腐食する白檜(しらべ)
第一部:湿る土の匂い
その屋敷は、私鉄沿線の切り通しを抜けた、丘の頂上にあった。
梅雨の終わりの、重たい雨がしとしとと降り続いている。水原冬弥は、タクシーの運転手に不審な顔をされながら、錆びついた洋風の門扉の前に降り立った。
父が死んだ。芸術家だった父は、美しいもの以外何も残さなかった。生活のすべてを失った十七歳の彼にとって、ここが最後の寄る辺だった。
父の遠縁だという「香月」家。会ったこともない人々。父が亡くなる間際、「あそこだけは、行くな」と、熱に浮かされたように言っていた場所。だが、他に選択肢はなかった。
聞かされたのは、病弱な当主と、その世話をする年の離れた従姉妹がいる、ということだけ。
門を押すと、悲鳴のような蝶番の音がした。
一歩、足を踏み入れる。そこは、東京近郊とは思えぬ鬱蒼とした緑に支配されていた。
手入れを放棄された庭は、しかし無秩序な活気に満ちていた。名も知らぬ蔦が古い石灯籠に絡みつき、本来は刈り込まれるべき枝が天を突き、紫陽花が毒々しいまでの青を雨に晒している。
湿った土と腐葉土の匂い。その奥に、不意に甘く、古い香木のような匂いが混じった。
白檀。
そして、その奥に微かに潜む、古い蔵のようなカビの匂い。
屋敷は、西洋館に無理やり和風の離れを繋げたような、ちぐはぐな建物だった。ステンドグラスの嵌まった玄関扉は固く閉ざされ、人の気配はない。
冬弥は呼び鈴を押すのをためらい、濡れた前髪を無造作にかき上げた。雨水が、彼の若く形の良い頬を伝って落ちる。父に似た、少し神経質そうな、しかし整った目鼻立ち。
その時だった。
「……お待ちしておりました」
声は、玄関からではなく、庭の奥、離れへ続く渡り廊下の陰からした。
息を呑むほど白い女が、そこに立っていた。
年の頃は、三十代半ばだろうか。冬弥の倍を生きてきたはずのその女は、時間の流れから取り残されたように見えた。
深い紫色の単衣を、まるで寝間着のように緩く着流している。まとめられた黒髪は重たげに湿り、数本の後れ毛が、白粉の匂いを放つ項に貼り付いていた。
虚ろ、と評すべき大きな双眸。だがその瞳の奥には、消えない熾火のような光が宿っている。
「香月朱音と申します。あなたが、冬弥さん?」
低い、少し掠れた声だった。
「は、はい。水原冬弥です。この度は……」
「堅苦しい挨拶は不要ですわ。……ずいぶん、濡れましてよ」
朱音はそう言うと、冬弥の顔を、まるで品定めでもするかのように、ゆっくりと眺めた。
それは遠縁の少年を迎える目ではなかった。埃をかぶった美術品を、売り物になるかどうか吟味するような、冷たく、同時にねっとりとした視線だった。
冬弥は居心地の悪さに俯いた。
「主人は病床にあります故、ご挨拶はまた。……あなたの部屋はこちらです」
案内されたのは、離れの一番奥、庭に面した六畳間だった。古い畳の匂いと、微かな白檀の香りがする。
「あなたの仕事は、書生とは名ばかりの、私の雑用です。それと、あの荒れた庭の草むしり。できるでしょう?」
「……はい。何でもします」
「そう。利口な子は、好きよ」
朱音は満足そうに口の端を歪めると、冬弥の学生服の肩に触れた。雨で冷たく湿った布地。
「お風呂をお使いなさい。着替えは……そうね、主人の古い浴衣でよければ、お持ちします」
その指先が、肩から首筋へ、一瞬だけ滑った。
冬弥の背筋を、冷たいような熱いような、奇妙な感覚が走り抜ける。彼は反射的に半歩後ずさっていた。
「あら。怖がらないで。……綺麗な肌」
朱音はくすくすと喉の奥で笑い、障子戸の向こうへ消えた。
衣擦れの音と、白檀の残り香だけが、湿った部屋に濃く残された。
第二部:病床の気配
冬弥の屋敷での生活は、その日から始まった。
病床の主人には、一度も会うことはない。広い屋敷には、朱音と冬弥、そして週に二度だけ通ってくる無口な家政婦以外、誰もいない。
冬弥の主な仕事は、言葉通り、庭の草むしりだった。
雨が上がると、夏の強い日差しが、湿った庭の植物を蒸らし、むせ返るような青臭い匂いを立ち上らせる。
