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第二話 解き放たれた料理人、伝説を餌付けする

ダンジョンの入り口から漏れ出る冷気とは対照的に、外の世界は鮮やかな夕焼けに包まれていた。

頬を撫でる風が心地よい。

俺、クロードは大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。

肺の中の澱んだ空気が全て入れ替わったような感覚。

それは単なる呼吸によるものではなく、精神的な解放感によるものだった。


「……軽いな」


俺は自分の手のひらを握ったり開いたりしながら呟いた。

物理的な荷物を下ろしたからだけではない。

身体の奥底から湧き上がってくる魔力が、指先までスムーズに循環しているのが分かる。

これまで、俺の魔力の八割近くは、無意識のうちにカイルたち三人の肉体維持とステータス補強のための『パス』へと流れていた。

彼らに食べさせた『概念料理』の効果を持続させ、副作用を抑え込むための制御コストだ。

だが、そのパスはもう切れた。

今、俺の体内には、本来俺が持っていたはずの全魔力が満ち満ちている。


「あいつらのステータスを無理やりSランクに引き上げてた分のリソースが、全部自分に返ってきたわけか」


皮肉な話だ。

俺を「無能」と呼んだ彼らが強かったのは、俺が自分の力を削って彼らに注ぎ込んでいたからに他ならない。

まあいい。もう終わったことだ。

俺は懐から地図を取り出し、行き先を確認する。

王都へ戻る気はなかった。

カイルたちは冒険者ギルドで俺のことをあることないこと吹聴するだろう。「不味い飯を作る無能を追い出した」と。

そんな雑音に付き合うのは御免だ。

俺が目指すのは、ここから北へ十キロほど進んだ先にある『静寂の森』。

高ランクの魔物が生息するため、普通の冒険者は近づかない危険地帯だが、そこなら希少な食材も手に入るし、何より静かだ。


「まずは、飯だな」


腹の虫が鳴いた。

そういえば、朝から何も食べていない。

カイルたちのために栄養ブロックを作り、彼らがそれを地面に叩きつけるのを見ていただけだ。

俺は一歩を踏み出した。

地面を蹴る足に力が漲る。

身体強化の魔法など使っていないのに、景色が後ろへ飛び去っていく。

これが、俺の本来の身体能力。

俺は風になり、森へと駆け込んだ。



『静寂の森』はその名の通り、不気味なほどに静まり返っていた。

だが、俺の『索敵』スキルには、数多の生命反応が映し出されている。

その中の一つ、手頃な獲物を見つけ、俺は音もなく接近した。

体長三メートルほどの巨大な猪、『アイアンボア』だ。

鉄のような剛毛に覆われたその皮膚は、生半可な剣では傷一つつかない。

Bランク相当の魔物。かつてのカイルたちなら、数人がかりで連携して倒す相手だ。


「フゴォッ!?」


アイアンボアがこちらの気配に気づき、突進しようとした瞬間。

俺は腰のナイフを抜き放ち、その眉間を一突きしていた。


「……柔らかいな」


以前なら硬くて通らなかったはずの皮が、豆腐のように切れた。

俺の『概念料理』スキルは、食材と認識した対象に対して特攻効果を持つ。

今の俺にとって、このアイアンボアはただの脅威ではなく、調理されるのを待つ「肉」でしかない。

ドサリ、と巨体が地に伏す。

俺はすぐに解体作業に入った。

皮を剥ぎ、良質なロース肉を切り出す。

その手際は、長年パーティの料理番を務めてきた経験が染み付いている。

だが、今俺が手にしているのは、あの無味乾燥なブロックの材料ではない。

脂の乗った、極上の猪肉だ。


「さて、どう料理するか」


