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六、 美味いが勝ち

「美しいものを見て泣いたことはあるかしら」


「は?」


 予想外の問いに面食らって、お照は顎を突き出した。


 場所は菓子舗の二階である。

 ちょっとした異界がそこにはあった。

 足下にはふかふかした毛氈(もうせん)。背もたれのある長い腰掛けは天鵞絨張りでお尻が浮くような感覚に戸惑う。

 壁には百合の花を描いた絵と大きな鏡。ギヤマンの壺にはたくさんの花。猫の手が生えてる箪笥。

 千太郎は落ち着かないのだろう、お照の隣でもじもじしている。

 女将が手ずから煎れてくれたお茶は馴染みがない香りだ。

 金色と藍色に彩られた茶器は繊細で蔦みたいな取っ手がついている。

 取っ手に親指を片方入れて両手で抱えるようにして一口飲んだ。香りのよいお茶だ。色は茶色いけれど、ほうじ茶とは違う。


 ふと見ると、女将は片手の指先で取っ手を摘まんでいる。もう一歩の手には受皿。受皿ごと持ち上げてから飲むのが正しい所作なのだろう。


 骨や関節を感じさせない、柔らかそうな女将の指にお照は見とれた。弥勒菩薩像の手指である。


「わたくしのニホンゴはわかりにくいかもしれませんかしら」


「あ、いえ」


 お照は慌てて茶器を置いた。


「美しいものを見て泣いたことはありません。きっと、わあきれいって手を合わせて拝んじゃうと思います」


 正直なところ、お照は「美しいもの」がよくわからない。美しいものがなんなのかもわからない。

 金の簪や絹の着物には縁がない。人気の役者の顔は美しいといえるかもしれないが芝居はご無沙汰だ。

 そして目の前の異国の女性は……。


 シャルルとよく似た整った容貌に、お照は思わず知らず手を合わせていた。女将を見ていると、観音像や弥勒像を前にした敬虔な気持ちがわいてくる。


「さきほどは花魁と呼んでしまってすみませんでした。あまりに神々しくて」


「ふふ。シャルルはあなたのことが気に入ったみたいだからトクベツにゆるすわ」


 そこへシャルルが盆になにかを載せてやってきた。


「クレームキャラメル、持ってきたよ」


 お照と千太郎の前に置く。


「一緒に食べよう」


「はあ」


 ギヤマンの器に入っているのは唐茶色の汁ものがかかった淡黄色の柔らかな物体。一見したところ、あんかけ茶碗蒸しのようだ。


「どうぞ。召し上がって。それがうちのウリモノですから」


 女将にも促され、お照は匙で掬って口に運んだ。


「ん、甘あ、うまあ」


 おそろおそる口にしたとたん、思わず悲鳴じみた声が出た。

 口中でほろりとほどける感覚があり、じわりと滋味が拡がる。茶碗蒸しより弾力があって、良い香りがして、なにより甘い。

 手が止まらなくなって、あっというまに平らげた。


 材料は卵と砂糖のほかはなんだろう。卵も砂糖も高級品だ。上掛けはあんではなく、焦がし砂糖だった。

 口が福でいっぱいになる。クレームキャラメルとはかくも美味なるものか。


 初めて食べた異国の菓子なのに、なぜか懐かしい香りを感じた。


「茶屋で大評判なんだ。すぐに品切れさ。でもここで働いたら、お照は毎日食べられるよ」


 シャルルが自慢げに胸をそらす。


「たいへんよいものをご馳走様でした」


 空になったギヤマンを名残惜しげに見やると千太郎はお照に向き直り、「これは美味いだけでなく高価な薬も入ってるんだよ。滋養強壮の薬だ。毎日食べたら寿命が延びるぞ」とこれまたなぜか自慢げに胸を張った。


「まあ、お薬が……」


 お照が前を向くと、いつからお照を見つけていたのだろう、女将と視線が合った。女将は口元だけで微笑む。


「お照ってナマエもいいわ。気に入りました。うちで働いてもらいましょうか」


「はい、よろしくお願いします!」


 美味いものには人を平伏させる力がある。お照は菓子に屈服したのだった。


「ではお照には一階の一間に住むエイヨを与えます」


「は、はい。ありがとうございます」


 大仰な言いようだが今夜から泊まることができるのだ。ようやく人心地ついた気持ちになった。


「ツイカのチューモンを受けたので、お照には菓子作りを手伝ってもらいましょうか。シャルル、リキューからザイリョーを持ってきてちょうだい」


「はい、お母さま。お照も一緒に行こう」


「リキュー?」


「母屋はコの字の形になっていて、小さな庭を囲っているんだ。コを閉じるように建てられた簡素な小屋を離宮と呼んでるんだけど」


 シャルルはお照の手を引いて一階を駆け下りた。


「待って待ってシャルル。いろいろ聞きたいことがあるんだけど」


 聞きたいことがありすぎて頭がおかしくなりそうだ。

 お照はなにから訊ねるべきかと迷った。


 女将とシャルルはいつどこからやってきたのか。なぜ吉原に住んでいるのか。

 

 お照の小さな耳にも海禁政策の話は入ってくる。長崎の出島だけが異国人に開かれていることも知っている。一部は江戸にまでやってきて、物珍しそうに絵草紙屋を覗いていたりする姿も見知っている。


 だが吉原に住居を構えて菓子補を営んでいる異国人なんて聞いたことがない。


「じゃあ、お照ちゃん。わしは帰るよ。また近いうちにようすを見に来るから」


 千太郎の声が遠く聞こえる。


「あ、待っ──」急に心細さを覚えたが、自分は奉公に来たのだと思い出す。ぐっと言葉を飲み、ことさら明るく聞こえるように声を張った。「今日はありがとう、千太郎おじさん」


 いつまでも誰かに頼っていてはいけない。

 なんとか居場所を手に入れたのだから、あとは自力で頑張っていこう。


 父の怪我は不運ではあったがお照に小さな気づきを与えたという点では意味があったといえるかもしれない。

 ずっと父を支えているつもりでいたが、心の底では父に甘えていたのだ。

 おのれの存在を父に赦されていると思い込んでいたのだ。

 赦されていようがいまいが、自分は存在することを証し立てしたい。

 お照の腹にぐっと力がみなぎった。


「離宮というのはあの小屋のこと?」


 小さな庭に面して粗末な小屋がたっている。


「うん、そうだよ。あれ、戸が開いてる……?」


 シャルルはおそるおそる小屋を覗き込んだ。

 そして、蒼白な顔で振り返った。


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