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百二十三、 船長の命令は絶対

 お照は船内の厨房に向かった。

 虫のわいた硬いパンが配られるくらいだからろくなもんじゃないと思っていたが、意外にもパン焼き釜があった。汁物を温める西洋のへっついもある。

 食事係はいるにはいるのだが、火事を恐れて火を使った調理を避けるように船長に命じられているらしい。風がまったく吹かないで往生しているときだけ使用許可がおりるらしい。


「風待ちのときは彼らは何をしているの」


「泳いだり、釣りしたり。あとは博打かな」


 レオンに通訳してもらった食事係の答えに、不吉な予感を覚えて、お照はレオンに念押しした。


「博打のことは女将さんには内緒でお願いしますね」


 正午になるや、風待ちになった。大空には雲ひとつない。潮流からも離れているとかで、船はぴたりと動かなくなった。さっそく船長室に許可をもらいに行った。


「気楽なもんだな」


 風待ちでイライラしているのだろうか、船長は丸窓から外を覗いていた。

 外からは暇つぶしで泳いでいる水夫の水音が聞こえてくる。


「ウーリ船長も泳いできてはいかがですか。気分転換に」


「……このさいだから教えといてやるが、おれは船長なんだ」


「知ってますけど」


「船長というのはこの船で一番偉いんだ。下っ端連中にまじって裸で泳いだりなどできるか」


「そういうもんなんですか」


「あのですねえ」


 レオンが戸惑いつつお照に説明してくれたのは、船上では「船長は絶対」という掟だった。船一隻は一国に匹敵し、船長は将軍のようなもの。乗船客が王さまだろうが船長の命令には従わねばならない。船長というのはかくも至高であり、誇り高い生き物なのだという。


 どうやらお照の態度が不遜すぎたようだ。言葉遣いをあらため──とはいってもレオンがいい塩梅で訳してくれたわけだが、上目遣いでお願いしてお願いしてお願いしてお願いしてみたら、ようやく「勝手にしろ」という言質が取れた。お照の執拗さが勝ったのだ。


 野菜の汁物を作り、パンを焼いた。生地を寝かせる時間がなかったので、ふっくらとはいかなかったが、焼きたては格別にいい香りがする。


 船長室に食事を運んだ。お照を視界に入れるや、不機嫌そうに顔をしかめる。しかし一匙口にすると「うむ」とうなづく。


「食事係に任命する」


「は?」


「船長の命令は絶対」


 レオンが耳元で囁く。逆らうと海に落とされるかもしれないと付け加える。


「レオンも手伝ってくれる?」


「もちろんです」


 船には五十人近い人間が乗っている。平常は保存食料を頼ればいいとはいえ、なかなかの重労働になるだろう。

 半兵衛とレオンに手伝ってもらい、船倉に食事を運んだ。一寸の高さしかない小窓にパンを差し入れるとき、白蓮教徒の姿が見えた。


「あまり騒がないようにしてください」


 船長が船長たる威厳を示すために幾人かを海に投げ入れかねないのだ。白蓮教徒に頼むのはおかしなことだと思うが忠告せずにはおれなかった。

 パンを受け取っていた教徒がお照に問いかける。


「西方弥勒はご無事か」


「ご無……って、まあ息災ですけど」


「それは重畳」


 彼らの間に安堵が広がっていく気配があった。

 なぜこんなことを訊かれるのか、お照は眉をしかめた。


「あなたたちは女将さんを心配してる立場じゃないのに……。なぜ?」


「我らにはもう西方弥勒さましかいないのだ」


「……そちらにいらっしゃる中で新しい操舵手をお決めになられては……」


「お照、もうかまうな」半兵衛は小窓を閉めた。「強い指導者がいないとなにもできない奴らだ」


「だからって、女将さんにすがるなんて」


 彼らが敬愛する温操舵手を殺したのは女将なのに、敵討ちをするのではなく女将を崇拝しようとする心理がお照には理解できなかった。


「お互い、寧波までの辛抱さ。清国には白蓮教の操舵手はたくさんいるらしいから、すがりつく相手に困ることはないだろう」


 ふと、自分も女将にすがりついているような気がして、お照はかぶりを振った。


「半兵衛さん、うかがってもいいですか」


「なんだい」


「神田祭のとき、半兵衛さんは白蓮教徒を引き連れて家斉さまの前に現れたでしょ。ねずみのチュー吉が活躍して片付いた『あの件』とやらの話になったら家斉さまの機嫌がよくなった。あの件ってなんだったの」


「ああ、そのことか」


「御庭番だから言えないこともあるだろうけど……」


「お照には隠さなくていいな。身内みたいなもんだし」


 半兵衛は顎を搔いた。


「阿芙蓉の畑を焼け。公方さまの密命だ。江戸を出ていた理由はそれだよ」


「阿芙蓉……外国船で持ち込まれたものよね」


「ところが違ったんだ。松平定信さまの抜け荷に混じった阿芙蓉は、とある藩が外国船で持ち込んだ苗を藩内でこっそりと栽培していたものだったんだ。まあどこも藩財政は逼迫してるから、気持ちはわかる」


「わ、わかっちゃいけません!」


「おのれがうっかりと仕入れたものではないと判明して松平さまは安堵した。安堵はしたが国産の阿芙蓉だなんて、これはこれでとんでもない話だ。どの藩の企みかまで松平さまは調べ上げたが、しがらみがあって公方さまでさえ処分できる相手じゃなかった。だったら畑を焼こうってことになってな、おれが派遣されたんだ。畑の場所をつきとめるのはチュー吉が頑張ってくれたよ。見慣れない顔の男が田舎をうろうろしていたら怪しまれるが、ねずみがちょろちょろしていてもだれも気にしないからな。おれが命じられたのは松平さまが職を辞す前に公方さまに約束した後始末だったのさ」


 そういうことだったのか。お照は胸がすく思いだった。

 抜け荷を放置して白河に帰るのは無責任だと松平定信を責めたことを思い出すと小っ恥ずかしくて顔が熱くなる。

 いや、あれは黙っていたほうが悪いのだ。お照のような町娘においそれと話すことはできない事情もあったろう。

 もう二度と会うことはないだろうが、松平定信の律儀さと誠実さは極上々吉だ、と言ってやりたい気分だった。


「嫌われることをなんとも思わないのかしら。強い人ね」


「上に立つ者はいわれのない悪口や憎まれ口を叩かれることには慣れている。お照に鬱憤をぶつけられても気にしないさ」


「わ、わたしは別に……」


 これからは上に立つ者の苦労を慮ろうとあらためて思ったお照だったが、慮るに値しない者が上に立ったらどうしたらいいか、という難題にお照はまもなく直面することになる。


 

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