汗だくになって雑草を引き抜く。土に汚れた手のひら。生きている実感。それは、父を失って無気力だった冬弥にとって、唯一の救いだった。
だが、彼が作業に没頭していると、必ず視線を感じる。
見上げると、離れの座敷の御簾の奥。朱音が、頬杖をついてこちらを見ている。
目が合うと、彼女は妖しく微笑むだけで、決して声をかけることはない。
ある日の昼下がり。
冬弥が母屋に近い縁側の下の雑草を抜いていると、屋敷の中から、微かな音が聞こえた。
コホ、コホ、と。
乾いた、肺の奥から絞り出すような咳。
そして、白檀とは違う、薬湯か何かを燻べたような、重たい匂い。
(……ご主人、か)
冬弥は動きを止めた。
あの咳は、ひどく苦しそうだ。生きている。ここにいるのだ。
その時、背後の障子がすっと開いた。
「……何を遊んでいるの。手をお止めでないわ」
朱音だった。
「あ、いえ……今、咳が聞こえたので」
「そう」
朱音の返事は短かった。
その美しい横顔から、すっと表情が消える。いつも浮かべている気だるげな笑みではなく、まるで能面のような無表情。
「あの人は、咳をすることしかできなくてよ。……それより、あなた。汗がひどいわ」
彼女は、まるで咳の音をかき消すかのように、冬弥に言った。
「夕刻になったら、私のお話し相手。忘れてないでしょうね」
その瞳には、一瞬よぎった無表情の代わりに、いつものねっとりとした光が戻っていた。
夕刻。
汗と泥を洗い流し、ぶかぶかの浴衣に着替えた冬弥は、朱音の部屋に呼ばれる。
「お話し相手」という名の、奇妙な時間。
「冬弥さん。その浴衣、やはりあなたには大きすぎたわね」
その日、茶室で、朱音は一人、薄暗い中で冷酒を飲んでいた。
蒸し暑さのせいか、薄絹の単衣一枚だけを羽織っている。襟元は大きくはだけ、汗ばんだ白い胸の谷間が露わになっている。
冬弥は、目のやり場に困り、畳の一点を見つめた。
「まあ、そんなに固くならずに。こちらへ」
手招きされる。逆らえない。
冬弥がおずおずと近づくと、朱音は彼の浴衣の帯に手をかけた。
「……私が、直して差し上げます」
「い、いえ、自分で……!」
「お黙りなさい」
朱音の指が、冬弥の腰骨の上を這うように帯を解き、そして締め直す。
酒の匂いと、彼女の白粉の匂い、そして汗の匂いが混じり合った、甘く重たい香りが冬弥を包む。
近い。近すぎる。
朱音の熱い吐息が、浴衣の隙間から彼の胸にかかる。
「……本当に、綺麗な肌。傷一つない」
朱音の指が、帯を締めるふりをしながら、彼の腹のあたりをゆっくりと確かめるように撫でた。
冬弥は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
これは間違っている。背徳だ。彼女は年上の、保護者であるはずの女性だ。
そして何より、この屋敷の主人が、あの乾いた咳をしていた主人が、すぐそこの母屋に息づいているのだ。
だが、身体は石のように動かない。
それどころか、腹の奥底から、未知の熱が込み上げてくるのを、彼は自覚していた。
あの乾いた咳の音を思い出すほど、目の前の朱音の「生」の熱が、際立って感じられた。
「……ふふ。顔が赤いわ。可愛い」
朱音は、彼の反応を心底楽しむように笑い、ゆっくりと手を離した。
「あなたは、あの人の代わりに、この庭の手入れをしてくれるのでしょう? ……いいわ、とても。若くて、素直で」
彼女は立ち上がり、窓辺に寄りかかった。
「今夜は、雨が荒れるそうよ」
彼女の声は、どこか予言めいていた。
その夜、屋敷の古い窓ガラスを叩きつける、激しい嵐がやってきた。
第三部:嵐の夜の熾火
その夜、朱音の予言通り、嵐は屋敷を嬲るように荒れ狂った。
日付が変わる頃、冬弥は自室の布団の中で、固く目を閉じていた。眠れなかった。古い屋敷は、風が吹き抜けるたびに家全体が軋み、このまま崩れ落ちてしまうのではないかと思えるほどだった。
庭の木々が窓ガラスを叩く音。遠雷の地響き。
そして、それら全ての音を切り裂いて、甲高い金属音が響いた。
キィン、と。
冬弥は跳ね起きた。
いまのは何の音だ。嵐の音ではない。もっと澄んだ、人の手による音。
(……鈴?)
