表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約破棄を宣告された瞬間、国王陛下が『では私が娶ろう』と言い出しました

 玉座の間は、いつもより多くの人間が息を潜めていた。

 夏の光は高窓から斜めに差し、金糸の緞帳の縁だけを明るくした。

 私は片膝をつき、正面から降る視線の重さを静かに受け止める。


「侯爵令嬢エリシア・ヴェルノ。そなたとの婚約を、ここに破棄する」


 王太子ユリウスの声は澄んでいた。

 その右隣には、蜂蜜色の髪をゆるく波打たせた伯爵令嬢ミレイユ。涙で濡れた睫毛を震わせ、胸元に押し当てたレースが白く揺れている。


「理由は?」

 喉の奥で凍った言葉を、丁寧に砕いて出す。


「嫉妬からの妨害。ミレイユの舞踏会のガウンに硝子の粉を仕込み、毒を混ぜた菓子で侮辱した。証拠はここに」


 侍従が銀盆に載せた小瓶と、刺繍針。

 どれも私の所持品ではない。だが、筋書きに必要な小道具としては過不足ないだろう。


「無実です」

 それしか言えない言葉は、最も軽く響く。


 玉座より一段下、国王アルトリウスが目を細めた。

 灰色の瞳の奥は、冬の湖のように静かだ。

 若い王ではない。けれど、背筋の上に置かれた王冠の重みを軽々と運ぶ、そんな人だと、私はずっと思っていた。


「退廷を」

 ユリウスの指が横へ払う。

 人々の視線は砂嵐のように私を削った。


 その瞬間――椅子が軋む音。

 玉座が、ゆっくりと立ち上がった。


「――愚かだな、ユリウス」


 国王の声は低く、よく通った。

 ざわめきの中で、その声だけが真っ直ぐ伸びる。


「宝石を泥と思い、泥を宝石と信ずる目に、王冠を預けられるか」


 玉座の間の空気が止まった。

 ユリウスが凍る。ミレイユの指先が、レースを握り潰す。


「エリシア・ヴェルノ」

 王は私を名で呼んだ。「余の妃となれ」


 誰かが息を呑む音、誰かが膝を折りかけて躓く音。

 言葉は刃でも毒でもなく、扉だった。

 閉ざされたと思っていた行き止まりに、別の道が開く。


 私は深く、礼を取る。

 だが、返事は一拍置いた。


「身に余るお言葉にございます、陛下。……ただひとつ、伺っても?」


「申せ」


「私をお選びになるのは、“王太子への当てつけ”ではありませんか」


 大胆だとわかっていて、口にした。

 この問いに耐えられないのなら、どちらの扉を選んでも、行き先は行き止まりだからだ。


 王は薄く笑った。

「余は、当てつけのために人の一生を賭けぬよ。――三つ、理由がある」


「三つ」


「ひとつ。汝は感情で手順を崩さぬ。宮中の祭礼で火事が出た折、泣き叫ぶ群衆の流れを見て、正面ではなく脇の小扉を開けよと指示したな。あれで潰れる命がいくつか減った」


 私はあの夜の熱と煙を思い出す。

 恐怖より先に、扉の蝶番の位置と、床の傾斜と、人の足の方向を見てしまう自分を、薄情だと感じたことがある。けれど結果は命を救った。


「ふたつ。汝は“名誉”より“成果”を好む。去年、王宮庭園のバラをすべて咲かせるという馬鹿げた企画があった。咲かせたのは庭師の手腕だが、その裏で、咲かぬ株を見切って市場に回し、香油に換えて費用を半分戻したのは汝だ」


