表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

婚約破棄を宣告された瞬間、国王陛下が『では私が娶ろう』と言い出しました

掲載日:2025/09/30

 玉座の間は、いつもより少し寒かった。


 天井から吊るされた水晶の燭台は、昼の光を受けてきらめいている。磨き上げられた大理石の床には、貴族たちの靴音が小さく反響していた。壁際には近衛兵が並び、正面には赤い絨毯がまっすぐ玉座へ続いている。


 その絨毯の中央で、エリシア・ヴェルノは静かに背筋を伸ばしていた。


 侯爵令嬢として、王太子の婚約者として、彼女は幼いころからこう教えられてきた。


 人前で取り乱してはならない。

 怒りは言葉に乗せる前に、まず飲み込むこと。

 涙は武器にもなるが、王家に嫁ぐ者が最初に選ぶ武器ではない。


 だから、王太子ユリウスが数歩先に立ち、憎悪すら滲ませた目でこちらを見ていても、エリシアは微笑みを崩さなかった。


 隣では、伯爵令嬢ミレイユが白いハンカチを握りしめている。


 彼女の瞳は潤んでいた。肩は小さく震え、まるで今にも崩れ落ちてしまいそうに見える。貴族たちの視線は、自然と彼女へ向いた。


 可哀想に。

 何があったのだ。

 やはり、あの噂は本当だったのか。


 声には出さずとも、そういう空気が玉座の間に広がっていく。


 その空気を味方につけたように、ユリウスが口を開いた。


「侯爵令嬢エリシア・ヴェルノ」


 声は高く、よく通った。


「そなたとの婚約を、ここに破棄する」


 ざわめきが起きた。


 ある者は目を見開き、ある者は扇で口元を隠し、ある者は待っていた芝居の幕が上がったかのように身を乗り出した。


 エリシアは瞬きを一度だけした。


 婚約破棄。


 その言葉そのものに、驚きはなかった。


 ここ数か月、ユリウスがミレイユに傾倒していることは知っていた。夜会での視線、庭園での密会、学園時代から続く甘い噂。王宮の者たちは口が堅いようでいて、案外よく喋る。


 ただ、まさか王宮の正式な謁見の場で、国王陛下の御前で、これを行うとは思っていなかった。


 ユリウスは続けた。


「そなたは、伯爵令嬢ミレイユに対し、幾度も陰湿な嫌がらせを行った。茶会では彼女の席を外し、舞踏会では衣装を侮辱し、さらには王妃教育の場で彼女を嘲笑したという。未来の王妃となるべき者が、そのような醜い嫉妬に身を任せるなど、到底許されることではない」


 ミレイユが小さく息を呑んだ。


「わたくしは……ただ、ユリウス殿下のおそばにいたかっただけなのです」


 か細い声だった。


「けれどエリシア様は、わたくしに言いました。身分の低い者は、王太子殿下を見上げることすら許されないと……」


 玉座の間に、さらに冷たいざわめきが広がる。


 エリシアは、そこでようやくミレイユを見た。


 怯えた小鹿のような表情。

 震える指先。

 涙をこぼす直前で止めている絶妙な目元。


 上手だと思った。


 人は、怒鳴る者より泣く者を信じたがる。

 特に、泣く者が可憐で、怒鳴られる者が気高く見えるときには。


「エリシア」


 ユリウスが勝ち誇ったように顎を上げる。


「何か申し開きはあるか」


「ございます」


 エリシアは即座に答えた。


 その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「まず、ミレイユ様の席を外したという茶会についてですが、あの日の席次を決めたのは王宮典礼局です。わたくしではございません。席次表には典礼局長の署名があり、控えは王宮文書庫に保管されています」


 ざわめきが一段、低くなる。


「次に、舞踏会で衣装を侮辱した件ですが、わたくしはミレイユ様と直接会話をしておりません。会場入りの時刻は二十時十分、退席は二十一時二十五分。いずれも近衛騎士の記録に残っております。その間、わたくしは外交使節団の夫人方をお迎えしておりました」


 エリシアはユリウスを見た。


「最後に、王妃教育の場で嘲笑したという件ですが、そもそもミレイユ様は王妃教育を受ける立場にございません。非公開の講義室に入室するには、王妃陛下、もしくは国王陛下の許可印が必要です。ミレイユ様がその場にいらしたのであれば、許可証の提示をお願いいたします」