朱音の部屋の方向からだ。
まさか、こんな嵐の夜に、自分を呼んでいるのか。
無視しよう、と彼は思った。昼間の、あの腹の底を撫でられたような、生々しい感触が蘇る。あの人は、まともじゃない。
キィン、キィン、と。
鈴の音は、嵐の轟音の合間を縫って、執拗に繰り返される。
それはまるで、助けを求める悲鳴のようにも、あるいは、獲物を誘う罠の音のようにも聞こえた。
その瞬間、屋敷のすべての明かりが、ぷつりと消えた。
「……っ!」
完全な闇。雷の光だけが、一瞬、障子に荒れ狂う庭の影を映し出す。
停電だった。
こうなると、もう無視はできない。
病床の主人は? あの乾いた咳をしていた人は、この暗闇と轟音の中で、どうしている?
いや、それよりも、あの鈴の音。朱音は。
冬弥は手探りで壁際の燭台を探し当て、慣れない手つきでマッチを擦った。
頼りない炎が、彼の青ざめた顔をぼんやりと照らし出す。
浴衣の帯を締め直し、燭台を片手に、彼は軋む廊下を朱音の部屋へと向かった。
雨漏りする箇所があるのか、廊下のところどころが濡れて光っている。自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。
朱音の部屋の前に着く。障子は固く閉ざされている。
「朱音さん。……大丈夫ですか。停電です」
声をかけるが、返事はない。
あの鈴の音も、今はもう聞こえない。
まさか。
冬弥の胸を、嫌な予感がよぎる。
「失礼します……!」
彼はためらいを振り切り、障子に手をかけた。
滑るように開いた戸の先。
部屋は、彼の持つ蝋燭の光にぼんやりと照らし出された。
朱音は、いた。
窓辺の長椅子に、ぐったりと身を預けるようにして。
彼女の足元には、銀の小さな鈴が転がっていた。
「朱音さん!」
冬弥は駆け寄った。
彼女は薄い寝間着のようなものを一枚まとっているだけで、嵐に怯えたのか、その白い肩は小刻みに震えているように見えた。
「……ああ、冬弥さん。……来たのね」
顔を上げた朱音は、しかし怯えている様子はなかった。
その瞳は、嵐のせいか、酒のせいか、あるいは別の何かのせいか、異様に潤んで濡れていた。
部屋には、昼間よりもずっと濃い、白檀と酒の匂いが満ちている。
「よかった。てっきり、怖がっておられるのかと」
冬弥が安堵の息をつくと、朱音は力なく笑った。
「怖い? まさか。……ただ、少し、寒くて」
彼女はそう言うと、冬弥に向かって、震える手を差し出した。
「……あなたの手を、少し、貸してちょうだい。冷えてしまって」
冬弥は、命令されるまま、燭台を床に置き、彼女の前に跪いた。
そして、自分の手を、朱音の差し出す白魚のような手に重ねた。
彼女の手は、触れた瞬間、氷のように冷たかった。
「……あったかい。あなたは、温かいのね」
朱音はうっとりとしたように目を細め、冬弥の手を握り返す。
そして、そのまま彼の手を引き寄せ、自分の頬に押し当てた。
冷たい肌に、冬弥の若く熱い掌が密着する。
「やめ……」
「しっ。嵐の音を聞いていて」
朱音のもう片方の手が、冬弥の首筋に伸びる。
冷たい指先が、彼の浴衣の襟元をゆっくりとまさぐり、その内側、汗ばんだ肌に触れた。
冬弥は息を呑んだ。全身の血が、触れられた一点に集中する。
背徳感。
逃げなければ。
そう思うのに、朱音の瞳に見据えられると、金縛りにあったように動けない。
彼女の瞳は、この嵐の夜の闇そのものだった。深く、すべてを吸い込んでいく。
「あなたは……生きているわ。ちゃんと、熱い血が通っている」
朱音は、まるで乾いた喉で水を求めるように、冬弥の熱を確かめている。
彼女の指は、冬弥の鎖骨の窪みを辿り、その心臓の、浴衣の上からでもわかるほどの激しい鼓動を、確かめるように押さえた。
「……私はね、冬弥さん。ずっと、この屋敷で腐っていくのを待っていた」
吐息が、酒の匂いと混じって冬弥の顔にかかる。
