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腐食する白檜(しらべ)

作者: 神矢幻太
掲載日:2025/11/05

 第一部:湿る土の匂い


 その屋敷は、私鉄沿線の切り通しを抜けた、丘の頂上にあった。

 梅雨の終わりの、重たい雨がしとしとと降り続いている。水原冬弥みずはら とうやは、タクシーの運転手に不審な顔をされながら、錆びついた洋風の門扉の前に降り立った。


 父が死んだ。芸術家だった父は、美しいもの以外何も残さなかった。生活のすべてを失った十七歳の彼にとって、ここが最後の寄る辺だった。

 父の遠縁だという「香月こうづき」家。会ったこともない人々。父が亡くなる間際、「あそこだけは、行くな」と、熱に浮かされたように言っていた場所。だが、他に選択肢はなかった。

 聞かされたのは、病弱な当主と、その世話をする年の離れた従姉妹いとこがいる、ということだけ。


 門を押すと、悲鳴のような蝶番ちょうつがいの音がした。

 一歩、足を踏み入れる。そこは、東京近郊とは思えぬ鬱蒼うっそうとした緑に支配されていた。

 手入れを放棄された庭は、しかし無秩序な活気に満ちていた。名も知らぬつたが古い石灯籠に絡みつき、本来は刈り込まれるべき枝が天を突き、紫陽花あじさいが毒々しいまでの青を雨に晒している。