 ミレイユの肩が、わずかに跳ねた。


 ユリウスの顔に、苛立ちが浮かぶ。


「屁理屈を並べるな」


「事実を申し上げております」


「そなたはいつもそうだ。書類、記録、規則。人の心を何だと思っている」


「王家に関わる場で、心だけを根拠に人を裁くことはできません」


 エリシアの声は乱れなかった。


「殿下がわたくしを嫌われたのであれば、それは構いません。婚約の解消についても、正式な手順を踏んでいただければ受け入れます。しかし、無実の罪を着せられることは受け入れられません。ヴェルノ侯爵家の名誉にも関わります」


「名誉だと?」


 ユリウスは嘲るように笑った。


「そなたは自分の名誉ばかりだな。ミレイユがどれほど傷ついたか、考えたことはないのか」


「傷ついたと訴えることと、他者を罪人にすることは別です」


 その言葉に、玉座の間がしんと静まり返った。


 エリシアはそこで初めて、玉座に座る人物へ視線を向けた。


 国王アルトリウス。


 四十をいくつか越えたばかりの王は、先ほどから一言も発していなかった。銀を帯びた黒髪。深い灰色の瞳。表情は読めない。


 王妃は五年前に病で亡くなっている。

 それ以来、アルトリウスは再婚していない。


 王としては冷静で、無駄がなく、感情を表に出さない人だと聞いていた。


 その国王が、ゆっくりと肘掛けに置いていた手を動かした。


 ただそれだけで、玉座の間の空気が変わった。


「ユリウス」


 低い声が響いた。


 王太子の顔色が変わる。


「は、はい。父上」


「その訴えに、証拠はあるのか」


「証拠は……ミレイユが、これほど傷ついております」


「それは証拠ではない」


 国王は静かに言った。


「涙は感情の証明にはなる。だが、事実の証明にはならぬ」


 ミレイユの唇が震えた。


 ユリウスは一瞬言葉を失い、すぐに取り繕うように声を荒らげた。


「しかし父上、エリシアは冷たい女です。いつも規則ばかりで、人の心を見ようとしない。私の妃となるには相応しくありません」


「そうか」


 アルトリウスは短く答えた。


「では、お前は妃に何を求める」


「私を理解し、支え、民から愛される優しさです」


「国庫の歳入と歳出は理解できずともよいか」


 ユリウスが黙った。


「隣国との穀物協定に潜む関税の罠を見抜けずともよいか。疫病発生時の隔離区域と流通制限を判断できずともよいか。救貧院への予算配分が派閥の利権になっていると気づけずともよいか」


「それは……文官が行うことで」


「王妃は飾りではない」


 その一言は、剣より鋭かった。


 玉座の間にいた誰もが、息を呑んだ。


 アルトリウスはゆっくりと立ち上がった。


「エリシア・ヴェルノ」


「はい」


 エリシアは深く一礼した。


「そなたがこの三年、王妃教育の一環として提出した報告書を、余はすべて読んでいる」


 思わぬ言葉に、エリシアは顔を上げた。


「東部領の干ばつ対策案。北方街道の補修優先順位。王都下町における孤児院統合案。南部港湾の密輸経路についての指摘。どれも簡潔で、数字に強く、人の生活を見ていた」


 ユリウスが愕然とした顔で父を見る。


「父上……?」


「特に昨冬の救貧院監査報告は見事だった。寄付金の横領を見抜いただけでなく、子どもたちの食事内容まで確認していた。あの後、三人の院長を更迭し、予算の流れを変えた」


 エリシアの胸の奥が、わずかに熱くなる。


 あの報告書を読んでいた者がいた。

 ただの課題ではなく、実際に使われていた。


 その事実に、指先が震えそうになった。


 けれどエリシアは、両手を重ねてそれを隠した。


「身に余るお言葉でございます」


「余は、そなたを冷たいとは思わぬ」


 アルトリウスは言った。


「そなたは、泣く前に調べる。怒る前に整える。人を救うために、感情ではなく手順を選ぶ。それを冷たいと呼ぶ者もいるだろう。だが、国を支える者には、その冷静さが必要だ」


