七十一、 ルイ十七世陛下
「おれが持ってる舶来の顔料、ある分全部くれって言われたんだ。隠し持ってたのを蔦重に渡したんだ」
お照は思い出した。耕書堂にお照が相談に行ったとき、蔦屋は秋馬の顔料について執拗にたずねていた。
「たいした量は残ってないって言ったら、それでもかまわない、こっちで研究するからってさ。で、交渉さ。絵師として使ってくれるなら藍色の作り方を教えるけど、どうするってね」
おのれの血を抜いて、へろへろになってまで辿りついた成果を、秋馬は手渡してしまったのだ。
「それでよかったんですか、秋馬さんは」
「無名の素人が持っていてもしょうがない。江戸一の版元にまかせれば、抜け荷ではない江戸うまれの顔料が出来るだろうし。そんでもって、おれは耕書堂お墨付きの絵師になるんだ。だから……」
そこで秋馬はなにかを言いかけて口を閉じた。
「なんです?」
「いや、原材料によっちゃ、お上の禁に触れるかもしんねえけど……大丈夫さ、蔦重なら」
「それって、死体……」
「いや、そっちはいいんだ。山鯨屋とかさ、そういうとこから動物の肝をもらえばなんとかなるだろ。おれが調合できなかった緑色さ。原材料はおそらく鉱物。だが鉱物は扱いが難しいから素人はいじってはいけないんだ。かといって、お上の許可を取るのは面倒だしな。あ、ちなみに蔦重に聞いたんだけども、藍色のほうは亡き平賀源内先生も研究していたらしいんだ。世話になった蔦重は、だから余計にこだわってるんだろう」
なるほどとお照は思った。
江戸で一番の版元なら良い顔料は欲しくなって当たり前。蔦屋と親交のある顔料屋はご公儀の許しをもらっているだろうし、なにより専門家だ。ほどなくして材料は特定されるだろう。
となれば、鮮やかな緑色と深淵な藍色をふんだんに使った耕書堂の錦絵はさらに評判があがる。顔料の生産を独占できたら商売をさらに広げることもできる。
名のない絵師を雇ったとしても、蔦屋は元が取れる、損のない良い取引だったのだ。ただし女将が首を縦に振れば、という条件がつく。
もし女将が渋ったらそのときこそ首席侍女の出番である。
俄芝居のために蔦屋に協力する要があるのだと伝え、似姿を描いてもらうことの格別な心地よさでもって口説こう。それはさほど難しくないと思える。
「女将さんが帰ってくるのを待っててもいいですけど、しばらくはかかると思いますよ。それより三浦屋の高月花魁にお見舞いの品でも持っていったらどうでしょう」
「そうか、そうだな。じゃ、失礼するよ。今度来るときは蔦重を連れてくるからな」
先日の騒動は秋馬の耳にも届いていたようで、見舞いという耳聞こえのよい口実に秋馬は惹かれたようだ。いそいそと腰をあげた。
「そうそう、こんな感じだよ」
手遊びで秋馬が残していった絵を見てシャルルが肯う。帆船を頭上に載せた女将の姿が、秋馬の想像で描かれていた。なんとも珍妙な姿だった。
「うわ」
お照は悲鳴をあげた。玄関を掃いていたお照の頭に鳩がとまったからだった。
「な、なんなのよ、もう」
いっこうに逃げるようすのない鳩は簡単にお照の手で捕まえられた。
鳩の足になにかついている。
お照は人目を避けるために屋内に移動した。
白蓮教の温操舵主からの指示書だった。
『幕府に囚われた仲間を救いたい、情報を求む』
という簡潔な内容だった。
もう少し早く指示があれば千代田城に行った女将が探ってこれたかもしれないが、一歩遅かった。
半兵衛にたずねたらなにかわかるだろうか。
捕まった仲間とは白蓮教徒のことだろう。彼らはいつ、なんの罪で、幾人捕まったのか。道場に手入れが入ったのならばかなり大掛かりな捕り物となったはずで、そう遠くもないここ吉原に噂が流れてこないはずがない。
ということはあの道場は無事。道場とつながりを持つ教徒が江戸の町にいて、正体がばれたということだろうか。
白蓮教は異教であるがゆえに幕府にとっては耶蘇教と変わらない、危険な宗教ということなのか。
その危険な宗教に入信し、間者になった女将は幕府の敵になったのか。
考えるにつれ、ぞくりと背筋が冷えた。
「半兵衛さんに相談できることじゃないわ……できるとしたら、密告しかない。でもそれだと、下手したら女将も……鬼頭に追い詰められる」
やはり半兵衛になにもかも話したほうがいい。お照はそう結論づけた。
百両をご公儀に取りあげられるかもしれないが、強欲で命を失うのはばかばかしい。
約定を交わした白蓮教徒を裏切ることは道理には反する。だが返しても口封じで殺されるかもしれない。故郷を追われて逃げてきた彼らは気の毒ではあるけれど、女将とシャルルの命には代えられない。
「あれ、おかしくない……?」
白蓮教徒の立場は女将と同じはずだ。
祖国を追われてやむなく日本にやってきた。いずれは帰国することを望んでいる。祖国に帰って穏やかに暮らすことができれば一番いい。日本に住み続けたいと願うならそれもいい。
白蓮教の教えを捨て、日本人より日本人らしく振る舞ってくれたら歓迎できるのに……。
パンの欠片をついばむ鳩を見つめながらお照は空虚さに肺がふさがれる思いだった。
おのれがこれほど恩着せがましい人間だったとは。
「どうしたらいいのか、わからない……」
だが紙片には『承知』と書いて鳩の足に結んだ。
なにがあろうと、優先すべきなのは女将とシャルルの無事である。その点は揺らぐことはないのだ。
鳩を空に放つ。二度三度と旋回して、鳩は道場の方角を目指して飛んで行った。
玄関を閉めようと振り返ると、女将が立っていた。
「お、おかえりなさい、早かったですね」
てっきり芝居町に寄ってくるかと思っていたので早い帰還に驚く。
「女将さん、お話が、」
「待ってちょうだい」
お照を一顧だにしない厳然とした口ぶり。
「お母さま、お帰りなさい」
声が聞こえたのだろう、シャルルが降りてきて上がり框に腰かけた。手にはお気に入りの黄表紙がある。
女将はまっすぐにシャルルの前に進むと、両手でローブの裾を持って辞儀をした。
シャルルに対する敬意と尊崇の念が表れていた。それこそ神にかしずく信徒のような、初めて見る女将の姿だった。
「お母さま?」
「ルイ十七世陛下」
シャルルの手から黄表紙が滑り落ちた。
近づけばよく見えるわけではない。近づきすぎてかえって見えなくなるものがあることをお照は知った。