 湿った土と腐葉土の匂い。その奥に、不意に甘く、古い香木のような匂いが混じった。

 白檀。

 そして、その奥に微かに潜む、古い蔵のようなカビの匂い。


 屋敷は、西洋館に無理やり和風の離れを繋げたような、ちぐはぐな建物だった。ステンドグラスの嵌まった玄関扉は固く閉ざされ、人の気配はない。

 冬弥は呼び鈴を押すのをためらい、濡れた前髪を無造作にかき上げた。雨水が、彼の若く形の良い頬を伝って落ちる。父に似た、少し神経質そうな、しかし整った目鼻立ち。


 その時だった。

「……お待ちしておりました」


 声は、玄関からではなく、庭の奥、離れへ続く渡り廊下の陰からした。

 息を呑むほど白い女が、そこに立っていた。


 年の頃は、三十代半ばだろうか。冬弥の倍を生きてきたはずのその女は、時間の流れから取り残されたように見えた。

 深い紫色の単衣ひとえを、まるで寝間着のように緩く着流している。まとめられた黒髪は重たげに湿り、数本の後れ毛が、白粉おしろいの匂いを放つうなじに貼り付いていた。

 虚ろ、と評すべき大きな双眸そうほう。だがその瞳の奥には、消えない熾火おきびのような光が宿っている。


香月朱音こうづき あかねと申します。あなたが、冬弥さん?」

 低い、少し掠れた声だった。

「は、はい。水原冬弥です。この度は……」

「堅苦しい挨拶は不要ですわ。……ずいぶん、濡れましてよ」


 朱音はそう言うと、冬弥の顔を、まるで品定めでもするかのように、ゆっくりと眺めた。

 それは遠縁の少年を迎える目ではなかった。埃をかぶった美術品を、売り物になるかどうか吟味するような、冷たく、同時にねっとりとした視線だった。

 冬弥は居心地の悪さに俯いた。


「主人は病床にあります故、ご挨拶はまた。……あなたの部屋はこちらです」


 案内されたのは、離れの一番奥、庭に面した六畳間だった。古い畳の匂いと、微かな白檀の香りがする。

「あなたの仕事は、書生とは名ばかりの、私の雑用です。それと、あの荒れた庭の草むしり。できるでしょう?」

「……はい。何でもします」

「そう。利口な子は、好きよ」


 朱音は満足そうに口の端を歪めると、冬弥の学生服の肩に触れた。雨で冷たく湿った布地。

「お風呂をお使いなさい。着替えは……そうね、主人の古い浴衣ゆかたでよければ、お持ちします」

 その指先が、肩から首筋へ、一瞬だけ滑った。

 冬弥の背筋を、冷たいような熱いような、奇妙な感覚が走り抜ける。彼は反射的に半歩後ずさっていた。


「あら。怖がらないで。……綺麗な肌」


 朱音はくすくすと喉の奥で笑い、障子戸の向こうへ消えた。

 衣擦きぬずれの音と、白檀の残り香だけが、湿った部屋に濃く残された。


 第二部:病床の気配


 冬弥の屋敷での生活は、その日から始まった。

 病床の主人には、一度も会うことはない。広い屋敷には、朱音と冬弥、そして週に二度だけ通ってくる無口な家政婦以外、誰もいない。


 冬弥の主な仕事は、言葉通り、庭の草むしりだった。

 雨が上がると、夏の強い日差しが、湿った庭の植物を蒸らし、むせ返るような青臭い匂いを立ち上らせる。

 汗だくになって雑草を引き抜く。土に汚れた手のひら。生きている実感。それは、父を失って無気力だった冬弥にとって、唯一の救いだった。


 だが、彼が作業に没頭していると、必ず視線を感じる。

 見上げると、離れの座敷の御簾みすの奥。朱音が、頬杖をついてこちらを見ている。

 目が合うと、彼女は妖しく微笑むだけで、決して声をかけることはない。


 ある日の昼下がり。

 冬弥が母屋に近い縁側の下の雑草を抜いていると、屋敷の中から、微かな音が聞こえた。

 コホ、コホ、と。

 乾いた、肺の奥から絞り出すような咳。

 そして、白檀とは違う、薬湯か何かをくすべたような、重たい匂い。


(……ご主人、か)


