〈 3 〉
「ようこそ、ピーター・バレイ美術館へ。夏実さん、お久しぶり。」
新藤梓は柔らかい微笑みを浮かべたまま言った。後ろに束ねた長い黒髪とすらりとしたしなやかな身体を持っている。
「こちらのかたは、夏実さんの彼氏?」
切れ長の涼しい目を孝之に向ける。夏実は顔の前で急いで手を振る。
「そんなんじゃないです。職場の先輩です。」
「あら、何だかとてもお似合いに見えたわ。」
梓と孝之はお互いに自己紹介した。
「さあ、こちらへどうぞ。」
梓は先に立って二人を案内する。
大小の抽象画が壁に並んでいる。部屋の中央にはさまざまな現代アートの立体作品がある。主だった作品に、梓は簡単なコメントを付けてくれるが、それらが何を表しているか、孝之には見当がつかないものがほとんどだ。
夏実は興味深げに一点一点じっくりと見てまわっている。
「夏実さん、あなたが初めてわたしの絵を見て言った言葉が忘れられない。」
夏実の横顔を見る梓の視線は優しい。
「わたしの抽象画を見てあなたは『この人は何故こんなに悲しんでいるのだろう』と言った。」
「わたしにはあの絵がそんなふうに見えたんです。」
「そんな感想を言ったのは、あなたが最初。作者のわたしですら、言われて初めてそんなことに気付いたのよ。」
一体どんな絵だったのだろうと孝之は思う。現代国語に採用された入試問題を、作者自身が解けなかったという笑い話をふと思い出した。解答を見て、作者はこんなことを言いたかったのかと、作者本人が感心したという。
梓は言葉を続ける。
「あの一言がわたしの運命を変えたといってもいい。」
梓が学生時代からのめり込んだ絵画。現実の存在を素材にせず、カンヴァス上の色と線そのものを最終目的として表現した抽象画。だが夏実の一言で、自分の描いたものが、現実から逃れられないことに痛切に気付かされた。
梓は悩んだ末それを肯定的に捉え、いかに現実を切り取るかという方向へ自らの芸術を転換した。梓が選んだのは写真だった。絵筆をカメラに持ち替え、一瞬の感性を焼き付けることに精力を尽くした。
「それで梓さんが選んだのは山の写真だったのね。」
夏実の言葉に梓はうなずく。
「そうよ。こちらへどうぞ。この部屋はすべてわたしの作品を並べさせてもらってる。」
梓は順路から少しはずれた小部屋へ二人を誘った。
小学校の教室くらいのスペースにずらりと写真の展示がある。すべて山の写真だ。日本の山もあるが、ほとんどは海外の山らしい。
「山は見る角度によってものすごく印象が変わる。わたしはまだ誰も見たことがない、その山の表情を探し続けている。誰も聞いたことがない山の一瞬の叫びを捉えたい。」
そう言われてみると、山の写真はひとつひとつが巨大な生き物のように思えてくる。
夏実は写真に顔を近づけて、
「梓さんは、この写真を撮るために毎年海外を飛び回ってらっしゃるのよ。かなり奥地まで一人で行くこともあるんですって。」
一見そんな冒険家には見えないが、梓の身のこなしにはしなやかな中にどことなく力強さが孝之には感じられる。そんな梓に目をやりながら、
「一人旅は危険じゃないですか。悪い奴に狙われたり。」
「さすがにあまり治安の悪いところには行かないけれど、最低限の護身術は身につけてるつもり。」
梓はそう言って軽くこぶしを握ってみせた。
小部屋を出て、順路に戻ってきた一同は美術館のメイン展示室へやってきた。ここに鎌ヶ谷吾朗の作品が多く集めらている。
現代アーティスト 鎌ヶ谷吾朗はこの港町で生まれた。家庭は比較的裕福だったが、幼くして両親と死に別れ、孤独な少年時代を過ごしたという。勉強はできるほうで、医学部に進み大学病院で外科医としてキャリアを積んだ。
優秀な腕を持っていたが、どうしても救えない命がある事に自身の限界を感じ、医者をやめて哲学・宗教にのめり込むようになる。しかし救いの答えは見つからず、芸術による死の表現の追求によって死を乗り越えることを目指すようになる。もともと絵の才能は天才的なものを持っていた。
抽象と具象との中間にあるような鎌ヶ谷の作品は著名な批評家たちから高い評価を受けるようになっている。ピーター・バレイも彼の才能を認める一人だ。
バレイ美術館のメインホールの半分近くを鎌ヶ谷の作品が占めている。壁面には絵画作品がずらりと並んでいる。画面全体が水の流れを表したような抽象画だが、よく見るとさまざまなポーズの人物像が浮かび上がってくる。
「この絵の表現は、ピカソのキュービズムに対して、フローイズムとかウェイビズムとか呼ばれている。」
一枚の絵の前で梓は立ち止まって解説する。
「鎌ヶ谷は作品そのものが最終目的の純粋な抽象画には批判的なの。作品を通じて何か意味のあるものを具象することを目指した。その中で重要なモチーフが『死』だった。」
梓は作品の中で印象的に使われている色を指す。