 玉座の間の視線が、エリシアへ集まっていた。


 先ほどまでの疑いとは違う。

 今度は、見直すような、値踏みするような、戸惑うような視線だった。


 ユリウスの顔が赤くなる。


「父上、何をおっしゃっているのです。エリシアは私の婚約者でした。たとえ婚約を破棄するとしても、彼女をそのように褒めるなど」


「お前が捨てるというのなら」


 アルトリウスは、王太子の言葉を遮った。


「余が拾おう」


 玉座の間が凍りついた。


 エリシアも、今度ばかりは目を見開いた。


 国王は一歩、絨毯の上へ足を進める。


 誰も動かない。

 誰も声を出せない。


 アルトリウスはエリシアの前まで来ると、まっすぐ彼女を見つめた。


「エリシア・ヴェルノ」


「……はい」


「余の妃となれ」


 息が止まった。


 婚約破棄を宣告された、その場で。

 王太子に捨てられた直後に。

 国王が、自分を妃に望んでいる。


 そんな出来事は、物語の中にしかないと思っていた。


 だが、アルトリウスの目は冗談を言う者の目ではなかった。


「これは同情ではない」


 王は言った。


「そなたの家名への償いでもない。余は王として、必要な人材を選んでいる。王妃の座は褒美ではない。役目だ。そなたに、その役目を担う覚悟はあるか」


 求婚の言葉としては、甘くなかった。


 花もない。

 愛の詩もない。

 跪きもしない。


 けれどエリシアは、その言葉を誰よりも誠実だと思った。


 王妃の座は、幸福な結婚だけを意味しない。

 権力の中心に立つこと。

 嫉妬と敵意を浴びること。

 失敗すれば国の傷になること。


 ユリウスの隣で微笑むだけの未来より、ずっと重い。


 だが、エリシアの胸にあったのは恐怖だけではなかった。


 それは、静かな怒りだった。


 自分を証拠もなく罪人にしようとした者たちへの怒り。

 涙の陰に隠れて、人の人生を奪おうとした者への怒り。

 そして何より、これまで積み重ねてきた努力を、ただの冷たさと呼ばれたことへの怒り。


 怒りは、エリシアの背をまっすぐにした。


「陛下」


 彼女は深く頭を下げた。


「一つ、お願いがございます」


「言え」


「わたくしが王妃候補となるのであれば、まず本日の件を正式に調査してくださいませ。ミレイユ様の訴え、殿下のご判断、そしてわたくしの反論。すべてを記録し、関係者から証言を取り、文書で結論を出していただきたいのです」


 ミレイユの顔が青ざめた。


 ユリウスが叫ぶ。


「エリシア、まだミレイユを追い詰めるつもりか!」


「いいえ」


 エリシアは彼を見た。


「わたくしは、誰も追い詰めたくありません。ただ、事実を明らかにしたいだけです。王家の判断が涙で揺らぐのか、証拠で動くのか。それを、この場の全員に示す必要があります」