 冬弥は動きを止めた。

 あの咳は、ひどく苦しそうだ。生きている。ここにいるのだ。

 その時、背後の障子がすっと開いた。


「……何を遊んでいるの。手をお止めでないわ」

 朱音だった。

「あ、いえ……今、咳が聞こえたので」

「そう」


 朱音の返事は短かった。

 その美しい横顔から、すっと表情が消える。いつも浮かべている気だるげな笑みではなく、まるで能面のような無表情。

「あの人は、咳をすることしかできなくてよ。……それより、あなた。汗がひどいわ」


 彼女は、まるで咳の音をかき消すかのように、冬弥に言った。

「夕刻になったら、私のお話し相手。忘れてないでしょうね」

 その瞳には、一瞬よぎった無表情の代わりに、いつものねっとりとした光が戻っていた。


 夕刻。

 汗と泥を洗い流し、ぶかぶかの浴衣に着替えた冬弥は、朱音の部屋に呼ばれる。

「お話し相手」という名の、奇妙な時間。


「冬弥さん。その浴衣、やはりあなたには大きすぎたわね」

 その日、茶室で、朱音は一人、薄暗い中で冷酒を飲んでいた。

 蒸し暑さのせいか、薄絹の単衣一枚だけを羽織っている。襟元は大きくはだけ、汗ばんだ白い胸の谷間が露わになっている。

 冬弥は、目のやり場に困り、畳の一点を見つめた。


「まあ、そんなに固くならずに。こちらへ」

 手招きされる。逆らえない。

 冬弥がおずおずと近づくと、朱音は彼の浴衣の帯に手をかけた。

「……私が、直して差し上げます」

「い、いえ、自分で……!」

「お黙りなさい」


 朱音の指が、冬弥の腰骨の上を這うように帯を解き、そして締め直す。

 酒の匂いと、彼女の白粉の匂い、そして汗の匂いが混じり合った、甘く重たい香りが冬弥を包む。

 近い。近すぎる。


 朱音の熱い吐息が、浴衣の隙間から彼の胸にかかる。

「……本当に、綺麗な肌。傷一つない」

 朱音の指が、帯を締めるふりをしながら、彼の腹のあたりをゆっくりと確かめるように撫でた。


 冬弥は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

 これは間違っている。背徳だ。彼女は年上の、保護者であるはずの女性だ。

 そして何より、この屋敷の主人が、あの乾いた咳をしていた主人が、すぐそこの母屋に息づいているのだ。


 だが、身体は石のように動かない。

 それどころか、腹の奥底から、未知の熱が込み上げてくるのを、彼は自覚していた。

 あの乾いた咳の音を思い出すほど、目の前の朱音の「生」の熱が、際立って感じられた。


「……ふふ。顔が赤いわ。可愛い」

 朱音は、彼の反応を心底楽しむように笑い、ゆっくりと手を離した。

「あなたは、あの人の代わりに、この庭の手入れをしてくれるのでしょう? ……いいわ、とても。若くて、素直で」


 彼女は立ち上がり、窓辺に寄りかかった。

「今夜は、雨が荒れるそうよ」


 彼女の声は、どこか予言めいていた。

 その夜、屋敷の古い窓ガラスを叩きつける、激しい嵐がやってきた。


 第三部:嵐の夜の熾火


 その夜、朱音の予言通り、嵐は屋敷をなぶるように荒れ狂った。

 日付が変わる頃、冬弥は自室の布団の中で、固く目を閉じていた。眠れなかった。古い屋敷は、風が吹き抜けるたびに家全体がきしみ、このまま崩れ落ちてしまうのではないかと思えるほどだった。


 庭の木々が窓ガラスを叩く音。遠雷の地響き。

 そして、それら全ての音を切り裂いて、甲高い金属音が響いた。


 キィン、と。


 冬弥は跳ね起きた。

 いまのは何の音だ。嵐の音ではない。もっと澄んだ、人の手による音。


(……鈴?)


 朱音の部屋の方向からだ。

 まさか、こんな嵐の夜に、自分を呼んでいるのか。

 無視しよう、と彼は思った。昼間の、あの腹の底を撫でられたような、生々しい感触が蘇る。あの人は、まともじゃない。


 キィン、キィン、と。


 鈴の音は、嵐の轟音の合間を縫って、執拗に繰り返される。

 それはまるで、助けを求める悲鳴のようにも、あるいは、獲物を誘う罠の音のようにも聞こえた。


 その瞬間、屋敷のすべての明かりが、ぷつりと消えた。


「……っ!」


 完全な闇。雷の光だけが、一瞬、障子に荒れ狂う庭の影を映し出す。

 停電だった。


 こうなると、もう無視はできない。

 病床の主人は? あの乾いた咳をしていた人は、この暗闇と轟音の中で、どうしている?

 いや、それよりも、あの鈴の音。朱音は。

 冬弥は手探りで壁際の燭台しょくだいを探し当て、慣れない手つきでマッチを擦った。

 頼りない炎が、彼の青ざめた顔をぼんやりと照らし出す。


 浴衣の帯を締め直し、燭台を片手に、彼は軋む廊下を朱音の部屋へと向かった。

 雨漏りする箇所があるのか、廊下のところどころが濡れて光っている。自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。


