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百二十四、 カルネアデスの旗

 操船に携わっていない水夫は食堂に集まって食事をとる。

 全員に行き渡ることを確認してからお照は女将の食事に取りかかることにした。

 ふと見ると、水夫たちが暇つぶしで釣った魚がまな板の上に無造作に積まれていた。


「これ、少しもらっていいかな」


「いいぞ。どうせ腐らせて最後は捨てるだけだしな」


 水夫のひとりが答えた。


「どうして。大きな鍋にいれて魚の汁物にすればいいのに」


「食うだけが使い道じゃないんだよ。蛆虫のわいたパンの上に腐った魚を置いとくんだ。すると蛆虫は腐った魚のほうに移る。そうすっと……」


「少しはマシなパンが食える」


 水夫たちはげらげらと笑った。

 どこがマシなもんか。パンが生臭くなるし、蠅は繁殖するし、魚だって美味しく食べてもらえなくては不憫だ。


「なにを作るんだ?」


 お照がなにをするのか、水夫たちは興味津々のようだ。

 ムニエルの手順を思い出していると、足下がぐらりと揺れた。風が吹いたのだ。


「もう火は使うな」


 水夫たちは食べ物を胃に流し込むと持ち場に戻った。

 魚は刺身にすることにした。


「失礼いたします」


 お照が入室したまさにそのとき、フェルセンは嘆いていた。


「なぜ素直になっていただけないのですか」


「わたくしほど素直でまっすぐな人間はほかにおりませんわ。そうでしょう、お照さん」


 女将は反論しつつ、お照を巻き込んだ。


「はい、お食事をお持ちしました。お話し中とは存じ上げず、お邪魔して申し訳ありません」


 そのまま出て行こうとしたお照に、フェルセンが怪訝な顔を向けた。


「なんだこの生魚は。これが食事だとでもいうのか」


 フェルセンは食事を下げるように手振りで命じた。布きれを鼻に当てて、まるで腐ったものを見るような軽侮の眼差しを隠さない。


「おろしたての新鮮な魚です!」


 言葉は通じなくても威勢は伝わるものである。


「フェルセン。お照さんは悪くないわ。日本では生でお魚をいただくのよ」


「あなたは……変わってしまわれた。なんということだ」


 フェルセンは床に片膝をついた。動作のいちいちが大袈裟な男だ。


「変わってなどおりませんわ。わたくしが望むのはブルボン王朝の復権。あなたの妻となってスウェーデンで暮らすのはお断りですわ」


「アントワネットさま、私を愛してくださらないのですか」


 これが修羅場というものか。


「お照、上に行こう」シャルルがお照を甲板に誘った。「放っといていいよ。あれ、出航してからずーっと続いてるから。正直言えば、ぼくはもうどっちでもいい」


「どっちでもいい?」


「ルイ十七世としてフランスを統治するのがお母さまにとっての最善だけど、ヨーロッパを巻き込んだ戦争になるのは明らかだもの。スウェーデンでフェルセンの家族として暮らすのも悪くないと思ってる。そのときはテレーズお姉さまを呼び寄せるよ」


「そうね、それがいいと思う!」


 恐ろしい大砲や鉄砲で戦に明け暮れるよりは、はるかに良い。


「でもお母さまがそう簡単に諦めるとは思えないんだけどね」


 シャルルは溜息を吐いた。眉根に愁いが浮かぶ。こどもにさせていい顔ではない。胸が痛んだ。


「ブルボン王朝ってそんなに大事なの?」


 シャルルは照れ笑いのような笑みを浮かべた。


「歴史の上ではひとつの王朝に過ぎないよ。栄枯盛衰は世の常だもの」


 今度はこどもらしくない難しいことを言う。


「でも女将さんはこだわってるでしょう」


「悔いているからだと思う」


「後悔してるの?」


 シャルルはこくりと頷く。


「自分のせいで革命が起きたと思ってるから。処刑されるほどお父さまが憎まれたのも悔いてる。もっとやりかたがあったのに失敗したって」


「あとからなら、いくらでも言えるものよ」


「そうなんだよ。でも自分が失敗したと素直に認める気はないんだ。実際、お母さまの失敗ではないとぼくも思ってる。もっとずっと前から、ルイ十四世のころから財政はガタガタだったんだもん。それでも庶民は王家を敬ってくれてたんだ。だからブルボン朝を復活させて、ぼくが正しい統治をして、元通りのアンシャンレジームを取り戻したいのだと思う。革命こそが庶民の失敗だったことにしたいのさ」


「……シャルルはどうしたいの?」


「わからない」


 甲板に出る扉を開く。陽射しの明るさに思わず瞼を閉じた。

 船は輝く大海原を滑るように進む。まるで金剛石の首飾りに取り巻かれているような眩しさだった。

 あの首飾りはしごき帯の内側に隠してある。うっかり落とさないように、布の袋に入れて縫い付けてあった。いざとなったら役に立つかもしれないと、お守り代わりに身につけていた。


「危ないからあまり上がってくるなよ」


 お照とシャルルが甲板に上がってきたのを半兵衛は目ざとく見つけた。


「揺れが大きくなったら下に行きます。なにしてるんですか?」


 半兵衛は船長の隣に立って、右手に海図を、左手に方位磁針(コンパス)を持っている。


「半兵衛、海図を読めるの? すごい、教えて」


 シャルルは早速食いついた。


「うーん、もう少し行くと左手に琉球が見えてくるはずなんだが……なーんにも見えねえ。海は広いなあ」


 レオンも加わって、ああでもない、こうでもないと熱心に海図を解いている。

 ウーリ船長はニヤニヤと笑っている。


「三年おれの下につけば、いい船乗りになれるぜ」


「三年生きていられるかが問題だな」


「違いない」


「船長、なんかやって来ますぜ」


 物見の水夫が後方を指した。

 船長は遠眼鏡を覗いた。

 振り返ると、水平線のあたりに小さな点が見えた。


「見たことがない船だな。旗がない」


「砲門が見えません、てことは……」


「交易船か、よーし」


 船長は首を左右に傾げた。グキグキと小気味いい音が鳴る。

 この船には砲門はもちろん大砲もあるが、尋常な交易船にはついてないものなのだろうか。近づいてくる船はカルネアデス号と大差ないほど大きく見える。


「旗を揚げろ、おれたちの旗を」


 空飛ぶ魚を描いたフェルセンの旗はするすると引き下げられ、代わりに揚がった旗には髑髏が黒く染め抜かれていた。


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