十、 万寿屋
「バニラがあるともっと香り高く、美味しくなるのだけれど、この国では手に入らないのよ。そうね、まずはお照さんにはこのクレームキャラメルを作れるようになってもらいましょうか。お照さんはたくさん覚えることがあります。ひとつずつ、ジュンバンに覚えていってね」
「ええッ、十分美味しいのに、もっと美味しくなる材料があるのですか。そして覚えるお菓子はたくさんあるんですね。楽しみです」
そこへシャルルがギヤマン瓶を抱えて戻ってきた。中身は牛乳だ。
「お母さま、本当にすみませんでした。二度と間違いは起こしません」
女将はしかとシャルルの目を見つめると、
「本当に反省しているのですか」
「はい」
「わたくしがキョカするまで外出をキンシします」
「はい。あ、ぼくもお手伝いします」
「お菓子作りはお照さんに手伝ってもらいますので、あなたはお部屋でおベンキョーなさい」
「……はい」
「感情をあらわにしてはなりません」
黙って成りゆきを見守ってきたお照だったが、年端もいかぬ童には厳しすぎる。どうしても口を挟まずにはいられない。
「感情をおさえたこどもなど不気味なだけではありませんか。もっと親に甘えていい年頃ですよ。こどもは小さなおとなではありません。シャルルが可哀想です」
「お照さん、牛乳と卵をあわせてください。そのあとはチャコシを使って器に流し込んでね。焦らなくていいわ。こぼさないようにゆっくりと」
女将はお照の言葉は耳に入らなかったふうを装った。踏み込んでほしくない部分なのだろう。
余計なことを口にしてしまったかもしれないと首筋がヒヤリとした。
二階にあがるシャルルの背を見送る。
なんの感情も読み取れず、まるで傀儡師の人形のようだ。気の毒に。
お照は頭を振った。いまは菓子作りに専心しよう。
頬をぱんと叩いて女将の指示手順を頭にたたき込んだ。
「お照さん、疲れたなら休んでいていいわ」
あとは待つだけとなった頃、天窓に吸い込まれていく蒸籠の湯気をぼんやりと目で追っていたお照は女将の声にはっとなった。
「あの、ほかにお手伝いすることはありませんか」
「あら、まだ元気なの」
「はい、元気だけが取り柄ですから」
お照は両の腕を振り上げて拳を握った。ちょっとでも雇ったかいのある奉公人だと思われたかった。
「今日はいろいろなことがあったのだもの。ゆっくりしてよろしいのよ」
女将はにっこりと微笑んだ。とても慈悲深い笑顔だ。
だがシャルルに対する厳しさを思い出すと「では遠慮なく」などと言い出すわけにはいかない。甘い罠に感じられるのだ。
「とことん働きたいんです。疲れるとぐっすり眠れますから。それが気持ちいいんです」
「そう、では」
女将は蓋をしたギヤマンの瓶をお照に手渡した。
シャルルが絞った新鮮な牛乳が入っている。
「これを四半刻、上下に振り続けてください。ウワズミに白い固まりができるまで休んではいけませんよ」
「は、はい」
「わたくしは二階でシャルルのようすを見てきます。誰か来たら呼んでください」
「はい」
お照は振った。上下に振り続けた。
意味はわからずとも言われたことを忠実に守ることが肝要だと自分に言い聞かせ、腕がしびれて感覚がなくなったので全身の筋肉を使って、ともかく懸命に振った。
息が上がって苦しくなった。ギヤマンをそっと覗く。
小さな固まりがいくつも浮いていた。ひっくり返しても固まりは上がってくる。幾度か振ると固まり同士がくっついて少しずつ大きくなっていく。
「あら、面白いわあ」
「ごめんなさいまし」
玄関の戸板の向こうから声が掛かった。
お照は心張り棒をはずして対応に出た。
「はい、どちらさんで」
「どうも、万寿屋の弥五郎です。女将さんはいなさるかな。クレームキャラメルをいただきに来ましたよ」
弥五郎はずいと中に入ってきた。おかもちを抱えている。お仕着せを見れば高級な料理茶屋の手代だとわかる。
クレームキャラメルを卸している先に違いない。
「あの、女将さんを呼んできますのでちょっと待っててくださいね」
「うちのお菜もお持ちしました。どうぞ」
弥五郎はおかもちから皿にのったお菜を取り出した。
金目鯛の煮付け、山菜の和え物、菜花と土筆の麹漬け、桜海老の揚げ物、小豆ご飯のお櫃などを次々と上がり框に並べる。
「お嬢ちゃんは新しい女中さんかな。手に持ってるのはブール(バター)だね。それも譲ってもらえないかな。ブールと塩で白身魚を焼くと風味が増してねえ」
「ちょ、ちょっとお待ちを」
お照は鼠のように階段を駆け上がった。
腰高障子の向こうからシャルルと女将の会話が聞こえる。
「いつになったらお父さまはぼくたちを呼び戻してくれるの」
「お父さまにはお父さまの考えがあるのですよ。いつ呼び戻されてもいいようにしっかりとおベンキョーを続けなさい」
邪魔をして申し訳ないという気持ちで、お照は来客を告げた。
「すぐにまいります」
女将が出てきた。その隙間からそっと中をうかがうとシャルルが難しい顔をして外国語の書物を朗読している。
聞き慣れない言語はまがまがしい呪文のようだった。