「あの人が、ああなってから……ずっと。この屋敷の、生きた屍としてね」
彼女の瞳が一瞬、母屋のある方角に向けられた。憎悪とも諦念ともつかぬ、暗い光。
「でも、あなたという『生』が迷い込んできた」
「朱音さん、俺は……」
「あなたは、私を憐れんでくれる?」
そう言った瞬間。
朱音は、冬弥の首筋に触れていた自らの指先に、顔を寄せた。
そして、冬弥の肌に触れた、その自分の指先に、唇を押し当てた。
間接的な、しかし、あまりにも生々しい口づけだった。
冬弥の肌の熱と匂いを、自分の指先ごと味わうかのように。
「あ……っ」
冬弥の喉から、声にならない声が漏れた。
理性の最後の糸が、音を立てて焼き切れる。
その時、一際大きな稲光が窓を白く染め上げ、遅れて轟音が屋敷を揺るがした。
その衝撃に、床に置かれた燭台が倒れる。
炎が畳に落ち、一瞬でかき消された。
完全な、闇。
嵐の音だけが、世界を支配する。
暗闇の中、冬弥は、朱音の熱い吐息がすぐ間近にあることと、自分の首筋に添えられた彼女の冷たい指が、まだ、離れていないことだけを、感じていた。
「……暗い方が、いいわね」
闇の中で、朱音の声が囁きとなって響いた。
「何も見えない方が、本当のことに触れられる気がして」
首筋にあった彼女の指が、ゆっくりと動いた。
冬弥の浴衣の襟元を、さらに深くたどる。その指はもう冷たくなかった。まるで彼の肌の熱を奪ったかのように、熱を帯び始めている。
「あなたは、私を怖がっていたでしょう、昼間は」
「……っ」
「でも、今は? 私の顔が見えなくても、まだ、怖いの?」
指は、彼の肩甲骨のあたりをさまよい、そして、彼の腕を掴んだ。
抵抗できない。いや、抵抗する意志が、この湿った闇の中で溶けだしていく。
「朱音さん、やめ……」
「冬弥さん」
朱音は、彼の言葉を遮った。
そして、掴んだ腕を、強く引いた。
跪いていた冬弥の身体は、バランスを失い、長椅子に座る彼女の胸元へと、崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「わ……!」
思わず上げた手は、柔らかく、薄い絹越しに信じられないほど熱い肌に触れていた。
彼女の寝間着だ。その下にある、しなやかな身体の起伏。
冬弥の顔は、彼女の首筋と、重たい黒髪の間に埋まっていた。
息が詰まるほどの濃密な香りに、頭が痺れる。
朱音の腕が、彼の背中に回された。
それはもう、寒さに震える女の抱擁ではなかった。
獲物を捕らえた蔦のように、力強く、彼を自分自身に縛り付けていく。
「……ああ、温かい。本当に、あなたは生きているのね」
耳元で囁かれる声が、彼の理性を腐食させていく。
「私に、あなたの熱をちょうだい。このままじゃ、私は……あの人と一緒に、この屋敷で腐ってしまうから」
冬弥は、この背徳的な抱擁の中で、ついに抗うことをやめた。
恐怖は、とうの昔に麻痺していた。
今、彼を支配しているのは、年上の女の肌に触れているという罪悪感と、それに反比例して全身を駆け巡る、未知の熱だった。
あの乾いた咳の主への、明確な裏切り。
彼は、自分がゆっくりと腕を上げ、目の前の女の、薄い絹に包まれた背中を掴んでいることに気づいた。
それは、拒絶の手ではなかった。
すがるように、確かめるように。
この世ならざるものに触れてしまったかのように。
嵐の音に紛れて、二人の荒い息遣いだけが重なる。
朱音の身体が、微かに震えている。それはもう、寒さからではなかった。
彼女の爪が、冬弥の背中の浴衣を掴み、きつく食い込む。
第四部:腐蝕する根
どれほどの時間が経ったのか。
激しく屋敷を叩いていた風雨の音が、少しずつ遠のいていくのに冬弥は気づいた。
嵐の峠が、過ぎ去ろうとしていた。
世界を塗りつぶしていた闇が、心なしか薄らいでいる。
窓の外。
障子の向こうが、墨を水で薄めたように、ぼんやりと白み始めていた。
夜明けだ。
