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〈 5 〉

 鎌ヶ谷吾朗アート展の初日の閉店後。午後9時をまわって、S百貨店9階ギャラリー横の美術工芸課事務所のドアがノックされた。

「どうぞ。」 

 事務所に一人残っていた姫野俊平が顔を上げた。閉店後の事務作業を終え、翌月の販売計画の詰めに頭を捻ってパソコンをのぞき込んでいたのだ。

「姫野さん、お疲れさま。」

 ピーター・バレイ美術館の学芸員、新藤梓が少し疲れた顔を覗かせた。

 梓はこのアート展の準備で今朝までギャラリーに詰めていたが、昼間は一旦美術館に戻り、夕方から再度会場を訪れた。大事な展示品のチェックとともに、鎌ヶ谷吾朗が、インスタレーション作品の修正作業を行うのを手伝うためだ。天井から吊るしたオブジェの動き具合や、枯山水模様の床の白砂については毎日修正・補修が必要だ。鎌ヶ谷は細部にこだわって修正をおこなう。作品の設置には人手がいるが、毎日の修正作業には他人の手が入ることを彼は極力嫌う。その手伝いは新藤梓だけが許され、それ以外の人間は現場から排除された。

「修正作業は終わりましたか。」

俊平は立ち上がってドアから外をうかがうように見た。ドアからはアート展の会場の奥のほうまで見通せる。金色のオブジェがわずかに揺れているようだ。

「まだもう少しかかりそうだけど、わたしの仕事はここまでよ。あとは先生一人で作業中よ、ほら。」

 梓が後方を振り返って言った。かすかな金属音が聞こえてくる。

「あとは微調整だけど、先生は他人の目をすごく気にするから、静かにしておかないとね。」

 そう言って梓はドアを閉めた。

「新藤さん、お疲れでしょう。コーヒーでも飲みますか。」

 自分の前の椅子を勧めながら俊平は言った。冷蔵庫からパックのコーヒーを取り出して氷と一緒に2つのグラスに注ぐ。

「ありがとう、姫野さん。」

 梓はコーヒーをぐいっと飲んで、大きく息をついた。

「とりあえず、初日が無事終わってほっとしたわ。」 

「本当ですね。先生とうちの店長とのやりとりは少しヒヤヒヤしましたけどね。」

 俊平は鎌ヶ谷と坂木との顛末を話した。梓はフッと笑いを漏らした。

「先生らしいわね、それは。」

「そうですか。」

「荒川修作ってアーティストは知ってるわよね。鎌ヶ谷先生がとても尊敬している人よ。彼は初対面の三島由紀夫から挨拶代わりに貰ったその著作を、少し開いて見ただけで、すぐに窓から投げ捨てたそうよ。くだらないって。」

「そのエピソードは知ってます。激怒した三島を、同行していた岡本太郎が必死でなだめたらしいですね。たしかアメリカで暮らしてた時も、ホブ・ディランのアルバムを本人の目の前でゴミ箱に捨てたとか。」

「よくご存知ね。そうよ、だから店長さんもそのまま自分の意見を押し通せばよかったのに。」

 俊平は苦笑いした。

「なるほど。天才との付き合いは常識でははかれませんね。」

「そうね。でも店長さんの思ったこともごもっともで、現代アートの中には、わたしでも初見では何が何かわからないものもたくさんあるわ。」

「新藤さんにわからないなら、ぼくら素人にはちんぷんかんぷんでも仕方ないですね。」

「わからないものはわからないで良いのよ。学芸員としては、それで済ませる訳にはいかないんだけど。」

「わからないものは理解したいと思いますけど。」

「今はスマホで何でもすぐ検索して答えを探しあてられる。だからわからないままで済ませられない気持ちになりがちね。でも答えがなくても良い。先入観なく作品に向かい合って、自分に意識を向ける機会になればいい。少しでも心が揺さぶられれば、その作品の役割は果たされている。現代アートは今ある概念を壊し、今を生きているという自覚を高めるためのものと、わたしは考えでいる。」

「そういうものですか。」

 二人はしばらく、現代アートの鑑賞についての話に花を咲かせた。

「新藤さんは今回の鎌ヶ谷展についてどう思いますか。あのインスタレーションはどう解釈するのですか。」

 少し改まった口調になって、俊平が聞く。

「『葬送曲のエクリチュール』ね。」

 梓は少し考えて、

「題名で示されているように、鎌ヶ谷先生が重要なテーマにしている『死』の世界へいざなうものだと思う。砂に描かれた模様は水の流れを連想させるけど、三途の川を表しているのかも知れない。吊されたオブジェは魂の象徴。金色も先生得意のモチーフだけど、例えば仏教では金色は極楽浄土をあらわす色よ。」

