〈 6 〉
2日後の夜、新藤梓と姫野俊平、それに小澄孝之、稲森夏実の4人はS百貨店からほど近い、雑居ビル地下の喫茶店、「ボトムス」で顔を合わせた。
地下フロアの半分を占めた広いスペースのほとんどが4人掛けの席で、それが半個室状に仕切られている。照明は最小限に抑えられ、ソファは沈みこむように柔らかい。ゆっくりと流れる音楽は少し調子の外れたハワイアンだ。思わず寝入ってしまいそうな心を覚ますように、出されるコーヒーは強烈な苦さだ。この場所は俊平のお気に入りだった。
「ギャラリーはいつまで閉鎖されるのかな。」
孝之の問いに、俊平は首を横に振って、
「わからないんですよ。警察からの許可がまだおりなくて。」
「仕方ないわよね。こんな事が起こってしまったから。」
梓も困惑気味の表情で、
「作品の事があるから、わたしは許可を貰って毎日入ってるけど。空調もしっかり入れてもらってる。」
ギャラリーに貸し出しているのは美術館の貴重なコレクションだ。梓としては作品の状態は常に気にしないといけない。特にこの時期の大敵はカビだ。
「でも現場を見るたび、あの時の光景が思い出されてしまう。」
梓は目を伏せて黙り込む。束の間の重い沈黙を破ったのは孝之だ。
「現場が閉鎖されたままということは、警察は事件性を疑っているんだろうか。」
3人の目が夏実に集まる。
夏実の父は県警の敏腕警視だ。その部下の刑事達の中の何人かは夏実は良く知っている。過去の事件で、夏実は懇意にしている刑事から少なからず情報を得ていた事を、孝之は覚えている。どうやら刑事の弱いところを押さえているらしい。
自分たちの職場で起こった今回の変事についても、何らかの情報を掴んでいるはずだ。梓と俊平が集まったのも、夏実から警察の見解を少しでも聞きたかったからだ。そこのところは夏実もよくわかっている。
夏実はコーヒーの苦さに少し顔をしかめてから、咳払いして話しだした。
「事件性は薄いと考えているようです、多分。」
多分と付け加えたが、情報の出どころから、信憑性は高いだろうと孝之は思う。
夏実は続ける。
「まず一つ目は遺体の状況。たとえば絞殺してから、自殺に見せかけて吊るしたような場合、検死でそれはすぐに見破られてしまうらしいんです。首を絞められた跡とか、顔の鬱血状態とかで。」
「それは聞いたことがあるわ。検死ではそういう他殺を疑うようなものは無かったのね。」
梓の問いに夏実はうなずく。
「そうらしいです。自分で首を吊ったことを疑うような所見はなかったようです。」
「意識の無い状態で首にロープを掛けて吊るせば、自殺を装うこともできそうですが。」
俊平があごをさすって考えながら言った。梓が首をひねる。
「どうやって意識を失わせるの。」
「たとえば睡眠薬を飲ませたり、酒で泥酔させたりすれば。」
「それなら検死でわかっちゃうはず。そんな痕跡は無かったんでしょ。」
梓はそう言って首を振る。
「それに吊るすと言うけど、人ひとりを簡単に吊るし上げられるものじゃないわ。鎌ヶ谷先生は小柄だけれど、60キロ近い体重はあったはず。」
「そう言われればそうですよね。」
俊平は同意する。
「先生をあの木のオブジェから下ろすことさえ、一人では大変な作業でした。」
話が少し途切れたのを待って、夏実は口を開いた。
「それから二つ目は現場に残された足跡。」
夏実は指を2本立てた。
「床の白砂の上の足跡。中央の木のオブジェに向かう片道の足跡が一本、これは鎌ヶ谷先生のものですよね。足跡は先生の靴の形と一致しました。それからその横に姫野さんの足跡が往復で残ってます。先生を木から降ろして運んた時のものでしょう。それ以外は無かったんです。」
「砂だから足跡はあとから消すことは簡単じゃないのかな。砂の模様は描き直せばいいし。」