その光が、現実を連れてくる。
冬弥は、自分が今、どのような格好で、誰を抱いているのかを、急速にはっきりと自覚した。
血の気が、一気に引いていく。
「……あ」
彼は、まるで熱湯に触れたかのように、朱音の身体から飛びのいた。
長椅子から転げ落ち、畳に手をつく。
「……もう、朝が来るのね」
闇に慣れた目に、朱音の姿が浮かび上がる。
彼女は、長椅子にゆったりと身体を預けたまま、少しも慌てていなかった。
寝間着は、先ほどの抱擁で大きくはだけ、汗ばんだ白い胸元から肩までが、明け方の薄明かりの中に青白く晒されている。
乱れた黒髪、潤んだ瞳、満足そうに赤く色づいた唇。
彼女は、冬弥が逃げ出した時に倒したらしい、床に転がる銀の鈴を一瞥し、そして、くすりと笑った。
その笑みは、あまりにも背徳的で、美しかった。
「冬弥さん」
彼女は、すべてを見透かしたような声で言った。
「あなたの今日の仕事は、西の庭の草むしりよ。……雨で、また雑草が伸びているでしょうから」
冬弥は、何も答えられなかった。
這うようにして立ち上がると、彼は一目散にその部屋から逃げ出した。
背中に、朱音の静かな笑い声と、白檀の匂いが絡みついて離れなかった。
嵐の夜は、嘘のように澄み切った朝を連れてきた。
冬弥は自室の畳の上で、一睡もできぬまま夜を明かした。
窓から差し込む陽光が、部屋の埃をきらきらと照らし出し、それがひどく不潔なもののように思えた。
肌が、昨夜の記憶を克明に覚えている。
闇の中で触れた、朱音の肌の熱。耳元で聞いた、熱い吐息。首筋に埋められた彼女の髪の、重たい匂い。
それは、彼自身の浴衣にも、掌にも、染み付いて離れなかった。
冬弥は、逃げるように部屋を飛び出し、裏庭にある井戸端へ向かった。
冷たい水を手桶に汲み、頭から何度もかぶる。肌を擦る。
だが、あの生々しい感触も、白檀と酒と汗の混じった匂いも、記憶の奥深くにこびりついて消えなかった。
身体の奥底に、得体の知れない熱の熾火が残ってしまった。
罪悪感。
それ以上に、自分自身への嫌悪が込み上げる。
自分は、あの闇の中で、あの人を拒絶しなかった。
それどころか、最後には、自らその背中に腕を回していたのだ。
部屋に戻り、荷物の中にあった、父の残した古い画集を開く。
清らかで、禁欲的な線で描かれた聖人の顔。
以前は、この画集を眺めていると、心が静まった。
だが、今は違った。
画集の紙の上にも、あの白檀の香りが幻のように漂ってくる。
聖人の顔が、昨夜の朱音の、潤んだ瞳と重なる。
冬弥は、画集を乱暴に閉じた。
(違う、違う、俺は……!)
あの人は、保護者だ。そして、夫のある人だ。
自分は、父の言葉に背いてこの家に来て、とんでもない罪を犯そうとしている。
彼は、朱音に言われた通り、西の庭へ向かった。
昨夜の嵐で、庭はさらに荒れていた。折れた枝が散乱し、名も知らぬ蔦は、まるで一夜にして成長したかのように、石灯籠に絡みつく力を強めている。
冬弥は、狂ったように雑草を引き抜き始めた。
土の匂い。ちぎれた草の汁の青臭さ。
(忘れろ、忘れるんだ)
土を掴む手に、爪が食い込むほど力を込める。
だが、土の匂いを嗅ぐたび、昨夜の闇の中で彼女が言った「あなたは生きている」という言葉が、蘇ってくる。
この庭の土も、植物も、無秩序に「生きている」。
そして、この屋敷のすべてが、生きながら、ゆっくりと腐食している。
「……ご苦労さま」
ふいに、背後から澄んだ声がした。
冬弥は、心臓を掴まれたかのように硬直した。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていた朱音は、昨夜の嵐の中にいた女とは、まるで別人だった。
薄水色の、涼しげな絽の着物を、襟元一つ乱さず完璧に着こなしている。
化粧も薄く施され、はだけた寝間着姿の面影はどこにもない。
彼女は、非の打ちどころのない、美しくも冷ややかな「女主人」の顔をしていた。
