〈 4 〉
翌月、S百貨店で『鎌ヶ谷吾朗アート展』が始まった。ゴールデンウィークが終わり、百貨店のウインドウは盛夏物のコーディネートになっている。
S百貨店9階の催事場では、若手現代アートの絵画作品の展示即売会が開催され、隣接するアートギャラリーで、鎌ヶ谷のアート展が開かれている。
ギャラリーの入り口の受付横には鎌ヶ谷アートを象徴するフローイズムの抽象画の大作が飾られている。人の背丈を越えるカンヴァスに女性の全身像が影のようにおぼろげに浮かび、金色の水の流れがそれに絡みついているようだ。会場の奥に向かう壁面には、鎌ヶ谷の初期の創作から最近の作品まで、具象から抽象への画風の変遷がわかるように展示されている。デッサンの習作も作品の間に差し込まれ、彼の確かなテクニックを窺い知ることが出来るようになっている。
会場一番奥に50坪ほどの小部屋か仕切られていて、濃いグレーの絨毯が敷き詰められている。そこにアート展のメインとなるインスタレーションがある。バレイ美術館の作品よりひと回り小さいが、イメージは共通している。鎌ヶ谷ブルーに塗られた格子状の造作が頭上を覆い、中央部に波の模様の白砂が円形に敷かれている。美術館の作品と異なり、砂から生えた木のようなオブジェはその中央に一箇所だけだ。その代わりに三日月のような形をした金色のオブジェが20個ほど、天井の格子から吊り下げられている。三日月オブジェの大きさと吊られた高さはまちまちだ。ずっしりとした重量を感じさせながら、天井からの光を反射してゆっくりと回転している。ゆるやかに流している風を受けているようだ。中央の木は天井まで伸び、人の背丈を越えたあたりにフックがあり、黒い軟体動物のような物体がかけられている。それは、手足をだらりと伸ばした獣のようにも見えた。
作品の前にサインボードが立っている。解説は無く、控え目な大きさで題名だけが書かれている。
『葬送曲のエクリチュール』
催事の初日は平日ということもあり、混雑するほどの来客は無かったが、メインのインスタレーションの不思議なインパクトに足を止める人は多かった。その部屋の一隅に一人の男が座っている。会場内に配置された監視員と同じ粗末なパイプ椅子に腰を下ろしている。モジャモジャの総髪を無造作に後ろで束ね、顎から口周りにボリュームのあるカストロ風の髭をたくわえている。灰色のツナギ服は絵の具で所々汚れている。足を投げ出し、腕組みをして目を閉じている。椅子に沈みこむように脱力して、眠りこけているようだ。それが鎌ヶ谷吾朗だった。
鎌ヶ谷を知らない人は、まさかその薄汚れた人物が、著名なこの展示会の作者だとは夢にも思わない。また、彼を知っている人も決して声をかけたりはしない。眠りを妨げられる事を鎌ヶ谷は何より嫌う。不機嫌になった彼は容赦なく相手を罵倒する。相手がどんな権威てあったとしても意に介すことはない。
S百貨店美術工芸課係長の姫野俊平は警備を兼ねてアート展会場内を巡回している。会場入口の入場受付には小澄孝之が応援人員として立っていた。特定の売場に属さないコンシェルジュは、イベントの応援・警備に担ぎ出されることが多い。
「小澄さん、応援恐縮です。お疲れさまです。」
来場者が少し途切れ、手持ち無沙汰にしている孝之に俊平が声をかけた。ややハイトーンの柔らかい声、物腰もゆったりした雰囲気で、お姫様というあだ名を持っている。
「お疲れさま。係長、鎌ヶ谷先生のご機嫌はいかが。」
「よくお休みですよ。いつものことです。幸い、気付いても声を掛ける人はいないですし。」
