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二、 吉原の中へ

 ついていった先は川べりで、そこから猪牙舟(ちょきぶね)に乗り換えて大川を(さかのぼ)る。


「遠いんですか」


「いや、たいしたことはないよ」


 千太郎はにこにことよく笑っている。

 商売柄、愛想の良い人ではあるが今日はいっそうご機嫌のようだ。

 船頭までにやにやと笑ってお照を盗み見ている。その目つきはじっとりと湿っていて、いやな感じだ。


「田畑しか見えませんよ」


 舟は遡上(そじょう)し、風景はどんどんと寂しくなっていった。


「もうすぐ着くよ。ほら、堤が見えてきた」


 小舟が集まっている。順番を待って堤にあがると、さびれた田圃の真ん中に小川と堤が一本の長い道になって続いている。

 その道だけ、場違いなほど賑わっていた。


「こっちだよ」


 道の両側には茶屋が立ち並んで、客引きが手招いている。いくつもの駕籠(かご)が客待ちをしている。この道に沿ってゆるやかなのぼりの先になにがあるか、教えられなくてもお照にはわかった。


「駕籠に乗っていこうか」


 お照は首を振った。駕籠は贅沢だ。


「なに、かかりの費用は向こう持ちだ。遠慮することはない」


 肩を押されて駕籠に押し込められた。


「あの、千太郎おじさん。菓子舗は堤沿いにあるのですか」


 前後に並んだ駕籠に声を投げるが、


「着いたらわかるよ」


 軽快な律動に揺られてしばらく行くと立派な大門が目に映った。

 田圃のただ中に燦然(さんぜん)と輝く花街(かがい)吉原(よしわら)だ。五十間道の坂を前に駕籠かきが到着を告げる。


 江戸の悪所にして名所。堀と塀で囲まれたいつわりの国。

 いろいろな噂は耳にしていたが訪れたのは初めてであった。


 千太郎は大門で手形の手配を頼んだ。


「……わたしだけ、手形が必要なんですか」


 お照は千太郎に問う。男たちは自由に出入りしているのに。


「手形のない女は大門から出られないんだ。しっかりと持っていな」


「吉原だなんて聞いてませんよ。おじさんを信じてここまでやってきましたけど。まさか……!」


「あのなあ、お照を妓楼に売るつもりなら手形なんか手配しないよ」


「……それもそうね」


 お照はあっさりと威勢を引っ込め、帯の中に手形の木札を挿しこんだ。


 千太郎は中心にある大通りを指して、「仲之町(なかのちょう)だよ」と言った。

 町とは名ばかり、ずっと奥まで続く大路の中心に桜の樹と灯篭(とうろう)が並んでいるだけだ。

 その両脇には立派な店が軒を重ねてみっちりと詰まっている。

 しばらく進み、右に折れ、木戸を潜り、さらに小道に入る。


「こっちだ」


 物珍しくてきょろきょろしてしまうお照を千太郎は手招きした。

 小さな間口の店裏のようだ。


 千太郎は勝手口を開けて「女将さん、女将さん」と大声で呼ぶ。

 返事はない。


「ち、出かけてるのか」


 千太郎は、仲之町に戻って女将さんが帰ってくるのを待とうと言う。

 お照に否やもへったくれもない。注意深く回りを見渡してみると、裏路地には小間物屋や化粧道具屋などの小さな看板が垣間見える。どこからか三味線の音色も漏れ聞こえてくる。


 狭い箱の中にみっちりと人が詰まっている。

 お照が住んでいた裏長屋もみっちりしていたが、ここに比べれば空気はずっとからっとしていた。


「見事な桜並木だろう。あれは実はな」


 仲之町の桜並木は毎年山からとってきて植えるのだと、とっておきの秘密のように、そしてなぜか自慢げに、千太郎は教えてくれた。

 桜が散る頃には取っ払っちまうのだという。


「まあ、桜の季節のたびにそのようなもったいないことを」


「それが吉原というものだ。あ……」


 千太郎が前方になにかを見つけて声をあげた。

 雇い主の女将かと視線の先を追うと桜の木の陰に後ろ向きにたたずむ女がいた。


「ちょっとここで待ってておくれ」


 お照に桜の囲い柵を指さすや、千太郎は吸い寄せられるように女のほうに走っていった。顔見知りの遊女のようだと悟ると、お照は急に疲れを感じて柵に寄り掛かった。


 刻は九つ(正午)あたりか、小腹もすいてきた。ふと空を見上げると、


「あれま、あんなところにきれいな鳥がいる」


 桜の枝にとまった鳥は嘘みたいに作り物めいていた。烏ほどの大きさだ。けして大きくはないその身に、赤に黄色に青に橙、色鮮やかな錦をまとっているようだ。


「なんてきれいなんだろう……」


「異国の鳥よ。お城では珍しい畜生(ちくしょう)を飼うのが流行ってるそうなの。逃げ出してきたんでしょうね」


 こどもの声だ。視線を落とすと、そこには七つ八つくらいの童女がいた。

 いつのまにそこにいたのか、お照は驚いて返答が上擦った。


「つかまえられない、かしら」


「やめときましょう。きっと美味しくない。ああいう派手な色は毒があるかもしれないでしょ。そんなことより」


「はあ」


 お照は童女の返しに戸惑った。

 童女は(くるわ)に住んでいるに違いない。受け答えが実にしっかりとしている。


「ちょいと手伝ってもらえませんか。大事な櫛をお堀に落としてしまって、拾いたいんですけど」


「あら、どこに?」


 千太郎にちらと目をやったが、しばらく戻ってきそうにないと見て取って、お照は童女のお願いに耳を傾けた。


「まっすぐ奥へいったとこ。なくしたら怒られる。花魁にいただいた白鼈甲(しろべっこう)の櫛なの」


 白鼈甲の櫛は目の玉が飛び出るほど高価だ。


「まあたいへん」


 こんなに小さなこどもが怒られるのは気の毒だ。千太郎をただ待つのも手持ち無沙汰でしかたない。

 お照は童女に案内を請うた。


「こっち」


 童女について歩きながらなにげなく振り返ると、異国の鳥はなにかを察したように羽ばたいた。

 桜の花をいくつかはたき落として高く飛翔し、吉原の大門をこえて春の空に吸い込まれて、消えた。

 おまえも逃げた方がいい。そう告げられた気がした。


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