九、 菓子を作る
「ぼくの国だよ。お姉さまとお父さまはまだフランスにいらっしゃるの。いつかぼくとお母さまも帰るつもりだけど……しばらくは無理みたい」
「まあ、シャルルは家族と離ればなれなの。どうしてお母さまと吉原で暮らすことになったの」
「逃げてきたんだ。民衆がすごく怒って……ぼくらを守った護衛が殺された。切り落とした護衛の首を槍の先に刺して……ほら見てみろって城の外からこれ見よがしにかざしたんだ。それで、なんとか城から逃げだしていろんな国をまわってここに辿り着いたんだ」
「まあ、ひどい。戦が起きたの?」
「うん、まあ、そんなかんじ」
「そんな恐ろしいところに帰ることはないわ。ここで暮らせばいいじゃない。お父さまとお姉さまも呼び寄せたらいいわ」
シャルルは困りきった顔でお照を見上げた。
「そうできたらいいけど……ぼくはフランスでお父さまのあとを継がないといけないんだ。お母さまも望んでいらっしゃるし」
お照は安易に口走ったことを反省した。
シャルルが大人びているのは、背伸びしてでも成長しなければならない理由があったからだろう。
この小さな肩が背負っているものはお照には想像できないが、とてつもなく大きくて重いものに思えた。
「将軍さまの牛をなくしたら打ち首獄門になってしまうの?」
「それはないと思うけど、牛がいなくなったら牛乳が手に入らなくなる」
話をしながら元来た道を急ぎ戻り、道すがら、かたっぱしらに声をかけたが牛を見かけた者はいなかった。
次第に顔が曇るシャルルを見かねてお照はたずねた。
「牛乳って牛の乳? 牛の乳がないとそんなに困るの?」
「クレームキャラメルが作れなくなっちゃう」
「え、あれに牛の乳が入っていたの?」
お照は思わずぎょっとなった。知らぬ間に口にしていたのだ。とたんに胃の腑から獣臭さがこみあげてきた。
「牛乳は吉宗が認めた滋養薬だよ」
「おくすり、おくすり……あれはおくすり」
先ほどシャルルを脅したことが呪詛返しのように返ってきた。
お照自身は獣を食べるのは抵抗があったのだ。
「おくすり、おくすり」
題目のように繰り返し言い聞かせているうちに、気がつくと玄関の前に戻っていた。
玄関の右の柱にさきほど見落としていた小さな木板が下がっている。
菓子耕地屋。こうちやと読むのだろうか。意外に地味な店名である。
店といっても見かけは仕舞屋である。商売をしている雰囲気はない。菓子舗は別にあるのだろうか。
ふとシャルルを見やる。玄関の戸を睨みつけ、肩を強張らせている。
女将さんに叱られることがよほど怖いのだろうか。
「ねえ、シャルル。もし女将さんがどうしても牛の乳がほしいって言うなら、近くの農家にもらいにいってあげる。吉原の回りは田んぼばっかだもの。牛を飼ってる農家もあるでしょう。子牛を産んだばかりの雌牛だってきっといるはず」
シャルルはお照の指先をぎゅっと掴んだ。
「ぼくは大丈夫だよ」
けなげにもシャルルは微笑んでみせた。
お照を安心させるための笑顔だ。胸の奥が苦しくなる。
そんなお照を置いて、シャルルは勢いよく戸を開けるやまっさきに声を張りあげる。
「お母さま、ごめんなさい! 吉牛をなくしてしまいました!」
女将は土間に立っていた。
「どこへいっていたの、ふたりとも。わたくしを手伝ってちょうだい」
女将は鶏卵を丸い容器に割り入れている。台の上には砂糖が山盛り、そして碗にたっぷりと白い液体。
シャルルがそれを見てぽかんと口を開ける。
「吉牛は小屋にいますよ。足りないからもっとシボってきてくれるかしら」
合いの手のように遠くからモーウと聞こえてきた。
「吉牛!」
小屋に向かって駆けだしたシャルルにお照もついていった。
小屋には神々しいほど真っ白な牛がいた。闖入者のお照を横目でちらりと見て、興味なさげに地面の草を食む。
お照はシャルルと顔を見合わせて頬をゆるめた。
「ちゃんと帰ってくるなんて利口な牛ねえ」
「もう、勝手に出かけちゃだめ……うひゃ、くすぐったい」
シャルルの顔を舌で舐める仕草にさえ、妙に威厳のある牛だった。
安堵したお照が一足先に土間に戻る。
女将は鶏卵の入った丸い容器を手渡してきた。
「アワダてないように溶いて。テジュンをしっかりと覚えてね」
「はい」
動きやすいように着物をたすき掛けしていると、女将が前掛けを手渡してくれた。腰にきゅっと結ぶ。
いまから菓子作りが始まるのだと思うと期待に胸が膨らんだ。大きな茶筅のような道具で卵を溶く。女将はそのあいだに砂糖を煮詰めて、砂糖のあんかけ……キャラメルソースとやらを作る。
「お照さん、シャルルをどう思いましたか」
女将はかまどの火を整えながら質問を投げる。
お照は言葉に気をつけて答えた。
「良い意味で大人びていますね。将来大物になる予感がします」
「大切な牛を逃がしてしまうなんて、うかつな子よね。罰が必要だわ」
「罰……」
女将の口調はとげとげしいと感じた。女郎の折檻を連想して、お照は慎重に言葉を選んだ。
「でも無事でしたし……きちんと世話をしていたんでしょうね、吉牛はシャルルになついていますもの」
「あ、お照さん、牛乳に砂糖を混ぜてちょうだい」
女将は手早く茶碗を並べ、キャラメルソースを注ぎながら指示を出す。
「これが、牛乳ですね」
思わずくんくんと匂いを嗅いでしまう。少し生臭く、懐かしい匂いがする。
「これらを混ぜて茶碗蒸しのように蒸せばいいだけなのですか」
思いの外、手間がかからない。自分ひとりでも作れそうだと思うと、少し心が浮き立った。