「なるほど。」

「でも、『エクリチュール』だから、完成されたものでは無いのかも・・」

 梓はそこでふと言葉を切って耳をそばだてた。

「何の音かしら。」

「えっ、何か聞こえましたか。」

 俊平はあたりを見回す。梓は立ち上がって、ギャラリーに通じるドアを見つめた。

「こっちの方から聞こえたような気がする。何かが倒れたような。」

 梓はドアを開けて、ゆっくりとギャラリーに入っていく。俊平がすぐその後に続く。

 鎌ヶ谷の作品がずらりと掛けられた通路の突き当たりにメイン会場がある。通路は薄暗いが、メインの部屋には照明がついたままだ。二人は通路を抜けてメインの部屋に入った。インスタレーションの作品の前に鎌ヶ谷の姿が見えない。

「鎌ヶ谷先生。」

 梓が呼ぶが、返事は無い。

「うわっ!」

 突然、部屋の中を見回していた俊平が悲鳴を上げて尻もちをついた。

「どうしたの、姫野さん。」

 梓が振り返って、俊平に駆け寄る。俊平は震える手を上げて、部屋の中央を指し示した。

「ああっ。」

 梓も大きな声を出した。

 床に広がる枯山水の白砂。天井の青い格子から吊られ、金色にきらめいている三日月オブジェ。中央に天井に突き刺さるように伸びる木のオブジェ。その中ほどにあるフックに掛けられていた黒い獣のようなものは木の根元に転がり、代わりに鎌ヶ谷吾朗が吊り下げられていた。

 フックに掛けられたロープが鎌ヶ谷の首に深く食い込んでいる。頭はがっくりと深く前に倒れ、力無く開いた口から舌がだらりと垂れていた。宙に浮いた足の下には銀色の脚立が横倒しになっている。

 梓は震えている俊平を無理やり立たせて背中を押した。

「姫野さん、先生を降ろしてあげて!わたしは救急車を呼んでくる。」

 梓の叫ぶ声が響きわたった。


 救急隊が到着した時、鎌ヶ谷のからだはグレーの絨毯の上に横たえられ、梓がその上にかがみ込んで必死に心臓マッサージをおこなっていた。唇を噛み締め、汗と涙が頬を伝って流れ落ちている。

 俊平はその横で息を切らしてへたり込んでいた。二人で交替して胸部圧迫をおこなったが、鎌ヶ谷のからだはピクリとも動かない。きつく巻きついたロープは外されていたが、首のまわりには深くロープの跡が残っている。表情は全く無く、目はうつろに見開いたままだ。

 俊平は苦労して木のオブジェから鎌ヶ谷のからだを降ろし、そのまま抱えて白砂の外の絨毯まで、三日月のオブジェを、掻き分けて運んで来たのだ。砂の上には中央のオブジェまでの鎌ヶ谷のものと思われる片道の足跡と、俊平の乱れた往復の足跡が残されている。三日月のオブジェはその時もゆっくりと光を反射して揺れていた。

 救急隊員が心臓マッサージを交替した。蘇生措置を見守りながら、俊平が放心したようにつぶやく。

「どうしてこんな事に。まさか先生が首を吊るなんて。」

 梓がどうにか息を整えながら、首を横に振った。

「わからない。そんな気配は全然なかった。」

 懸命の蘇生措置にもかかわらず、鎌ヶ谷が息を吹き返す気配はない。もう手遅れなのだ。ほどなく、その場で鎌ヶ谷吾朗の死亡が確認された。

 しばらくすると警察が到着した。刑事たちは現場の異様な情景に少したじろいだが、すぐに手際よく現場検証と検視を始めた。

 梓と俊平は現場でひと通りの聞き取りを受けた後、入口横の事務所でさらに詳しい聴取があった。特に死の直前に二人きりで作業していた梓は、より詳細に事情を聞かれた。梓は落ち着きを取り戻して、静かに刑事の質問に応対した。二人が解放されたのは深夜になっていた。

 鎌ヶ谷吾朗の遺体は検死解剖にまわされる事になり、ギャラリーはしばらく閉鎖されることになった。

 


 



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