「彼の作品で重要な意味を持っている色がこの金色と深い青。金色は天国の色、そして青はそこに至る道を示す色。というのはわたしの解釈だけどね。モノクロニズムのアーティスト、イヴ・クラインは青にこだわり、クラインブルーというオリジナルの色を作ったけど、鎌ヶ谷も独自に開発した顔料で、誰にも真似できない深い青色を作った。『鎌ヶ谷ブルー』とも呼ばれてる。」
展示室の中央には鎌ヶ谷の大きな立体作品がある。藤棚のように頭上を覆った格子状の造作物の下に直径5メートルほどの円形に白砂が分厚く敷き詰められている。枯山水の庭のような模様が描かれた白砂から、金色の木のようなオブジェが天井に向けて伸びている。見上げると、天井の格子は深い青、鎌ヶ谷ブルーに塗られている。格子を通した照明がゆっくり回転しているようで、金色のオブジェが揺らめいて見える。
孝之にはそれが何を表しているかはわからないが、その中にいると、なんとも言えない幻想的で不思議な気分になってくる。
梓は腕を伸ばし、揃えた指でぐるりと作品を指し示して、
「こういう体験型の立体作品をインスタレーションと言うの。これは鎌ヶ谷の代表作よ。あなたがたの百貨店で開かれる展覧会でもこれに似たものが制作されるはずよ。規模はもっと小さいと思うけれど。」
ひと通り会場を見て回ったあと、3人は美術館併設のカフェに落ち着いた。大きなガラス窓から見える港町の景色が素晴らしい。
夏実が梓に近況を伝える中で、昨夜の夢の話になった。予言する夏実の夢に、梓は大いに興味を持った。
「まさにシュルレアリスムの世界ね。とっても面白いわ。」
梓のまなざしがキラリと光る。
「夏実さんの夢は一見脈絡がないようだけど、そこにあらわれたひとつひとつの要素は有名な現代アートばかりね。」
「わたしも見覚えがあるような気がするものがあるけど、あれが全部現代アートなの。」
夏実の問いに梓は何度もうなずいた。
「そうよ。解説してみましょうか。」
梓はウインクし、アイスコーヒーを一口飲んでから話しだした。
「まず最初に登場する四角い空は、光の芸術家と呼ばれるジェームズ・タレルね。金沢の美術館に彼のそういう作品があるわ。そして次に出てくるディズニーランドもどきのものは、現代を代表する覆面アーティストのバンクシー。」
「バンクシーは知ってるわ。」
「バンクシーの作った悪夢のテーマパーク『ディズマランド』。イギリスの片田舎に5週間限定で作られた。濁った池の歪んだアリエル、ひっくり返ったカボチャの馬車、やる気のないキャストなどは夢に出てきたイメージそのものね。バンクシーらしい現代の風刺作品よ。」
「どこかでそのニュース見たような気がするわ。」
「花に覆われた巨大な犬はネオ・ポップの旗手、ジェフ・クーンズの『パピー』ね。今はスペインにあって、街のシンボルになってる。それから地面に敷き詰められたタイヤはパフォーマンスアートの先駆け、アラン・カプロウの作品。次の歪んで歩きにくい床は、たぶんサイトスペシフィックで感覚の可能性に挑戦した、荒川修作だと思う。ガラスケースに入ったサメはダミアン・ハーストの超有名作品。ハーストは縦斬りにした牛のホルマリン漬けの作品も有名ね。」
「それはちょっとグロいですね。芸術とはもっと美しいものじゃないんですか。」
孝之の問いに梓は首を横に振る。
「アートは常識をぶち壊す工夫なのよ。エロでもグロでも構わない。美しくある必然性はない。」
「そういうものですか。」
「夏実さんの夢の最後に出てくる、自分に向けられた弓矢。これは過激なパフォーマンスアートで有名なマリーナ・アブラモヴィッチ。自分の心臓を狙った弓矢をパートナーのウーライが引くという危険な作品。」
「それが芸術作品なんですか。」
「そうよ。自分の肉体を傷つけることで問題提起するパフォーマンスアートなの。」
「わたしの夢はそんなふうな有名な現代アートの作品だったんだ。」
夏実はそう言って腕を組んで考え込んだ。
「でもそれが何を意味しているのかな。こうやって美術館で作品を見ることを予言してたのかな。」
「そうかもね。それに、来月あなたがたのデパートで開かれる鎌ヶ谷吾朗展の事を表しているのかも。鎌ヶ谷の作品を夏実さんはあまり見たことがないから、どこかで目にした有名な現代アートを繋げた夢でそういうとこを示したのかも。」
梓はそう言いながら、かすかに眉をひそめた。
「でも少し気になる点もある。夏実さんの夢の後半に出てくるアートは・・・」
梓がそこまで言った時、カフェの入り口から梓を呼ぶ声がした。
「いけない、もうそんな時間ね。」
梓があわてて立ち上がった。
「アート展の打ち合わせの約束だったわ。あなたがたのデパートの美術担当の方よ。」
カフェの入口で、S百貨店美術工芸課係長の姫野俊平が人懐っこい笑みを浮かべて手を振っていた。