 誰が見ていたのだろう。

 私は横目で宰相が目を逸らすのを見た。

 功を横取りする気はなかった。ただ、王宮の出納帳に赤が増えるのが嫌いなだけだ。


「みっつ。汝は“無実です”と言いながら、相手を責めない。今もそうだ。――悪意に対し、怒りではなく手順で応じる女は、王の傍に必要だ」


 言葉が胸に置かれる。重さはあるが、痛みはない。

 私はゆっくり息を吐いた。


「……お受けいたします、陛下」


 王太子が一歩、踏み出した。「父上――」

「退け」

 短い言葉は、壁より固かった。

「ユリウス。ミレイユ嬢。――自室に戻れ。今日から一月、そなたらは政から外す」


「そんな、陛下!」ミレイユが泣き声で叫ぶ。「私は被害者ですのに――」

「被害者は、余の耳元で涙の量を計らせぬ」

 王の灰色の瞳が、真冬の湖から真昼の刃に変わった。「行け」


 二人は、ようやく“王命”の意味を思い出したかのように、衛兵に伴われて去っていく。

 砂嵐の視線は引き、玉座の間に、風が通った。


     ◆


 即日、私の立場は「王妃候補」とされた。

 それは婚姻までの猶予期間であり、王は私に三つの仕事を与えた。


 一つ目は、王都の穀物倉の再配置。

 二つ目は、王立孤児院の出費見直し。

 三つ目は、宮廷舞踏会の順路の改定――緊急時の避難経路を、礼法を損ねずに埋め込むこと。


 どれも、花嫁修業とは呼び難い。

 だが、王の傍に立つ“妻”が飾りでないと示すには、これ以上ない課題だった。


 穀物倉は、地図を広げる前に靴を汚した。

 川筋、石畳の継ぎ目、車軸の音、荷車の影。

 紙の上の距離より、人の足の距離。

 倉庫番のヒゲの向きより、彼の昼寝の位置。

 私は帳面と人の顔を並べて、余剰と不足の矢印を引き直した。


「……王妃様は、数字に鬼ですな」

 倉庫番の老人が笑って頭を掻いた。「いや、悪い意味じゃない。腹が鳴る時間をなくす鬼だ」


「腹が鳴る音は、王宮の音楽より響きますから」

 私は笑い、領収書の余白に、次の季節風の向きを殴り書いた。


 孤児院の出費は、節約ではなく再投資に切り替えた。

 寄付の礼状に刺繍を加え、縫い子の仕事を増やし、売り物にする。

 医師の往診の費用は、王立大学の研修枠と組み合わせ、学生に実地訓練の場として提供する代わりに、費用を軽くした。

 「情けではなく、仕組みで残す」。それが私の習い性だ。


 舞踏会の順路は、礼儀作法の師範と衝突した。

 伝統は、理より頑固だ。

 私は真正面から理屈で叩くのではなく、伝統そのものを少しだけ“活かした”。


「昔の記録を拝見しました。百年前の舞踏会では、王妃が先導して花道を二度折れにしています」

「そうじゃった。王妃の裳裾を美しく見せるためにな」

「――その折れを、あと一度増やしても、裳裾の流れは損なわれません。代わりに、折れのたびに開く扉の近くを通る。緊急時にはそこが避難口になります」


 師範は、固かった眉を少しだけ解いた。「理屈に礼を着せるとは。……小癪な」


「褒め言葉として受け取ります」


 王は報告のたびに、多くを言わなかった。

 ただ、私の地図を覗き込み、矢印の方向を一本ずつ指で辿る。

 彼の指は傷だらけで、爪は短かった。

 剣よりも長く持ったものの形が残っているような――王冠ではなく、国そのものの重さの跡。


「よくやった」

 それだけで足りた。

 誉め言葉が多いと、人は自分の足音を聞かなくなる。


     ◆


 祈祷日。王宮礼拝堂の奥で、王は私に問うた。

「後悔はないか」


「陛下が仰った三つの理由に、私も三つ返します」

「聞こう」


「ひとつ。私は“王妃”になりたいのではなく、“陛下の隣”にいたいのです。隣に立てるのが私でないなら、王妃の椅子は別の方へ譲ればいいと思っていました」


「ふむ」


「ふたつ。私は怒りを忘れません。けれど、怒りで手順を壊さない自信はあります。

 みっつ。――私を宝と認めたのが陛下である限り、私も陛下の宝を守る努力を怠りません。宝とは、国であり、人です」


 王は目を閉じ、一気に笑ったわけではないのに、顔全体が明るくなった。

「良い。……良いな」


 祈祷堂の蝋燭が小さく爆ぜる。

 年上の男の笑い方には、若い男のそれにはない静けさが宿る。

 燃やすのではなく、温める火。


「式を急ぐべきでしょうか」

「余は急がぬ。――だが、急ぐ者が来るやもしれぬ」


 まさにそのとき、扉外にざわめき。

 侍従が血相を変えて駆け込む。「ユリウス殿下が、参内を」


 王の灰眼が一瞬で冬に戻った。

 私は呼吸を整える。胸の鼓動に手順を与える。吸って、止めて、吐く。


     ◆


 対面の間。

 ユリウスは、あの澄んだ声を、少しだけ濁らせていた。


「父上。……そして、エリシア」


 名を呼ぶ声に、未練と自尊と混乱が同居している。

 人は、自分の正しさを疑い始めたとき、声が一番迷う。


「私はミレイユを退けました。証言の捏造が露見した。彼女は国外追放に処しました。――だから、エリシア、婚約を――」


「ユリウス」

 王が遮る。「何を戻す」


「俺は間違った。だから正す。エリシアは俺の――」

