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〈 11 〉

 桜の若葉を通して見る空が青い。白い石畳の道を、夏実と孝之は肩を並べて歩く。S百貨店のある港町の街外れ、海にほど近いところにある大きなお寺の境内だ。

 新藤梓が救急車で運ばれて3日が経つ。梓はそのまま市内の病院に入院している。

 夏実はあの後、ショックでしばらく沈んだ顔をしていたが、今朝になって元気を取り戻したように明るい声になって、孝之に電話をかけてきた。落ち着いた所でのんびりしたいとのリクエストで、孝之はこの寺院に誘った。空を見上げる夏実の顔色の良さに、孝之は少し安心した。

 小さな堀に架かった赤い橋を渡って、仁王門をくぐる。

「梓さんは大丈夫かな。」

 夏実は口を結んだ仁王像を見上げながらつぶやく。できれば避けたい話題だったが、仕方がない。

「かなり前から体調は悪かったようだね。仕事も忙しかったし、無理も続いたのかもしれない。」

「警察は証拠を固めたようよ。」

 真っすぐに続く参道を歩きながら夏実が言う。孝之はうなずく。

「新藤さんの回復を待って逮捕されるという事になりそうだね。」

「そうなるのよね。でも梓さん、だいぶん悪いみたい。何か悪性の病気かもしれないって。」

 本堂に向かう参道の脇に大きな庭がある。白い砂が敷きつめられていて、中央に騎馬武者の像がある。この辺りは有名な古戦場なのだ。

「ここにも枯山水があるのね。」

 白砂の枯山水を見ると、事件のあった現場を思い起こさざるを得ない。

「これは渚を表してるんだろうね。自然を象徴的、抽象的に表現したものが枯山水。ぼくは芸術には疎いけれど、日本には昔から侘び寂びなど、現代アートに通じるようなものがあるんだね。」

 本堂でお参りをすませた二人は、長い階段を登って奥の院へと向かった。

 「小澄さん、梓さんが運ばれていった救急車を見て、気付いたことがあるんだけど。」

 少し息を弾ませながら、夏実が言う。

「救急車のボディに青い星のようなマークが付いていた。」

「そういえばそんなマークがあったような。ちょっと待って。」

 石段の途中に立ち止まって、孝之はスマホで検索してみる。

「スターオブライフ、救急救命をあらわす世界共通のシンボルマークだって。WHOでもこのマークを使っているらしい。」

「その星の中に棒に絡みついたヘビが描かれていた。」

「ええっと、このマークはアメリカでデザインされたもので、中に描かれているのはアスクレピオスの杖。ギリシャ神話に登場する名医だそうだよ。その杖にはヘビが巻き付いている。」

「そうなのね。美術館にあったあの絵。梓さんをモデルにした鎌ヶ谷先生の絵にもヘビが巻き付いていた。」

「そうだったね。新藤さんはあの絵に不吉なものを感じていたけれど、かま首をもたげたヘビの目が、ぼくには何だかとても優しく見えた。」

「実はわたしもそうなの。あのヘビが悪意を持っているようにはどうしても見えなかった。抽象的なものだから、見る人によって解釈は違うかも知れないけれど。」

 二人はふたたび歩き出した。孝之は黙って考えに沈んでしまった。


 奥の院にお参りした後、二人は見晴らしのいい木のベンチを見つけて、並んで腰掛けた。

 頭上を覆う大きなイチョウが涼しい木陰をつくってくれている。眼下には本堂を中心にお寺の伽藍の屋根が続き、その向こうに海原が広がっている。初夏の陽光を受けて、銀色に光る海だ。

 しばらく黙っていた孝之が、少しためらいながら口を開いた。

「ぼくが今、考えついたことを話してもいいかな。何の証拠もない、単なる思いつきに過ぎないかも知れないけれど。」

「ええ、ぜひ聞かせてほしい。あの事件のことよね。」

「うん。新藤さんは大きな誤解をしていたのかも知れない。鎌ヶ谷吾朗は新藤さんを憎んでいたりはしなかった。最後まで新藤さんを愛していたのではないだろうか。たとえ彼女が自分から離れようとしていたとしても。」