その完璧な姿が、昨夜の出来事こそが、嵐が見せた悪夢だったのではないかと冬弥に錯覚させる。
「昨夜は、お見苦しいところを。……嵐は、どうにも人を感傷的にさせますわ」
朱音は、薄い硝子の器を持っていた。中には、冷えた水羊羹が浮かんでいる。
「お食べなさい。暑いでしょう」
「……いえ、俺は……」
「命令よ」
冬弥は、土に汚れた手を袴で拭い、おずおずと器を受け取った。
その指先が、彼女の冷たい指に触れる。
冬弥は、火傷をしたように手を引っこめた。
昨夜の熱とは正反対の、氷のような冷たさ。
だが、その感触は、昨夜の熱と同じ強さで、彼の背筋を貫いた。
朱音は、彼の反応を見て、楽しそうに目を細めた。
「あなたは、本当にわかりやすいわね」
「……!」
「そんなに、私を恐れている?」
「…………」
朱音は、冬弥のすぐ隣まで歩み寄ると、彼が見ていた西の庭の奥、日の当たらない、最も湿った一角を指さした。
「そこはね、この屋敷で一番、根腐れしやすい場所なの」
彼女の声は、水羊羹よりも冷たく、甘かった。
「いくら土を入れ替えても、陽が差さないから、すぐに駄目になってしまう。……まるで、ここの誰かさんみたいに」
それは、病床の主人のことか。それとも、彼女自身のことか。
冬弥には、わからなかった。
ただ、彼女の横顔から漂う白檀の香りが、昨夜の記憶と重なり、くらりと眩暈がした。
第五部:共犯者
朱音は、その場を立ち去ろうとし、ふと足を止めた。
「ああ、そう。冬弥さん」
「……はい」
「今夜、お願いしたいことがあるの」
朱音は、美しい唇の端を、ゆっくりと吊り上げた。
それは、あの嵐の夜の闇の中で、彼を捕らえた女の笑みだった。
「主人の身体を、拭いていただきたいの」
冬弥は、息を呑んだ。
「……それは……家政婦の方の仕事では」
「あの人は、もう帰ったわ。それに、男手が要るの。……私一人では、もう、あの人の身体を支えて差し上げられなくて」
この屋敷の、禁域。
病床の主人。
あの乾いた咳の主の、生身の身体。
その、聖域とも言える場所へ、朱音は冬弥を招き入れようとしていた。
昨夜、闇に紛れて、その「妻」を抱いた男に。
それは、あの嵐の夜の抱擁よりも、ずっと深く、取り返しのつかない「共犯」への誘いだった。
それは、罰だ。
お前も同罪なのだと、突きつけるための。
「……できません」
冬弥は、かろうじて声を絞り出した。
「俺は……そんなこと、」
「怖い?」
朱音は、冬弥の頬に、そっと手を伸ばした。
土のついた彼の頬を、まるで愛おしいものでも触るかのように、その冷たい指先でなぞる。
「大丈夫よ。あなたは、もう、この庭の土と同じ匂いがするわ」
「……っ」
「私と、同じ匂い」
彼女は、それだけ言うと、今度こそ音もなく母屋へと戻っていった。
残されたのは、ちぎれた雑草の青臭い匂いと、蝉時雨。
陽が傾き、西の庭はあっという間に薄暗い影に沈んでいく。
冬弥は、土に汚れたまま、その場に立ち尽くしていた。
(逃げ出そう)
今すぐ、あの門から。父の言いつけ通り、ここに来るべきではなかったのだ。
だが、足が動かない。
もしここで逃げ出したら、自分は昨夜の出来事を「罪」として認めることになる。
そして何より、あの闇の中で感じた、身を焦がすような熱を、忘れることができない自分に気づいていた。
日は、完全に落ちた。
屋敷に、ぽつり、ぽつりと明かりが灯り始める。
母屋から、あの甘く、腐食を誘う白檀の香りが、濃く漂ってくる。
その白檀の香りに混じって、あの薬湯の匂いも、確かに風に乗って運ばれてくる。
冬弥は、ゆっくりと立ち上がった。
自室に戻り、父の画集を荷物の奥深くにしまい込む。
そして、井戸端で泥だらけの手を洗い、身を清めるかのように水をかぶった。
彼は、もうためらわなかった。
自らの意志で、あの明かりの灯る母屋の闇へと、足を踏み入れていった。
(了)