 朱音の部屋の前に着く。障子は固く閉ざされている。

「朱音さん。……大丈夫ですか。停電です」

 声をかけるが、返事はない。

 あの鈴の音も、今はもう聞こえない。


 まさか。

 冬弥の胸を、嫌な予感がよぎる。

「失礼します……!」


 彼はためらいを振り切り、障子に手をかけた。

 滑るように開いた戸の先。

 部屋は、彼の持つ蝋燭の光にぼんやりと照らし出された。


 朱音は、いた。

 窓辺の長椅子に、ぐったりと身を預けるようにして。

 彼女の足元には、銀の小さな鈴が転がっていた。


「朱音さん!」

 冬弥は駆け寄った。

 彼女は薄い寝間着のようなものを一枚まとっているだけで、嵐に怯えたのか、その白い肩は小刻みに震えているように見えた。


「……ああ、冬弥さん。……来たのね」

 顔を上げた朱音は、しかし怯えている様子はなかった。

 その瞳は、嵐のせいか、酒のせいか、あるいは別の何かのせいか、異様に潤んで濡れていた。

 部屋には、昼間よりもずっと濃い、白檀と酒の匂いが満ちている。


「よかった。てっきり、怖がっておられるのかと」

 冬弥が安堵の息をつくと、朱音は力なく笑った。

「怖い? まさか。……ただ、少し、寒くて」


 彼女はそう言うと、冬弥に向かって、震える手を差し出した。

「……あなたの手を、少し、貸してちょうだい。冷えてしまって」


 冬弥は、命令されるまま、燭台を床に置き、彼女の前にひざまずいた。

 そして、自分の手を、朱音の差し出す白魚のような手に重ねた。

 彼女の手は、触れた瞬間、氷のように冷たかった。


「……あったかい。あなたは、温かいのね」

 朱音はうっとりとしたように目を細め、冬弥の手を握り返す。

 そして、そのまま彼の手を引き寄せ、自分の頬に押し当てた。

 冷たい肌に、冬弥の若く熱いてのひらが密着する。


「やめ……」

「しっ。嵐の音を聞いていて」


 朱音のもう片方の手が、冬弥の首筋に伸びる。

 冷たい指先が、彼の浴衣の襟元をゆっくりとまさぐり、その内側、汗ばんだ肌に触れた。

 冬弥は息を呑んだ。全身の血が、触れられた一点に集中する。


 背徳感。

 逃げなければ。

 そう思うのに、朱音の瞳に見据えられると、金縛りにあったように動けない。

 彼女の瞳は、この嵐の夜の闇そのものだった。深く、すべてを吸い込んでいく。


「あなたは……生きているわ。ちゃんと、熱い血が通っている」

 朱音は、まるで乾いた喉で水を求めるように、冬弥の熱を確かめている。

 彼女の指は、冬弥の鎖骨の窪みを辿り、その心臓の、浴衣の上からでもわかるほどの激しい鼓動を、確かめるように押さえた。


「……私はね、冬弥さん。ずっと、この屋敷で腐っていくのを待っていた」

 吐息が、酒の匂いと混じって冬弥の顔にかかる。

「あの・・が、ああなってから……ずっと。この屋敷の、生きたしかばねとしてね」

 彼女の瞳が一瞬、母屋のある方角に向けられた。憎悪とも諦念ともつかぬ、暗い光。

「でも、あなたという『生』が迷い込んできた」


「朱音さん、俺は……」

「あなたは、私を憐れんでくれる?」


 そう言った瞬間。

 朱音は、冬弥の首筋に触れていた自らの指先に、顔を寄せた。

 そして、冬弥の肌に触れた、その自分の指先に、唇を押し当てた。

 間接的な、しかし、あまりにも生々しい口づけだった。