 アルトリウスの口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。


「よかろう」


 彼は近衛隊長へ視線を向けた。


「本件を王宮監査院に預ける。関係者の出入り記録、書簡、侍女の証言、典礼局の席次表、舞踏会の警備記録をすべて提出させよ」


「はっ」


「ミレイユ・ラングレー伯爵令嬢」


 名を呼ばれ、ミレイユが震えた。


「そなたにも証言してもらう。虚偽があれば、王族に対する欺瞞として扱う」


「わ、わたくしは……」


 涙は、もう武器になっていなかった。


 エリシアはそれを冷たく見下ろすことはしなかった。

 ただ、見届けた。


 その日、玉座の間で起きた婚約破棄は、王都中に広まった。


 最初は、王太子が婚約者を捨てたという噂だった。

 次に、国王がその場で求婚したという噂に変わった。

 そして三日後には、王宮監査院が動いたという事実が噂を押し流した。


 調査は早かった。


 茶会の席次は、典礼局が決めたものだった。

 舞踏会でエリシアがミレイユと会話した記録はなかった。

 王妃教育の講義室にミレイユが入った事実もなかった。

 むしろ、ミレイユの侍女の一人が、主人の命でいくつもの噂を広めていたことを認めた。


 王太子ユリウスは、正式な叱責を受けた。


 王位継承権はすぐには剥奪されなかったが、政務からは一時的に外された。ミレイユは伯爵家へ戻され、社交界への出入りを禁じられた。


 エリシアの無実は、王宮文書として記録された。


 けれど、それで終わりではなかった。


 国王の妃となるということは、疑いが晴れたからといって祝福だけが待っているわけではない。


 むしろ、そこからが本番だった。


「陛下はご乱心なのでは」


「王太子の元婚約者を王妃にするなど、聞いたことがない」


「年齢差はどうなのだ」


「侯爵家が王権を握るつもりでは」


「結局、エリシア様は上を狙っていたのではないか」


 王都はよく喋った。


 夜会に出れば、扇の奥から視線が飛んでくる。

 廊下を歩けば、侍女たちの会話が不自然に止まる。

 王宮で書類を開けば、老臣たちが試すような目で見てくる。


 エリシアは、それらすべてを正面から受けた。


 国王から求婚された翌週、彼女は王宮の小会議室にいた。


 長い卓の上には、分厚い帳簿が積まれている。窓の外は曇りで、空は鉛色だった。


 財務卿、典礼局長、救貧院監督官、王都行政官。

 年配の男たちが並ぶ中、エリシアは淡い青のドレスで席についた。


「王妃候補殿に、このような細かい数字をご覧いただく必要はないのでは」


 財務卿が、にこやかに言った。


 笑顔は丁寧だったが、目は笑っていない。


「王妃となる方には、もっと大局をご覧いただかねば」


「大局を見るために、細部を確認いたします」


 エリシアは帳簿を開いた。


「昨年の救貧院予算ですが、衣料費が三割増えている一方で、冬季の毛布購入数は減っています。差額はどちらへ?」


 財務卿の笑みが固まった。


「それは、物価の上昇が」


「羊毛価格は確かに上がりました。ですが、王都商業組合の記録では上昇率は一割二分です。三割には届きません」


 エリシアは別の紙を重ねた。


「また、納入業者が三年前に変更されています。新しい業者の代表は、救貧院監督官殿の甥御様ですね」


 室内の空気が変わった。


 救貧院監督官が咳払いをする。


「偶然でございます」


「偶然なら問題ありません。では、入札記録を提出してくださいませ」


「古い書類でして、すぐには」


「王宮文書庫の副本を確認済みです。原本との差異を見たいのです」


 誰も、すぐに答えなかった。


 エリシアは静かに顔を上げた。


「わたくしは、皆様を敵にしたいわけではありません。ただ、冬に毛布が届かなければ、子どもが死にます。帳簿の中の三割は、現場では体温です」


 その言葉に、財務卿が目を伏せた。


「本日中に、関係書類を提出いたします」


「ありがとうございます」


 エリシアは微笑んだ。


 勝ち誇るためではない。

 次へ進むために。


 その会議の後、王宮内の目は少し変わった。


 国王に拾われた令嬢。

 婚約破棄から王妃になろうとする女。

 王太子を踏み台にした女。


 そんな噂に、新しい言葉が混ざり始めた。


 仕事ができる。

 数字を読める。

 怖いが、公平だ。


 それは、エリシアにとって十分な第一歩だった。


 アルトリウスは、彼女の仕事に過度な手出しをしなかった。


 褒めすぎることも、守りすぎることもない。

 必要な権限だけを与え、責任も渡す。