俺は近くの開けた場所に陣取り、魔石コンロに火を入れた。

フライパンの上に、アイアンボアの脂身を落とす。

ジュワァァァ……という小気味よい音と共に、甘い脂の香りが立ち上る。

これだ。この香りだ。

俺が求めていたのは、効率だけの栄養摂取じゃない。

五感を震わせる「食事」だ。


俺はスキル『概念料理』を発動させる。

これまでは「筋力増強」や「魔力回復」といった実用的な概念ばかりを付与していたが、今回は違う。

俺が周囲の空間から抽出したのは――


『極上の旨味』

『とろける食感』

『至福』


それらの概念を、目に見えないスパイスとして肉に振りかける。

さらに、森に自生していた香草『タイムリーフ』を加え、肉の臭みを消しながら芳醇な香りを纏わせる。

肉の表面が狐色に変わり、脂がパチパチと跳ねる。

ナイフを入れると、中からはロゼ色の断面が顔を出し、肉汁が溢れ出した。


「よし、完成だ」


『アイアンボアの概念ステーキ〜至福の香草焼き〜』。

皿に盛り付けようとした、その時だった。


ゾクリ。


背筋に冷たいものが走った。

殺気ではない。もっと根源的な、捕食者としての圧倒的なプレッシャー。

俺はフライパンを持ったまま、ゆっくりと振り返った。

森の奥、闇の深淵から、二つの蒼い光がこちらを覗いていた。

それは、巨大な狼だった。

体高は五メートルを超え、その毛並みは月光を浴びた雪のように白く輝いている。

だが、その体躯は見るからに痩せ細り、あばら骨が浮き出ていた。

腹の皮が背中にくっつきそうなほどの飢餓状態。

それにも関わらず、放たれる威圧感はSランク魔物であるアビス・ガーディアンを遥かに凌駕している。


「……フェンリルか」


神話級の魔獣。世界を喰らい尽くすと伝承される伝説の存在。

なぜこんな森にいるのかは分からないが、その首には光の鎖のようなものが巻き付いていた。

封印、あるいは呪縛か。

フェンリルはふらつく足取りで俺に近づいてくる。

グルルル……と喉を鳴らしているが、それは威嚇というよりは、腹の虫の音に近い。


『……ニンゲン……』


頭の中に直接、念話が響いた。

凛とした、だが今にも消え入りそうな女性の声だ。


『その……良い匂いのするものを……寄越せ……』


命令形だが、切実さが滲み出ている。

俺はフライパンの中のステーキと、目の前の伝説の魔獣を見比べた。

普通なら逃げ出すか、武器を構える場面だ。

だが、俺の中に恐怖はなかった。

むしろ、料理人としての血が騒いだ。

目の前に、腹を空かせた客がいる。それがたとえ世界を滅ぼす魔獣であっても、俺にとっては等しく「客」だ。


「食いたいのか?」

『……寄越さねば……貴様を喰らう……』

「俺を喰っても不味いぞ。筋張ってるしな。だが、こいつは絶品だ」


俺はフライパンを揺すり、肉の香りをさらに拡散させた。

フェンリルの喉がゴクリと鳴り、口端から大量の涎が滴り落ちる。

どうやら限界らしい。


「いいだろう。食わせてやる。ただし、条件がある」

『……条件だと……? 我に指図する気か、下等種族が……』

「嫌なら食うな。俺が一人で食う」

『……ッ!』


俺が肉を口に運ぼうとする素振りを見せると、フェンリルは目に見えて狼狽した。

プライドと食欲の壮絶な戦い。

だが、数秒と持たずに食欲が勝利したようだ。


『……分かった。何でも聞く。だからそれを……それを早く!』


陥落した。

俺は苦笑しつつ、皿に特大のステーキを盛り付け、フェンリルの鼻先に差し出した。


「熱いから気をつけろよ」


忠告を聞く間もなく、フェンリルは皿に顔を突っ込んだ。

ガツガツガツッ!