 冬弥の肌の熱と匂いを、自分の指先ごと味わうかのように。


「あ……っ」

 冬弥の喉から、声にならない声が漏れた。

 理性の最後の糸が、音を立てて焼き切れる。


 その時、一際ひときわ大きな稲光が窓を白く染め上げ、遅れて轟音が屋敷を揺るがした。

 その衝撃に、床に置かれた燭台が倒れる。

 炎が畳に落ち、一瞬でかき消された。


 完全な、闇。

 嵐の音だけが、世界を支配する。


 暗闇の中、冬弥は、朱音の熱い吐息がすぐ間近にあることと、自分の首筋に添えられた彼女の冷たい指が、まだ、離れていないことだけを、感じていた。


「……暗い方が、いいわね」

 闇の中で、朱音の声が囁きとなって響いた。

「何も見えない方が、本当のことに触れられる気がして」


 首筋にあった彼女の指が、ゆっくりと動いた。

 冬弥の浴衣の襟元を、さらに深くたどる。その指はもう冷たくなかった。まるで彼の肌の熱を奪ったかのように、熱を帯び始めている。


「あなたは、私を怖がっていたでしょう、昼間は」

「……っ」

「でも、今は? 私の顔が見えなくても、まだ、怖いの?」


 指は、彼の肩甲骨のあたりをさまよい、そして、彼の腕を掴んだ。

 抵抗できない。いや、抵抗する意志が、この湿った闇の中で溶けだしていく。


「朱音さん、やめ……」

「冬弥さん」


 朱音は、彼の言葉を遮った。

 そして、掴んだ腕を、強く引いた。


 ひざまずいていた冬弥の身体は、バランスを失い、長椅子に座る彼女の胸元へと、崩れ落ちるように倒れ込んだ。

「わ……!」

 思わず上げた手は、柔らかく、薄い絹越しに信じられないほど熱い肌に触れていた。

 彼女の寝間着だ。その下にある、しなやかな身体の起伏。


 冬弥の顔は、彼女の首筋と、重たい黒髪の間に埋まっていた。

 息が詰まるほどの濃密な香りに、頭が痺れる。

 朱音の腕が、彼の背中に回された。

 それはもう、寒さに震える女の抱擁ではなかった。

 獲物を捕らえたつたのように、力強く、彼を自分自身に縛り付けていく。


「……ああ、温かい。本当に、あなたは生きているのね」

 耳元で囁かれる声が、彼の理性を腐食させていく。

「私に、あなたの熱をちょうだい。このままじゃ、私は……あの人と一緒に、この屋敷で腐ってしまうから」


 冬弥は、この背徳的な抱擁の中で、ついに抗うことをやめた。

 恐怖は、とうの昔に麻痺していた。

 今、彼を支配しているのは、年上の女の肌に触れているという罪悪感と、それに反比例して全身を駆け巡る、未知の熱だった。

 あの乾いた咳の主への、明確な裏切り。


 彼は、自分がゆっくりと腕を上げ、目の前の女の、薄い絹に包まれた背中を掴んでいることに気づいた。

 それは、拒絶の手ではなかった。

 すがるように、確かめるように。

 この世ならざるものに触れてしまったかのように。


 嵐の音に紛れて、二人の荒い息遣いだけが重なる。

 朱音の身体が、微かに震えている。それはもう、寒さからではなかった。

 彼女の爪が、冬弥の背中の浴衣を掴み、きつく食い込む。


 第四部:腐蝕する根


 どれほどの時間が経ったのか。

 激しく屋敷を叩いていた風雨の音が、少しずつ遠のいていくのに冬弥は気づいた。

 嵐の峠が、過ぎ去ろうとしていた。

 世界を塗りつぶしていた闇が、心なしか薄らいでいる。