 ある夜、執務室で二人きりになったとき、エリシアは尋ねた。


「陛下は、なぜわたくしを選ばれたのですか」


 机の上には、王都下町の水路改修案が広がっていた。燭台の炎が小さく揺れ、アルトリウスの横顔に陰影を作っている。


「玉座の間で申し上げた通りだ」


「必要な人材だったから、ですか」


「そうだ」


「それだけですか」


 問いかけてから、エリシアは少し後悔した。


 まるで愛の言葉を求めているようではないか。


 しかしアルトリウスは、からかうこともなく、書類から目を上げた。


「それだけではない」


 エリシアの指先が止まる。


「余は、そなたの報告書を読んでいた」


「はい」


「最初は、王太子妃候補の能力を確認するためだった。だが、途中から楽しみにしていた」


「楽しみに?」


「そなたの文章は、事実を逃がさない。だが、人を切り捨ててもいない。孤児院の報告書に、こんな一文があった」


 王は記憶をたどるように目を細める。


「“制度は人を救うための器であり、器を守るために人を飢えさせてはならない”」


 エリシアは息を止めた。


 自分でも忘れかけていた一文だった。


「余はその時、思った。この娘は、王宮で育てられながら、王宮の外を見ていると」


「買いかぶりです」


「そうかもしれぬ」


 アルトリウスは静かに笑った。


「だが、王は時に賭ける。余はそなたに賭けた」


 愛している、とは言われなかった。


 けれどエリシアは、その言葉を大切に胸へしまった。


 信頼は、甘い言葉より重いことがある。


 季節が一つ進む頃には、王宮でエリシアを侮る者はほとんどいなくなっていた。


 完全に味方になったわけではない。

 だが、軽く扱えば自分が怪我をすると知ったのだ。


 そんなある日、ユリウスがエリシアを訪ねてきた。


 王宮庭園の東屋。

 遅咲きの薔薇が風に揺れている。


 かつての婚約者は、少し痩せて見えた。華やかだった金髪も、以前ほど輝いてはいない。だが、その目にはまだ、捨てきれない自尊心が残っていた。


「エリシア」


「王太子殿下」


 エリシアは礼をした。


 ユリウスは、その呼び方に顔を歪めた。


「昔のように呼んではくれないのか」


「昔とは、立場が変わりましたので」


「君は変わった」


「そうでしょうか」


「いや……違うな。私が、君を見ていなかっただけかもしれない」


 その言葉は、謝罪にしては遅すぎた。

 けれど、言わないよりはましだった。


 ユリウスは唇を噛む。


「私は、ミレイユに騙されていた」


「そうですね」


「だが、君も冷たかった。いつも正しくて、隙がなくて、私の前で泣いたこともなかった。私は、君に必要とされていない気がしていた」


 エリシアは、庭の薔薇を見た。


 赤い花弁が一枚、風に落ちる。


「殿下」


「何だ」


「必要とされたいのなら、まず必要とされるだけのことをなさるべきでした」


 ユリウスの顔が強張る。


「わたくしは殿下を支えるため、学びました。政務も、外交も、財務も、王宮作法も。殿下が将来王になると信じていたからです。けれど殿下は、わたくしが何をしているか、一度も尋ねませんでした」


「それは……」


「わたくしが泣かなかったから、傷ついていないと思われましたか」


 ユリウスは何も言えなかった。


「わたくしは、泣く時間を勉強に使いました。怒る時間を資料確認に使いました。不安になる時間を、殿下が失敗した時にどう支えるか考える時間にしました」


 エリシアは彼を見た。


「それを冷たいと言われたことが、わたくしは一番悲しかった」


 ユリウスの肩が落ちた。


 彼はようやく、自分が何を失ったのか理解した顔をしていた。


「戻れないのか」


 小さな声だった。


「私たちは」


「戻れません」


 エリシアは即答した。


 そこに怒りはなかった。

 未練もなかった。


「殿下は、わたくしを信じなかった。わたくしも、もう殿下を支える未来を選びません」


「陛下を、愛しているのか」


 エリシアは少し考えた。


 アルトリウスへの感情を、まだ簡単な言葉にすることはできない。


 尊敬。

 信頼。

 共に国を見ているという安心。

 そして、ふとした瞬間に胸を温かくする静かな親しみ。


 恋と呼ぶには穏やかで、政略と呼ぶには温かい。


「陛下の隣でなら、わたくしはわたくしのまま立っていられます」


 それが答えだった。


 ユリウスは目を閉じた。


「そうか」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 去っていく背中を、エリシアは最後まで見送った。