孝之が口を挟むが、梓は首を振って、
「床の白砂は模様を描いたあと、風で崩れないように固化材をスプレーして固めるの。足跡が残る程度の硬さのものだけど、それが固まるのに一晩くらいはかかる。砂を描き直した形跡は一切無かった。」
俊平も同意する。
「ぼくも警察に聞かれたけど、そういう跡は無かったですね。」
「会場の閉店後、天井から吊るされたオブジェを調整したりするのに砂の中に立ち入ったりしなかったんですか。」
孝之が梓に聞く。
「三日月オブジェの調整は、砂の床の外から糸でできるようになってるの。砂の模様の手直しを先生は最後に考えると言ってたけれど、結局それをする事は無かったということね。」
「それだけじゃないです。」
夏実が口をはさむ。
「もし第三者が鎌ヶ谷先生を自殺に見せかけるために、意識を失わせたその身体を担ぎ、先生の靴を履いて砂の上に足跡を残したという工作をしたとしても、先生のからだを吊るしたあと、どうやって砂の外に出たのかしら。足跡を残さずに。」
「天井に三日月オブジェを吊るすための青い造作物があったよね。」
天井を指差しながら、孝之が言う。
「格子みたいになってたと思うけど、あれにぶら下がって移動できないかな。雲梯を伝っていくように。」
梓も天井を見上げるようにして少し思案した。
「あの天井の格子の間隔は60センチ以上あったと思う。あれを伝っていくような器用な真似ができるかしら。」
「不可能とは言えないけど、難しそうですね。」
孝之も難しい顔でうなずく。
「そうすると、やっぱり鎌ヶ谷先生の死に第三者が関わっているとは考えにくいという結論になるかな。」
夏実は手のひらで孝之を制するような仕草をして、
「ただ、疑問点が無い訳ではないのよ。」
「動機のことだよね。」
「そう、鎌ヶ谷先生が自殺をしたとして、その動機がわからない。」
「遺書がどこかで見つかるかも知れないですよ。」
俊平がそう口をはさむ。
「警察も探しているけど、見つかって無いんですって。今のところ。」
「遺書だけの問題ではないわね。」
梓が言う。
「今、先生が死ななければならない理由がわからない。先生の作品は今、評価がすごく高まっている。熱狂的な支持者は前からいたけれど、高額な値段がつき始めたのは最近よ。作品によっては、数百万から数千万円で取引されている。」
「そんなにですか。」
孝之は目を丸くする。
「ぼくにはよくわからないんてすが、芸術、特に現代アートの価値ってどうやって決まるんですか。」
「批評家が決めるのよ。」
梓がさらりと答える。
「有名な批評家たちに認められれば価値が上がり、作品の取引価格も上がる。」
「世の中に広く認められてから、という順序じゃないんですか。」
「現代アートを理解し、その価値を判断することは、世の中の普通の人には難しいでしょう。カンヴァスに絵の具をまき散らしただけのような抽象表現なんて特にね。」
「たとえば、ジャクソン・ポロックですね。」
俊平の言葉に梓はうなずく。
「そう、ポロックの作品は一般人には子どもの落書きにしか見えない。でも当時有名な批評家のグリーンバーグがそれに解釈を与え絶賛したことで、20世紀最高のアーティストという事になった。」
「鎌ヶ谷先生もそうだったんですか。」
「そのとおり。鎌ヶ谷先生の作品は抽象と具象の狭間を表現しているものが多く、それが中途半端という批判があった。それを批評家たちが抽象の原点として意味付け、高く評価した。それによって一気に作品の価値が上がったのよ。」
「なんだか恣意的なものが入り込む余地がありそうですけど。」
孝之が言う。
「目を付けた才能を売り出すための戦略とされることも確かに無いことはないわ。でも、あなたがたお得意のファッションの世界でも、流行は自然発生するんではなくて、恣意的に作られるものが多いでしょう。パリコレなんてまさにそう。」