行儀もへったくれもない勢いで、肉に齧り付く。

その瞬間、フェンリルの動きがピタリと止まった。


『――――ッ!?』


蒼い瞳が見開かれる。

俺が付与した『概念』が炸裂したのだ。

ただ美味いだけではない。

舌の上で肉の繊維がほどけ、凝縮された旨味が爆発的に広がる。

噛み締めるたびに溢れ出る肉汁は、乾ききった彼女の五臓六腑に染み渡り、枯渇していた生命力を潤していく。

それは食事という行為を超えた、魂の修復作業だった。


『ん、んぅぅ……っ! なに、これ……美味しい、美味しい……っ!』


念話の声色が、先ほどの冷徹なものから、とろけるような甘い響きに変わる。

ハフハフと熱い肉を頬張りながら、フェンリルは夢中で咀嚼を続けた。

尻尾がちぎれんばかりに左右に振られている。

それは世界を滅ぼす魔獣の姿ではなく、ただの餌付けされた大型犬のようだった。

俺はアイテムボックスから追加の肉を取り出し、次々と焼いていく。

アイアンボア一頭分の肉が、みるみるうちにフェンリルの胃袋へと消えていった。


そして、最後の肉片を飲み込んだ時。

フェンリルの体が眩い光に包まれた。

光の鎖がパキンと音を立てて砕け散る。

俺の『概念料理』に含まれるエネルギーが、彼女を縛っていた封印を内側から焼き切ったのだ。

光が収束すると、そこには巨大な狼ではなく、一人の少女が座り込んでいた。

透き通るような銀髪に、獣の耳と尻尾。

肌は雪のように白く、何も纏っていない肢体は神々しいほどに美しい。

彼女――人化したフェンリルは、自分の身体を見下ろし、そして俺を見た。

その瞳には、完全なる服従と、熱っぽい崇拝の色が宿っていた。


「……身体が、軽い。力が戻った……いや、それ以上に……」


彼女は立ち上がり、俺の目の前で膝をついた。

額を地面に擦り付ける、最敬礼の姿勢。


「我が名はフェンリル。古の盟約により森に縛られし者。だが、貴殿の料理が我を解き放った」


彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。


「貴殿をマスターと呼ぶことを許してほしい。あの料理……あれをもう一度食べられるなら、我はこの身の全てを貴殿に捧げよう」

「……ただの料理だぞ?」

「いいえ! あれは『概念』そのもの! 魂を震わせる奇跡の味でした! あんなに美味しいものを食べたのは、数千年の生の中で初めてです!」


興奮気味に身を乗り出してくるフェンリル。

その鼻息は荒い。

どうやら、俺はとんでもないものを手懐けてしまったらしい。

だが、悪い気はしなかった。

カイルたちのように「不味い」と文句を言うのではなく、全身全霊で「美味い」と表現してくれる。

料理人として、これほど嬉しいことはない。


「分かった。名前が必要だな。フェンリルじゃ目立ちすぎる。……『フェル』でどうだ?」

「フェル……。はい! 素晴らしい名前です、マスター!」


フェルは満面の笑みを浮かべ、俺に抱きついてきた。

柔らかい感触と温もり。

そして何より、彼女から伝わってくる絶対的な信頼。

俺は彼女の頭を撫でながら、改めて確信した。

これで良かったのだ、と。



一方その頃。王都の高級宿屋の一室。

豪勢な夕食を終えた『銀の翼』のメンバーたちは、満足げに腹をさすっていた。


「いやぁ、食った食った! やっぱマリエルの飯は最高だぜ!」


ガストンがワイングラスを傾けながら上機嫌に叫ぶ。


「ありがとうございますぅ。お口に合って良かったです」


マリエルが恥じらって微笑む。その横で、カイルは爪楊枝を咥えながらソファに深々と座り込んでいた。


「ああ、最高だ。あの泥団子とは大違いだ。……ん?」


カイルはふと、自分の右腕に違和感を覚えた。

コップを取ろうと伸ばした手が、ほんのわずかに重い。

まるで、薄い鉛の膜が張り付いているような感覚。

疲れだろうか?

いや、Sランクの自分が、たかだか今日の戦闘程度で疲労を感じるはずがない。

だが、指先の感覚がいつもより鈍い気がする。


「どうしたの、カイル?」


レナが怪訝そうに尋ねる。


「……いや、なんでもねえ。ちょっと食い過ぎただけかもな」


カイルは腕を回し、強引に違和感を振り払った。

気のせいだ。

そう自分に言い聞かせる。

まさかそれが、崩壊の始まりであるとは夢にも思わずに。


「明日はギルドに行って、新しい依頼を受けるぞ。俺たちの新しい伝説の始まりだ!」

「おー!」


彼らの乾杯の声が夜の街に響く。

だが、その声には、どこか空虚な響きが混じっていた。

彼らの身体を支えていた『土台』は、既に失われている。

その事実に気づくのは、そう遠い未来の話ではない。

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