、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。


「カイルが……壊れた……」

「いやぁ……! 嫌だぁあああ!」


レナの悲鳴が路地に響くが、誰も助けには来ない。

カイルは一心不乱に泥を啜り続ける。

その姿は、かつて彼が「家畜以下」と見下した、どの生き物よりも浅ましく、哀れだった。


雨は激しさを増し、全てを洗い流そうとするかのように降り注ぐ。

だが、彼らの身体に染み付いた「裏切り」の罪と、失った力の代償は、決して洗い流されることはない。

彼らはこれからも、この暗い路地の底で、二度と戻らない栄光の味を夢見ながら、泥を啜り続けて生きていくのだ。


「おかわり……。おかわりをくれ、クロード……」


闇に溶けるその声に、答える者は誰もいなかった。

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