 窓の外。

 障子の向こうが、墨を水で薄めたように、ぼんやりと白み始めていた。

 夜明けだ。


 その光が、現実を連れてくる。

 冬弥は、自分が今、どのような格好で、誰を抱いているのかを、急速にはっきりと自覚した。

 血の気が、一気に引いていく。


「……あ」

 彼は、まるで熱湯に触れたかのように、朱音の身体から飛びのいた。

 長椅子から転げ落ち、畳に手をつく。


「……もう、朝が来るのね」


 闇に慣れた目に、朱音の姿が浮かび上がる。

 彼女は、長椅子にゆったりと身体を預けたまま、少しも慌てていなかった。

 寝間着は、先ほどの抱擁で大きくはだけ、汗ばんだ白い胸元から肩までが、明け方の薄明かりの中に青白く晒されている。

 乱れた黒髪、潤んだ瞳、満足そうに赤く色づいた唇。


 彼女は、冬弥が逃げ出した時に倒したらしい、床に転がる銀の鈴を一瞥いちべつし、そして、くすりと笑った。

 その笑みは、あまりにも背徳的で、美しかった。


「冬弥さん」

 彼女は、すべてを見透かしたような声で言った。

「あなたの今日の仕事は、西の庭の草むしりよ。……雨で、また雑草が伸びているでしょうから」


 冬弥は、何も答えられなかった。

 這うようにして立ち上がると、彼は一目散にその部屋から逃げ出した。

 背中に、朱音の静かな笑い声と、白檀の匂いが絡みついて離れなかった。


 嵐の夜は、嘘のように澄み切った朝を連れてきた。

 冬弥は自室の畳の上で、一睡もできぬまま夜を明かした。

 窓から差し込む陽光が、部屋の埃をきらきらと照らし出し、それがひどく不潔なもののように思えた。


 肌が、昨夜の記憶を克明に覚えている。

 闇の中で触れた、朱音の肌の熱。耳元で聞いた、熱い吐息。首筋に埋められた彼女の髪の、重たい匂い。

 それは、彼自身の浴衣にも、てのひらにも、染み付いて離れなかった。


 冬弥は、逃げるように部屋を飛び出し、裏庭にある井戸端へ向かった。

 冷たい水を手桶に汲み、頭から何度もかぶる。肌をこする。

 だが、あの生々しい感触も、白檀と酒と汗の混じった匂いも、記憶の奥深くにこびりついて消えなかった。

 身体の奥底に、得体の知れない熱の熾火おきびが残ってしまった。


 罪悪感。

 それ以上に、自分自身への嫌悪が込み上げる。

 自分は、あの闇の中で、あの人を拒絶しなかった。

 それどころか、最後には、自らその背中に腕を回していたのだ。


 部屋に戻り、荷物の中にあった、父の残した古い画集を開く。

 清らかで、禁欲的な線で描かれた聖人の顔。

 以前は、この画集を眺めていると、心が静まった。

 だが、今は違った。

 画集の紙の上にも、あの白檀の香りが幻のように漂ってくる。

 聖人の顔が、昨夜の朱音の、潤んだ瞳と重なる。


 冬弥は、画集を乱暴に閉じた。

(違う、違う、俺は……!)

 あの人は、保護者だ。そして、夫のある人だ。

 自分は、父の言葉に背いてこの家に来て、とんでもない罪を犯そうとしている。


 彼は、朱音に言われた通り、西の庭へ向かった。

 昨夜の嵐で、庭はさらに荒れていた。折れた枝が散乱し、名も知らぬ蔦は、まるで一夜にして成長したかのように、石灯籠に絡みつく力を強めている。


 冬弥は、狂ったように雑草を引き抜き始めた。

 土の匂い。ちぎれた草の汁の青臭さ。

(忘れろ、忘れるんだ)

