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〈 9 〉

 稲森夏実がピーター・バレイ現代美術館に着いたのは、夕方近くになってからだった。閉館の時間まで1時間あまりある。入場券を買って入ると、ロビーのソファに座っていた新藤梓が顔を上げた。

「あら夏実さん、どうしたの。」

 梓はゆっくり立ち上がった。いつもの柔らかい微笑みの中に、少し疲労が見えたような気がした。

「こんにちは、もう一度鎌ヶ谷先生の作品が見たくなったんです。梓さん、少しお疲れじゃないてすか。」

「ええ、なんだか体調が良くなくて。最近忙しい日が続いたし、鎌ヶ谷先生のあんなこともあったし。今日は仕事一段落したから案内するわ。」

 梓と夏実は美術館内を見てまわった。いつかのように梓は簡単な説明をしてくれながら、夏実を案内した。以前とはまた違う観点からの解説をしてくれた。

 鎌ヶ谷吾朗のコーナーの奥の壁面に、ひときわ目を引く等身大の抽象画がある。その特徴である水の流れるようなタッチの中に浮かび上がっているのは、影のような人間の全身像だろうか。

 梓はその絵の前に立ち止まる。

「夏実さんには見えるわよね。これは女性の姿。そしてそのからだに何かが絡みついている。」

「何かしら。ロープのようなもの。あっ、ヘビね。」

「そう、大きなヘビが絡みついた女性。これが鎌ヶ谷先生の一番新しい絵画作品よ。」

 夏実は吸い付けられるようにその絵の前に立った。金色のヘビが鎌首をもたげて、女性の首筋に噛みつこうとしているように見えた。

 夏実を呼ぶ声がする。振り向くと、小澄孝之が展示室の入口に立っていた。梓も振り返って笑顔を見せた。

「あら、小澄さんも。お二人とも今日は仕事お休みなのかしら。」

「そうなんです。新藤さんもいらっしゃって、ちょうど良かった。」

 孝之はゆっくりと近づいてきた。

「今日は夏実と動物園に行ってたんです。」

「動物園デート?仲が良いこと。」

 笑い掛けた梓に、孝之はかすかな笑みを返した。

「夏実が昨日、夢を見たんです。起こった事件の解決を暗示する夢を、夏実が見ることがあるのを新藤さんはご存知ですよね。」

 梓は目を丸くして、

「ええ、夏実さんに聞いたことがある。その夢を見たという事?どんな内容だったの。」

「夏実から話してあげてくれるかな。」

 孝之はそう言って夏実を見た。夏実は少し怪訝そうな顔をしながらうなずいて、夢の内容を梓に話した。

 梓は興味深そうに耳を傾けていたが、夏実が話し終えると、首を捻ってうなり声を上げた。

「うーん、話自体は絵本みたいでわかりやすいけど。でもそれが何を表しているかは難しいわね。そしてそれが表しているものは何についてなのか。」

「それが何についての夢なのかは分かります。ぼく達のそばで最近起こった大きな出来事。それはもちろん、鎌ヶ谷先生の死です。」

「先生の死・・」

 梓はささやくようにに小さくつぶやく。

「そうです。先生の死についての重要な暗示が、夢の中にある。ぼくはそれについて、ある仮説を立てました。」

「仮説?それは何なの。」

「それをお話しする前に、新藤さん、あなたの作品をもう一度見てみたいんです。あなたの撮った山岳写真を。」

 訝しげな目で梓は孝之を見た。

「いいわよ。それにどんな意味があるのか分からないけど。どうぞ、こちらへ。」

 梓の作品を展示している小部屋に三人は入っていった。孝之は壁にかかった山岳写真を順番に見て回りだした。

 とある作品の前で孝之は足を止めて、自問するかのようにぽつりと言った。

「鎌ヶ谷先生の死は、本当に自殺だったんでしょうか。」

「そういう結論になったと思うけど。」

 抑揚のない声で梓が言う。

「この前、いろいろ話しをして、自殺としか考えられないということになったはず。」

「自ら選ぶ死には理由が無くてはならない。それがたとえ発作的なものであったとしても。」

 孝之は写真の方を向いたまま話を続ける。 