 夏実はじっと孝之の横顔を見る。意外そうな顔色ではなかった。

「でも、その愛情をストレートに表現するような人では無かったのよね。」

「そう。でも彼は常に新藤さんのことを見つめていた。だから誰よりも気がついていた。彼女の体調が悪いことを。何か悪い病におかされているかも知れないことを。だから、絵の中の彼女にヘビを巻き付かせることで、回復を祈った。あれは呪いのヘビではなくて、アスクレピオスのヘビだった。」

「鎌ヶ谷先生は医者だったと聞いたことがある。」

「そう、芸術家の目と同時に、新藤さんを医者としての目でも見ていた。そしてある時、彼は気付いた。彼女の首にわずかに腫瘤があることに。」

「梓さんの病気の兆候だったの、それが。」

「あくまて仮定の話しだよ。悪性リンパ腫などでは首の後ろ側に腫瘤ができたりすることがあると聞いた。自分では気づきにくい場所にできることが多いそうだよ。鎌ヶ谷吾朗はそれを悪性のものと疑ったんではないだろうか。だから彼女が寝ている時にそれに触れて確かめようとした。」

 夏実は大きく息を吸って、目を見張った。

「それじゃあれは、首を絞めたっていうのは・・」

「病を確かめるための、医者としての触診だったんではないか。」 

「それで、その診断の結果はどうだったの。」 

「病院へ行くことを勧めることをしなかったのだから、彼の下した診断は、『手遅れ』だった。おそらくは。」

「そんな。」

「眠りからさめた新藤さんが見たのは、鎌ヶ谷吾朗の絶望の表情だった。愛する人が冒された、病に対する呪いの顔。新藤さんはそれが、自分に向けた殺意の表情と誤解した。」

 夏実はぼう然とした面持ちで孝之を見る。

「鎌ヶ谷先生は病気のことは、梓さんに何も伝えなかったのね。手遅れだと思ったから。」

「告げられなかったんだろうね。悩んだろうとは思うけれど。」

「じゃあ、あの作品、『葬送曲のエクリチュール』はやっぱり梓さんのためのものなの。」

「そうだと思う。大切な人のための、いわば鎮魂歌だった。でも、あのインスタレーションは展示会が終われば消えて無くなってしまう。鎌ヶ谷吾朗が再度、梓さんにモデルを頼んだのは、梓さんの永遠の姿を刻みこんだ作品をもう一つ残したかったんじゃないだろうか。」

「梓さんの病は本当にそんなに重いのかな。助からないくらいに。」

「いいや。」

孝之は大きくかぶりを振る。

「鎌ヶ谷吾朗の医者としての経験、知識は10年以上も前のものだ。この10年あまりの間に医療は進んでいる。特に、白血病、リンパ腫などの治療法の進歩は大きい。どちらもとっくに不治の病ではなくなっている。新藤さんが悪性の病で、相当進行していたとしても、鎌ヶ谷の見立てが当たるとは限らない。」

「そうよね。」

 孝之は少し言葉を切って、咳払いした。

「でも、繰り返すけれど、今ぼくが話してきたことはあくまてぼくの想像だよ。」

 夏実は孝之から視線を外して、はるかな海の方を見た。

「いいえ、それが本当のことだと、わたしには感じられる。」

 しばらく夏実は黙って海を見つめていたが、

「でもそれが真実だったとしても、間違っていたとしても、たとえようもなく悲しいことには変わりはないけれど。」

 独り言を言うようにぽつりぽつりとそう言った。孝之も暗い目をしてうなずいた。


 雲が流れ、初夏の柔らかい風が二人を包む。眼下の伽藍から厳かな鐘の音が聞こえてくる。若葉の葉擦れ、鳥の声、はるかな潮騒。さまざまな音が風にのって混じり合う。孝之にはそれが、鎌ヶ谷吾朗のための葬送曲のように感じられた。

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