「たしかに。」
孝之はうなずく。
「いずれにせよ、鎌ヶ谷先生の前途は洋々だった。命を断つ理由が見当たらないってことですね。」
「そうなの。実際あの時、閉店後の手直しの時もすごく意欲的に作品に向かい合っていた。だからあの後そんなことをするなんて・・」
「あの時、新藤さんが事務所に来た時も一人で作業続けてましたものね。」
俊平も暗い目をして言った。梓は小さなため息をついた。
「そうね。人間の心の深淵なんて、誰にもわからないことかも知れない。」
BGMがいつの間にか変わっている。
ピアノとギターが気だるいアンサンブルを奏でている。
「ぼくは別の意味で鎌ヶ谷先生の死に、違和感を感じてるんです。」
しばらく黙っていた俊平が口を開く。
「先生の作品は一見して分かりやすい部分と、解釈に苦しむ箇所とが同居してるのが特徴です。平面的な絵画も、インスタレーションのような立体作品もそうです。今回の『葬送曲のエクリチュール』でも、もちろんそうです。全体的には死へのイメージに間違いない。床の枯山水は三途の川、ゆらゆら揺れる三日月オブジェは魂、金色は黄泉の国の色です。しかしその中心には得体の知れない黒いものが掛けられている。獣の死体のようにも見えるオブジェです。成仏仕切れなかった魂の骸なのかもしれない。鑑賞者にとって多様な解釈を迫られる、それが鎌ヶ谷アートの真骨頂です。」
俊平は少しコーヒーに口をつけてから続ける。
「先生が吊るされた現場を見て、ぼくは先生が自分の死でもって、あのアート作品を完成させようとしたのかもしれないと、一瞬思いました。でもそれはおかしいと思い直しました。いろんな解釈ができるのが、先生の作品なんです。あの作品の中心に自分の死という、ある意味とても分かりやすいものを持ってくるのは、先生の芸術の完成形としては違和感を感じてしまいます。先生の美学に反するというか・・」
「うーん、なんだか分かるような、分からないような。」
孝之はそう言って顔をしかめる。
「姫野さんの言う事も分かるような気がするけど、先生のあの作品の真意がどこにあって、さらに完成したものにしようとしてたか、わたしには確信がもてない。」
梓も頬にてを当てて考えながら、言葉をつなぐ。
「ただ、先生はあの作品に今までにない程、強い思いを抱いていたことは確か。作品が自らの最期を飾るにふさわしいと考えていたとしても、不思議でないような気もする。『エクリチュール』とは『書法』という意味がある。あらゆる魂を黄泉の国へ導くための道標。だからこそ、わかりやすく無ければならなかったのかも・・・」
梓は言葉を切って、ゆっくりとかぶりを振った。
「でも、本当のところは誰にもわからない。」
沈黙が流れる。皆がそれぞれの考えを巡らせているようだ。
夏実がぽつりとつぶやく。
「わたしの夢はこのことを表していたのかな。」
「そうかも知れないわね。現代アートに関わる夢。そして待ち受けていた死。」
梓も同意する。
「夏実さんの夢で気になったのはその後半。荒川修作、ダミアン・ハースト、アブラモヴィッチ、彼らは皆『死』ということをメインのテーマとして扱っている。」
「そうなんですね。鎌ヶ谷先生の死を予期していたという事・・・」
「そういう何か不吉な予感をどこかで夏実さんは感じていたのかもしれない。夏実さんの感性はとても鋭いものがあるから。」
夏実は暗然とした思いで目を閉じる。誰かの死を予期したのなら、それを防ぐ手立てをなぜ教えてくれないのか。夏実は夢を呪いたくなった。
一同は顔を見合わせて黙り込む。BGMが明るさを取り戻したようなフルートの音色になる。夏実は少しだけ救われた気になった。
その夜、夏実はまた夢を見た。