「鎌ヶ谷先生のことを誰よりも知る新藤さんでも、その理由は分からないと言った。姫野さんの言う芸術上の疑問についても、新藤さんには理解できたはずです。」

 梓は黙って孝之の横顔を見ている。

「昨日のみんなの会合の時、新藤さんが鎌ヶ谷先生の自殺以外の可能性のほとんどを否定していくことに、少しの違和感を感じていました。」

「でも、小澄さん、現場の状況は確かに自殺としか考えられないものだったじゃない。」

 夏実が口をはさむ。

「そう。でも今日夏実の夢の話を聞き、動物園へ行って木から降りるヘビを見た時、ある可能性に思い至ったんだ。」

 孝之は写真を見つめたままだ。

「それで、それを確かめるために少し調べ物をし、姫野さんに電話して、ある事を確認しました。あの夜、新藤さんと姫野さんが吊るされた鎌ヶ谷先生を目にした時の事です。鎌ヶ谷先生を見て、新藤さんは姫野さんに木から降ろすように頼み、自身は救急車を呼びに行った。そうですよね。」

「そうだったっけ。それがどうしたの。」

「あの現場を見て、何よりもまず、鎌ヶ谷先生を木から降ろさなければならないとは思わなかったんですか。一刻も早く手当てをする事をなぜ考えなかったんですか。一人であの木から先生のからだを降ろすことが、いかに大変であるかも分かっていたはずです。それなのに新藤さん、あなたは姫野さんに先生をまかせ、救急車を呼びに行った。」

 孝之は梓の方に向き直った。

「新藤さん、あなたは知っていたのではないですか。鎌ヶ谷先生が助からないことを。もう、とっくに死んでしまっていることを。」

「えっ。」

 夏実は驚いて孝之を見る。

「小澄さん、それはいったいどういう事なの。」

「新藤さんが鎌ヶ谷先生を殺し、あの木に吊るしたからではないんですか。」

 梓の目が強く、孝之の視線を押し返した。

「わたしが鎌ヶ谷先生を、なぜ殺さなければならないの。どうやってそれが出来たたというの。」

「なぜだかはわからない。でも、どうやってという事については・・・」

 孝之は壁の写真に向き直った。

「この写真の山はマッターホルンですよね。有名な美しい山ですけれど、見る方向によってその形が全然変わる。この作品はよくあるポピュラーなものでは無い。独特のアングルからのもの。一見するとマッターホルンに見えないくらい。」

「わたしはまだ誰も知らない、わたしだけが初めて捉えた山の表情にこだわっているのよ。」

「誰も見たことのないアングルから撮影するためには、誰も行ったことの無い場所へ行く必要がある。それは危険をともなうこともあるでしょう。」

「そのとおり。そのためには多少の危険はいとわない。」

「険しい岩場をよじ登ったりもするんでしょう。」

「もちろん。それが必要であれば。」

「夏実の夢に出てきた動物たちに共通するもの、それはその動物たちがみんな木登り、崖登りが上手という点です。」

 梓は吹き出した。おかしそうに笑いながら、

「だから、わたしが先生を殺したというの。飛躍しすぎだわ。ばかばかしい。」

「山行のために何十キロという荷物を担いで、長い距離を歩いたりする。梓さんにとっては鎌ヶ谷先生を担ぎ、その靴を履いて砂の上を歩き、あの木まで運ぶことなど簡単だったでしょう。」

「待って小澄さん。」

 夏実が、孝之の話をさえぎる。

「そうやって運べたとしても、どうやって足跡をつけずに砂の外に出られるの。」

 孝之は夏実の方にからだを向けて、天井を指さした。

「あの作品には天井近くに格子が作られている。重量のある三日月オブジェを何個も吊るせるだけの強度がある。新藤さん、あなたは登山用の縄梯子を持ってますよね。」

 梓は黙ったまま静かにうなずいた。孝之は言葉を続ける。

「ロッククライミング、特にオーバーハングのあるような難易度の高い岩場を登るために、専用の縄梯子は必需品です。これを二つとカラビナを使えば、あの天井の格子に引っ掛けながら足跡を残さずに砂の外へ出ることができます。」