「所有物ではない」

 灰色の視線が、刃をひと振りする。「間違いは、次の正しい手順で贖え。手順とは、謝罪と、再発防止と、被害の回復であって、過去に縋ることではない」


 私は王の横顔に感謝した。

 けれど、ここで王の言葉の影に隠れてはいけない。


「殿下」

 私は一歩、前に出る。「私の言葉でも、お伝えします」


「……エリシア」


「私は捨てられたのではありません。殿下が手放したのです。殿下の迷いと、誰かの涙のために。

 そして私は、私を拾い上げました。手順で。――王の傍で」


 ユリウスの瞳が揺れる。「戻っては、くれないのか」

「戻るのは“後退”と呼びます」

 ほんの少しだけ微笑んだ。「私は前に進みます」


 沈黙。

 彼は何かを言いかけ、結局、何も言わなかった。

 それで良い、と思った。

 言葉はときに、沈黙で終わるのが正しい。


 ユリウスが退出すると、王は小さく肩を回した。

「老骨には、叱るのも骨が折れる」


「陛下は叱るより、定義し直しておいでです」

「定義し直す?」

「“謝罪とは何か”“正すとは何か”。――言葉の手順を」


 王は愉快そうに笑った。「妻に先に褒められたな」


「まだ“候補”にございます」

「余は急がぬと言ったが、心変わりした」


「どちらに?」


「急ぐほうにな」


     ◆


 婚礼の日取りは、秋至祭に合わせた。

 百年前の記録をなぞりながら、折れ目をひとつ増やした行列を作る。

 花道は二度折れ、三度目の折れで扉の金具が外しやすく調整されている。

 誰も気づかぬように。けれど、いざというとき、誰でも開けられるように。


 私が鏡台の前でヴェールの縁を整えていると、侍女がそっと囁いた。

「王妃様。……ユリウス殿下から、お手紙が」


 封蝋は割れていない。

 私は一度だけ指でその赤を撫で、侍女に返した。


「保管して。――開けません」


 侍女は何も訊かなかった。

 私も何も説明しなかった。

 説明の代わりに、扉の蝶番の油を指で確かめた。


 式の音楽が始まる。

 私は一歩、通路に出た。

 人々の視線は今度、砂ではなかった。

 陽に温められた石の匂い、人の息の温度、花の水気。

 世界は、何一つ私を許さないでいて、同時に、何一つ私を拒まない。


 祭壇の前に、王が立っている。

 灰色の瞳は、湖でも刃でもなく、春の空の色だった。


「エリシア・ヴェルノ」

「アルトリウス・レーン」


 名と名を交換する。

 この国では、愛の言葉より先に、名を交わす。


「余は、汝を飾らぬ。隣に置く」

「私は、陛下を飾らせない。――隣に立ちます」


 誓いは、どちらも短かった。

 短い言葉は、長い手順に耐える。

 それで良い。


 指輪が嵌る。

 重さは、王冠の重さではない。

 人差し指の小さな傷に触れないように、王は気をつけた。

 私はそれに気づいたふりをせず、祝詞の音の数を黙って数えた。


     ◆


 婚礼の直後、王宮の倉から穀物が市場へ出された。

 孤児院の新しい帳簿には、刺繍の糸色が一色増え、医学生の出席簿に小さな丸が並ぶ。

 舞踏会の行列は、誰も気づかぬまま、予定通りに折れ、扉は最後まで閉じられたままだった。


 夜更け。

 王の執務室で、私は地図を広げていた。

 王は私の向かいで書簡に署名し、ときどき、こちらの矢印を瞥見する。


「こうして並んでいると、私たちはずっと前から、こうであった気がします」

「そうだな。――だが、余はあの日を忘れぬ。余が立った日、汝が問いを投げた日」


「当てつけではないか、と」

「うむ。あれで目が覚めた。余は王である前に、人である、と」


 窓の外で、秋虫が細く鳴く。

 王は羽根ペンを置き、指先で机を軽く叩いた。


「エリシア」

「はい」

「余は、余の国を愛している。汝も、そうか」

「はい」

「ならば――これから先の“間違い”は、互いに定義し直そう。怒りではなく手順で。涙ではなく実行で」


「約束します」

 私はペン先に新しい墨を含ませ、矢印を一本、足した。

「陛下」

「なんだ」

「扉の蝶番は、来年の春にもう一度見直しましょう。油は冬の間に固まります」


「任せる」


 言葉は短く、夜は長い。

 私たちは、火ではなく湯で温まる。

 湯気は音を立てず、けれど確かに部屋を満たす。


 扉の向こうで、世界はまだ誰かを砂で削るだろう。

 それでも、私たちは扉の場所を増やす。

 名誉ではなく成果で、怒りではなく手順で。

 王冠の煌めきではなく、指輪の丸さで。


 ――あの日、婚約は破棄された。

 けれど、私の人生は破棄されなかった。

 新しい道に、扉が開いた。

 開けたのは、王の言葉と、私の問いと、そして小さな蝋燭の火。


 この国が眠りにつくまで、私は地図の上に線を引く。

 倉から口へ、口から力へ、力から明日へ。

 王は黙って署名を重ね、時折、私の線を指で辿る。

 指先は傷だらけで、温かい。


 婚約破棄の瞬間に、私の世界は終わらなかった。

 ――始まったのだ。王と、隣で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