俊平は美術売場担当だけあって、現代アートにも造詣がある。とりわけ鎌ヶ谷吾朗の大ファンで、近くで展覧会があれば必ず足を運んでいる。鎌ヶ谷本人にも何度も会っている。ただし、声を交わしたことはほとんど無い。今回のアート展の打ち合わせも新藤梓がすべて窓口となった。
孝之は入口から奥に首を巡らせて、
「思ったよりお客様多いね。熱心に作品見てる人も多いみたい。」
「ここは地元ですし、鎌ヶ谷先生の熱烈なファンは多いですよ。ぼくもその一人です。先生の作品は、心の奥底に食い込んでくるような迫力を感じます。」
「ぼくは美術に詳しくないけど、確かに作品に不思議な魅力があるよね。」
「そうですよ。あっ!店長。」
入口にあらわれた人物を見て、俊平は姿勢を正した。S百貨店店長の坂木博志の大柄な姿があった。坂木は小柄な俊平を見下ろして、
「姫野係長、今お客様も少ないようだし、会場内の案内、説明をお願いするよ。」
身体に見合った野太い声で言った。俊平はかしこまってお辞儀する。
「わかりました。店長、こちらへどうぞ。」
俊平は先に立って案内しながら、壁に掛けられた作品を解説していった。孝之もちょうど受付の交代要員が来たので、そのあとを追った。姫野の解説を孝之も聞きたかったのだ。坂木店長は難しい顔をして、首をひねりながら聞いていた。
メイン会場へやって来た。ちょうど来店客が途切れていた。俊平の言葉にも力が入る。
「鎌ヶ谷先生の作品の重要なテーマの一つが『死』です。このテーマの作品で必ず使われる色が金色と青。この作品でもこの色が効果的に使われています。死を暗いもの、静止したものとは捉えずに・・・」
「もういいよ。」
坂木店長は俊平の解説を手を振ってさえぎった。眉をしかめて首を振りながら、
「これが何を言いたいのか、説明されても、さっぱり俺にはわからんよ。こんな物のどこが芸術なんだ。作者の完全な自己満足、一人よがりの産物に俺には見える。こどもが適当に作ったようなものに、もっともらしい理屈をつけて、わかったような顔をして、みんな感心したふりをしてるだけなんじゃないのか。」
俊平は慌てた。店長は気づいていないが、すぐ横のパイプ椅子に鎌ヶ谷本人が座っているのだ。俊平は恐る恐る鎌ヶ谷を見た。
鎌ヶ谷は相変わらず目を閉じたままだったが、その体がゆっくりと震えはじめた。震えはだんだんと大きくなり、その口の端からひきつったような声が漏れ始めた。そこで初めて俊平は気づいた。鎌ヶ谷吾朗は笑っているのだ。
「これは大変愉快だ。」
鎌ヶ谷は目を開いて、おどけたような表情で坂木店長を見た。
「そうだよ、そうこなくちゃ。店長、あんたは見る目があるね。」
そう言って、ゆらりと立ち上がると、薄笑いを浮かべたまま店長に近づいた。
「なんだ、あんたは。」
店長は気味悪そうに顔をしかめて後ずさった。そんなところに作者がいるとは思ってもいなかった。
俊平があわてて二人の間に割って入った。急いで店長に鎌ヶ谷を紹介する。店長は顔色を失くした。
「こ、これは大変失礼しました。」
頭に手をやった店長はしどろもどろになって、
「あなたが鎌ヶ谷先生とは知らず、申し訳ないことを言ってしまいました。」
鎌ヶ谷はそれを聞いた途端、笑いを消した。その表情に明らかに侮蔑の色が浮かぶ。あごを突き出して店長を見上げた。
「なんだ、結局それだけの男か、くだらない。おれも見る目が無いな。」
そう言ってくるりと背を向け、パイプ椅子に座り直した。もとのように目を閉じる。
坂木店長は鼻白んだように鎌ヶ谷を見下ろした。しばらく突き刺すようなまなざしになって鎌ヶ谷を睨んでいたが、やがてあきらめたように、憮然とした足取りで退場していった。
俊平はやれやれといった表情で孝之を見る。孝之も苦笑いを浮かべて肩をすくめた。