「でも、小澄さんそれだけじゃない。」 

 夏実が急いで口をはさむ。

「梓さんが鎌ヶ谷先生をあの木に吊るすのは難しい。あの高さまで吊り上げるのは、女性の力では無理よ。」

「夏実の夢に出てきたシーソーの話。あれは梃子を使った倍力システムを表している。小学校の理科の問題だけど、小さな力を大きな力に変えるのは、この梃子の原理と滑車を使ったものがある。登山で荷上げに、この滑車のシステムを使うことがある。2個の滑車を上手く使えば、3倍の力が発揮できる。天井に滑車を固定し、もう一つの動滑車を使ってロープを引けば、60キロの物体でも20キロの力で持ち上げることができる。ぼくは動物園で天井から降りてくるヘビを見て、この仕組みに思い当たった。新藤さんはこの仕組みをご存知ですよね。」

「もちろん。」

 梓は短く答える。夏実は息を詰めて孝之と梓の顔を交互に見た。

「無理よ、そんなはずはない。あの夜、鎌ヶ谷先生の手伝いの後で姫野さんのいた事務所に梓さんがあらわれた時、姫野さんは先生が一人でいる姿を見たと言っていた。それから梓さんと姫野さんはずっと事務所で二人でいたんでしょ。」

「それについても姫野さんに確認したよ。あの事務所の入口からは作品の中央の木のオブジェは見えない。三日月オブジェが少し確認できるだけだ。天井から吊られたオブジェは角度をつけて大きく揺らしてやると、ぶつかり合って、しばらくはコツコツと音を立て続けるんじゃないだろうか。姫野さんはその音を聞き、新藤さんの言葉を信じて、自分も鎌ヶ谷先生の姿を見たように暗示をかけられたんだ。」

「そんな。」

 夏実の口調が切羽詰まったものになる。

「でも、でも首吊りは自殺に見せかけてもすぐわかるって刑事さんも言ってたわ。意識のない状態で首を吊り上げたりしない限り。何の痕跡も残さずに、意識を失わせることなんか出来ない。」

「ここからは想像だけれど、世界の山々を訪れるために、治安の悪さを気にせざるを得ない場面もある。そのために護身術を身につけていると、新藤さんは言ってましたよね。ある護身術には一撃で人間を気絶させる方法があるということを、聞いたことがあります。」 

「本当に想像、憶測ね。」

 梓は薄く笑みを浮かべる。

「証拠も何も無い。」

「証拠がなくて、ぼくの考えが間違っていてほしいと思っています、本当に。新藤さん、あなたの持っている縄梯子とカラビナを警察に提出してもらって構いませんか。」

「縄梯子・・・」 

「あの天井の格子に引っ掛かけたなら、縄梯子やカラビナにはそれを使った証拠が残っているはずです。鎌ヶ谷先生が作った世界に二つとない色、鎌ヶ谷ブルーが。」

「うっ。」

 絶息したように呻いたのは夏実の方だ。梓は氷のような目で孝之を見る。孝之はふと視線を外して、

「体重を載せるほど強い力で擦り付けられた顔料は簡単には落ちません。拭い落としたとしても、鑑識で調べれば痕跡は見つかるはずです。」 

 梓の顔には血の気が無い。かすかに息を弾ませている。

 梓はしばらくそのまま黙っていたが、突然ツカツカと孝之に歩み寄った。孝之の身体が思わず気圧されたように硬直する。梓の顔が目の前にあった。

「わたしの習った護身術は『カパプ』という、軍隊でも使うものよ。この距離まで警戒されずに近づければ、一撃で相手を無力化できる技が使える。右手で相手の首の横、左手で反対側の側頭部を同時に打つ。どちらも人間の鍛えようのない急所。上手くすれば相手は気絶する。下手をすれば死ぬ。」

 梓はそう言って、両手を構える。孝之は思わず後ずさる。梓はくっくっと笑って、手を下ろした。くるりと背中を向けるとゆっくりと歩きだした。

「二人とも、こちらへどうぞ。話したいことがある。」





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