 可哀想だとは思わなかった。

 憎いとも思わなかった。


 ただ、一つの季節が終わったのだと思った。


 婚礼の日、王都は晴れていた。


 大聖堂の鐘が鳴り、白い花びらが空を舞う。沿道には民が集まり、兵士たちは晴れの制服で道を守っている。


 エリシアは白銀の刺繍が入ったドレスをまとい、ゆっくりと祭壇へ進んだ。


 その先に、アルトリウスが立っていた。


 王冠を戴いた王ではなく、一人の男として彼女を待っているように見えた。


 彼は手を差し出した。


「緊張しているか」


「少しだけ」


「珍しいな」


「わたくしにも、緊張くらいございます」


「それはよかった」


 アルトリウスがかすかに笑う。


「そなたが何でも平然としていると、余の出番がなくなる」


「陛下にも、出番をお望みになることがあるのですね」


「最近はある」


 短いやり取りだった。


 けれどエリシアの胸から、余計な力が抜けた。


 大司教の祈りが始まる。

 聖堂に光が差し込み、色硝子を通った青や赤の影が床に落ちる。


 その光の中で、エリシアは思い出していた。


 婚約破棄を宣告された日。

 冷たい視線。

 涙を武器にした少女。

 自分を見なかった王太子。

 そして、玉座から立ち上がった王。


 あの日、彼女は捨てられたのではなかった。


 選び直されたのでもない。


 自分の足で、別の道へ進む機会を得たのだ。


「エリシア・ヴェルノ」


 大司教が告げる。


「汝は、アルトリウス王を夫とし、この国の王妃として、民と王家を支えることを誓うか」


 エリシアは顔を上げた。


 聖堂の奥に、かつて彼女を疑った貴族たちがいる。

 王宮で彼女を試した老臣たちがいる。

 そして、少し離れた席に、ユリウスもいた。


 彼は静かにこちらを見ていた。


 エリシアは、誰にも勝ち誇らなかった。


 その代わり、まっすぐ前を向いた。


「誓います」


 声は、聖堂の高い天井へ澄んで響いた。


 アルトリウスの指が、彼女の指に触れる。


 王の手は温かかった。


 指輪がはめられる。

 細い金の輪が、光を受けて輝いた。


「アルトリウス王」


 大司教が続ける。


「汝は、エリシアを妻とし、王妃として尊び、共に国を支えることを誓うか」


「誓う」


 アルトリウスは、迷いなく答えた。


 そして、エリシアだけに聞こえるほど小さな声で付け加えた。


「余の隣に来てくれて、感謝する」


 エリシアは思わず彼を見た。


 王は正面を向いたままだった。

 だが、その横顔はいつもより柔らかかった。


 胸の奥に、静かな熱が灯る。


 エリシアは小さく答えた。


「こちらこそ、陛下」


 鐘が鳴った。


 今度は、婚約破棄のざわめきではない。

 祝福の鐘だった。


 その音を聞きながら、エリシアは思った。


 涙で奪われかけた名誉は、記録で取り戻した。

 侮られた努力は、成果で示した。

 冷たいと言われた心は、誰かの命を守るために使えばいい。


 王妃とは、王の隣で微笑むだけの女ではない。


 国の痛みを知り、数字の裏にいる人を見て、必要ならば誰よりも早く刃を抜く者だ。


 婚約破棄は、終わりではなかった。


 あれは、始まりだった。


 王太子に捨てられた令嬢は、国王に拾われたのではない。


 彼女は、自分の価値を証明し、王の隣に立つ未来を選んだ。


 だからエリシアは、聖堂の扉が開いた瞬間、迷わず一歩を踏み出した。


 外には、光があった。


 民の歓声が、春の風のように押し寄せる。


 隣で、アルトリウスが彼女の手を握った。


「行こう、エリシア」


「はい、陛下」


 その日、王都の人々は新しい王妃を見た。


 涙で選ばれた女ではない。

 噂に沈んだ女でもない。

 婚約破棄の場で屈辱を受け、それでも背筋を伸ばし、証拠と言葉と実務で自分を取り戻した女。


 エリシア王妃。


 後に彼女は、救貧院改革、王都水路整備、地方教育制度の再編を成し遂げ、歴代王妃の中でもっとも民に記憶される一人となる。


 けれど、はじめの一歩を知る者たちは、いつまでも語り継いだ。


 あの日、王太子が婚約破棄を宣告した瞬間。


 国王陛下が立ち上がり、こう言ったのだと。


「では、余が娶ろう」


 そしてその一言が、一人の令嬢の人生だけでなく、この国の未来までも変えたのだと。


 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