九十七、 定信の自白
「ひそかに鍛えていると聞いたが、もしや、お照は介錯ができるのか」
息を呑んだ。
「できません!」
「振り向かずともわかる。腕をあげたな。わしの首くらい一刀で斬れるだろう」
鬼頭はくるりと向きを変えた。
「よし、持って行くがいい」
鬼頭は大小を揃えてお照のほうに転がした。跨いだだけで殺されることがある武士の魂をずいぶんと手荒に扱う。
「死ぬつもりだからですか。なにも死ななくてもいいじゃないですか」
武士はすぐに死ぬことを考える。腹が立った。
「わしがなぜ老中首座から転げ落ちたか、知っているか」
「いいえ」
「失敗したからよ。抜け荷の件でな」
お照は大小を抱えあげた。袖で包むのではなく、しっかりと鞘を握りしめる。
「抜け荷というと白蓮教徒が関わっていた阿芙蓉……? しかし順調に追い詰めていたではありませんか。首魁に辿りつけなかったとはいえ末端の売り子を一網打尽にできたのは鬼頭さまの功績です。江戸の町に悪癖が蔓延るのを未然に防いだのですから」
「首魁は、わしだ」
「は?」
「抜け荷を扱っていたのはわしなのだ。誤解するな。阿芙蓉のことは知らぬ。わしがやったのは、蝦夷と琉球と清国を仲介して、それぞれの地の特産品を安く仕入れ、不足している場所で高く売るというありきたりの商売に手を貸しただけだ。鼈甲や人参といった外国からの品も多く含んでいた。そのなかに混じってはいけないものが混じってしまったのだ」
「なぜ、抜け荷など……」
「幕府の御金蔵のためだ」
幕府には金がない。だから質素倹約を奨励し、出費を悪とした。だがいくら武士の裃を木綿に変えても、大奥の出費を抑えても、焼け石に水なのだ。鬼頭は苦いものを噛みしめるようにそう言う。
「商売なら店を畳めばよいが幕府はそうはいかぬ。幕府だけではない。国中の大名が瀕死なのだ。たとえお照たちのような町人やトラなどの農民が幕府など無くてよいと思ったとしても、そうはいかんのだ。秩序がなければこの世は地獄よ」
「あやうく阿芙蓉で地獄を招くところでした」
鬼頭はくっと喉で笑った。
「そのとおりだ。武士が商人の真似事をしようなどと愚かであった。理財の才くらい、だれにでもあると過信していた。わしはただの愚直な武士よ」
愚かだったのは武士ではなく、あなたなのではないか。そう口にしそうになってお照はこらえた。
将軍家斉は一切与り知らぬところだったのだろうか。そうとは思えない。
「公方さまはあなたを切り捨てた」
「それは違う。家斉さまは一人立ちされ、わしの助言は不要になったのだ。抜け荷の件はわしの不手際よ」
忠節というのは侮りがたい。しかも無粋だ。
「それで、死のうと考えたのですね」
鬼頭は気色ばんだ。
「なにを莫迦な。わしにはまだやることがある」
鬼頭は立ち上がった。
「死ぬと思ったのか。見ろ。白装束など着ておらぬ」
よく見ればたしかに白装束ではなかった。薄鼠色の小袖に濃鼠の袴である。
切腹をすると思ったのは、たまたま脇差を手にしていたところを見たからだった。
どうやら勘違いだったようだ。誤解したのだ、と思うことにした。
「安堵しました。やることとは抜け荷の後始末でしょうか」
「わしはもう天下のことには関わらない。残りの人生は白河藩の藩政に務めるだけだ。白河のことだけを考えればいいというのは気軽なものだ」
肩の荷が下りたとでも言いたげに、鬼頭は鼻から息を吐き出す。
「それは、ずるいです」
つい、ずるいなどと口走った。言い切ったあとで動悸がした。まぎれもない本音だった。
さんざん女将の邪魔をしていたくせに、いざ職を辞したらあっさりとしたものだ、と思ったからにほかならない。
「なにか勘違いをしているようだが……よいか、お照。おまえはただの町娘だ。天下のことも、女将やルイ十七世のことも責任を負わずともよいのだ。おのれの幸せだけを求めてかまわないのだぞ」
「……では白蓮教はどうするんですか」
「奴らは無力よ。抜け荷の件で、無法な唐船があると考えたはずだ。いずれ、どこかの港で捕まるだろう」
「そうですか……」
安心していいのだろうか。彼らは仇討ちに来るのではないだろうか。
だがそんなことはお照が口にするまでもないのかもしれない。
「鼠色の御召し物で思い出しました。ねずみをお返ししますね」
お照は肩のねずみを手のひらに移し、鬼頭の眼前に差し出した。
だが鬼頭は眉を顰める。
「ねずみ?」
「鬼頭さまのねずみでしょう」
鬼頭はますます顔を曇らせた。
「小汚いねずみを近づけるな。わしはこんな畜生なんぞ知らん」
「あ……」
ねずみはお照の手から飛び降りると、あっというまに走り去って見えなくなった。
「本当に鬼頭さまのねずみではなかったのですか」
あのねずみに幾度助けられたことか。てっきり鬼頭が調教しているのだとばかり思い込んでいた。
「お照、いまから言うことをよく含んでおけ。公儀は、女将らが日本を去るまでは警護をつけて守ってやる。幕府は船の手配も急いでいる。ルイ十七世が日本にいると困るのだ。冷酷だと思うかもしれぬが仕方ない。他国の戦いに巻き込まれることだけは避けねば」
「厄介払いということですね」
「厄介払いされたわしが言うのは滑稽ではあるがな」
「お世話になりました。ご厚情には感謝いたします」
白々しい台詞を残して、お照は白河藩邸をあとにした。