 土を掴む手に、爪が食い込むほど力を込める。

 だが、土の匂いを嗅ぐたび、昨夜の闇の中で彼女が言った「あなたは生きている」という言葉が、蘇ってくる。

 この庭の土も、植物も、無秩序に「生きている」。

 そして、この屋敷のすべてが、生きながら、ゆっくりと腐食している。


「……ご苦労さま」


 ふいに、背後から澄んだ声がした。

 冬弥は、心臓を掴まれたかのように硬直した。

 ゆっくりと振り返る。


 そこに立っていた朱音は、昨夜の嵐の中にいた女とは、まるで別人だった。

 薄水色うすみずいろの、涼しげなの着物を、襟元一つ乱さず完璧に着こなしている。

 化粧も薄く施され、はだけた寝間着姿の面影はどこにもない。

 彼女は、非の打ちどころのない、美しくも冷ややかな「女主人」の顔をしていた。


 その完璧な姿が、昨夜の出来事こそが、嵐が見せた悪夢だったのではないかと冬弥に錯覚させる。


「昨夜は、お見苦しいところを。……嵐は、どうにも人を感傷的にさせますわ」

 朱音は、薄い硝子ガラスの器を持っていた。中には、冷えた水羊羹みずようかんが浮かんでいる。

「お食べなさい。暑いでしょう」

「……いえ、俺は……」

「命令よ」


 冬弥は、土に汚れた手をはかまで拭い、おずおずと器を受け取った。

 その指先が、彼女の冷たい指に触れる。

 冬弥は、火傷やけどをしたように手を引っこめた。

 昨夜の熱とは正反対の、氷のような冷たさ。

 だが、その感触は、昨夜の熱と同じ強さで、彼の背筋を貫いた。


 朱音は、彼の反応を見て、楽しそうに目を細めた。

「あなたは、本当にわかりやすいわね」

「……!」

「そんなに、私を恐れている?」

「…………」


 朱音は、冬弥のすぐ隣まで歩み寄ると、彼が見ていた西の庭の奥、日の当たらない、最も湿った一角を指さした。

「そこはね、この屋敷で一番、根腐れしやすい場所なの」

 彼女の声は、水羊羹よりも冷たく、甘かった。

「いくら土を入れ替えても、陽が差さないから、すぐに駄目になってしまう。……まるで、ここの誰かさんみたいに」


 それは、病床の主人のことか。それとも、彼女自身のことか。

 冬弥には、わからなかった。

 ただ、彼女の横顔から漂う白檀の香りが、昨夜の記憶と重なり、くらりと眩暈めまいがした。


 第五部:共犯者


 朱音は、その場を立ち去ろうとし、ふと足を止めた。

「ああ、そう。冬弥さん」

「……はい」

「今夜、お願いしたいことがあるの」


 朱音は、美しい唇の端を、ゆっくりと吊り上げた。

 それは、あの嵐の夜の闇の中で、彼を捕らえた女の笑みだった。


「主人の身体を、拭いていただきたいの」


 冬弥は、息を呑んだ。

「……それは……家政婦の方の仕事では」

「あの人は、もう帰ったわ。それに、男手が要るの。……私一人では、もう、あの人の身体を支えて差し上げられなくて」


 この屋敷の、禁域。

 病床の主人。

 あの乾いた咳の主の、生身の身体。

 その、聖域とも言える場所へ、朱音は冬弥を招き入れようとしていた。


 昨夜、闇に紛れて、その「妻」を抱いた男に。


 それは、あの嵐の夜の抱擁よりも、ずっと深く、取り返しのつかない「共犯」への誘いだった。

 それは、罰だ。

 お前も同罪なのだと、突きつけるための。


「……できません」

 冬弥は、かろうじて声を絞り出した。

「俺は……そんなこと、」

「怖い?」


 朱音は、冬弥の頬に、そっと手を伸ばした。

 土のついた彼の頬を、まるで愛おしいものでも触るかのように、その冷たい指先でなぞる。


「大丈夫よ。あなたは、もう、この庭の土と同じ匂いがするわ」

「……っ」

「私と、同じ匂い」


 彼女は、それだけ言うと、今度こそ音もなく母屋へと戻っていった。

 残されたのは、ちぎれた雑草の青臭い匂いと、蝉時雨せみしぐれ


 陽が傾き、西の庭はあっという間に薄暗い影に沈んでいく。

 冬弥は、土に汚れたまま、その場に立ち尽くしていた。


(逃げ出そう)

 今すぐ、あの門から。父の言いつけ通り、ここに来るべきではなかったのだ。

 だが、足が動かない。

 もしここで逃げ出したら、自分は昨夜の出来事を「罪」として認めることになる。

 そして何より、あの闇の中で感じた、身を焦がすような熱を、忘れることができない自分に気づいていた。


 日は、完全に落ちた。

 屋敷に、ぽつり、ぽつりと明かりが灯り始める。

 母屋から、あの甘く、腐食を誘う白檀の香りが、濃く漂ってくる。

 その白檀の香りに混じって、あの薬湯の匂いも、確かに風に乗って運ばれてくる。


 冬弥は、ゆっくりと立ち上がった。

 自室に戻り、父の画集を荷物の奥深くにしまい込む。

 そして、井戸端で泥だらけの手を洗い、身を清めるかのように水をかぶった。


 彼は、もうためらわなかった。

 自らの意志で、あの明かりの灯る母屋の闇へと、足を踏み入れていった。


(了)

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