〈 10 〉
三人は新藤梓を先導にして、美術館のメインの展示室に戻ってきた。梓は鎌ヶ谷吾朗の作品が多く展示してあるゾーンを、壁に沿って歩きながら、
「フローイズムと呼ばれる鎌ヶ谷吾朗の作品は、一見形をなさない抽象画だけれど、よく見るとそこに人物像が浮かび上がってくる。そこに描かれているのはいつも女性の全身像。これらの絵のモデルが誰だかわかる?」
夏実は鎌ヶ谷の絵の中の人物に目を凝らして、つぶやくように、
「梓さんなのね。鎌ヶ谷先生の作品のモデルは。」
「そのとおりよ。ここにある女性像はすべてわたしがモデルなの。」
描かれた人物は、おぼろげに流れるさまざまな色の線の中にあり、表情までは孝之にはわからない。梓は続ける。
「もう10年も前のこと、あるギャラリーで鎌ヶ谷と出会ってから、彼との付き合いは長い。鎌ヶ谷とは趣味の合う友人、芸術家としての師匠と弟子、男と女の関係だったこともある。知り合って間もない頃から、鎌ヶ谷はわたしに彼の絵のモデルになってくれと言った。わたしは喜んでモデルを引き受けた。尊敬する彼の芸術の中にわたしがいられる事は大きな喜びだった。だけど、ある時からわたしは彼と距離を置くようになった。彼の芸術家としての異常なこだわり、二面性、裏側にある狂気についていけなくなった。でも彼は、わたしが離れていくのを許さなかった。時折、彼の偏執狂的なまなざしが恐ろしい狂気を帯びてわたしを見ることが多くなった。昨年から彼はフローイズムの集大成になる作品の制作に取り掛かった。そして当然のように、わたしにモデルを要請した。わたしは彼のモデルになるのは、それで最後にするつもりだった。これがその作品よ。」
梓は一番奥の作品の前で立ち止まった。さっき夏実と見ていた、ヘビに絡みつかれた女性を描いた。等身大の作品だ。
「この作品の制作途中のことだった。あまりにも長い間ポーズをとらされた後の休憩の時間、わたしはつい、ウトウトとうたた寝をした。ふと首のまわりに違和感を感じて目が覚めた。目の前に鎌ヶ谷の顔があった。恐ろしい表情でわたしを見下ろしていた。そしてその両手をわたしの首にまわし、力を込めようとしているようだった。」
梓はふーっとため息をついた。少し苦しそうな呼吸になる。
「あの時の鎌ヶ谷の顔は忘れられない。彼はわたしを殺そうとした。わたしは驚いて飛び下がった。彼は急いで両手を引っ込めて謝った。その場から逃げ出したいのをわたしは懸命にこらえた。」
「どうして逃げ出さなかったんですか。」
孝之が聞く。
「彼の執着心の恐ろしさをわたしは良く知っていた。逃げればどこまでも追ってくる。だから、どうしても逃げられなかった。わたしは最後までそのモデルを続けた。そうして出来上がったのがこの作品。大きなヘビが絡みついたこの絵なの。」
孝之と夏実はあらためて絵を凝視する。女体に何重にも絡みついた金色のヘビの姿が、孝之にもおぼろげに見えるような気がした。
「このヘビはわたしに絡みついて離れない鎌ヶ谷の姿。そしてこれは恐らくは毒ヘビ。毒のキバでわたしの首すじに噛みつこうとしている。わたしは確信した。わたしはいつか鎌ヶ谷に殺されると。そしてほどなくして、あのアート展を迎えた。」
梓は少し言葉を切って息を整えた。
「あのインスタレーション『葬送曲のエクリチュール』が出来上がるのを見た時、わたしは恐ろしさに震えた。これは、わたしの死を象徴しているのではないか。鎌ヶ谷はわたしを殺して、あの中央の木にわたしを吊るそうとしているのではないか。そんな思いに取り憑かれたわたしは、先手を打とうと考えた。」
「鎌ヶ谷先生に殺される前に殺そうと思ったんですね。自殺に見せかけて。」
孝之が静かに聞く。梓はうなずいて、
「正直言うと、捕まりたくはなかったしね。それに、あの作品は鎌ヶ谷の死で飾られるのにふさわしいとも思った。姫野さんは違和感を感じたって言ってたけれど。」
「すべての事を準備して、あの夜を迎えたんですね。」
夏実がぽつりとつぶやくように聞いた。
「殺るか殺られるか、そう思っていたからアート展初日の夜を狙った。閉店後、作品の再調整のために二人きりになる事は分かっていた。作業が一段落した時、鎌ヶ谷は思い詰めたような顔で言った。もう一度モデルになってくれと。わたしは震えた。それはこの作品をわたしの死で飾って完成させるという意味にちがいないと思った。事態は急を要した。わたしは恐怖を隠して彼に近づき、無理に笑顔を作ってうなずいた。彼はうれしそうな顔をした。悪魔の微笑みだった。彼の油断をわたしは見逃さなかった。至近距離からその首と側頭部を不意打ちした。力は要らなかった。技がきれいに決まり、鎌ヶ谷は気絶した。床に倒れ込むからだを急いで両手で支えた。からだに打撲のあとが残らないように。それから後は小澄さん、あなたの言ったとおりよ。」
梓は少し目を閉じて息をついてから、
「荷上げ用具と縄梯子、脚立、それに意識の無い鎌ヶ谷のからだをかついで彼の靴を履き、砂の上に足跡を残しながらあの木の下まで行った。さすがに限界に近い重さだったわ。荷上げシステムで鎌ヶ谷のからだを吊り上げてフックに掛けてその死を見届けた後、縄梯子を使って砂の外へ出た。そして事務所へ行って何食わぬ顔で姫野さんに会った。三日月オブジェを揺らしておいて音をたて、鎌ヶ谷がまだ作業をしているかのように、姫野さんを騙した。姫野さんに現場を見せないように、ドアはすぐに閉めた。姫野さんは信じやすい人だから、誘導するのは簡単だった。姫野さんはわたしといっしょに鎌ヶ谷の生きている姿を見たと思い込んだ。警察にもそう証言してくれた。計画は完璧だった。」
梓はそこで大きくため息をついた。
「と、思ったんだけどね。夏実さんの夢の事、そしてそれを的確に解釈する小澄さん、あなたのことを忘れていたわ。」
梓は目を閉じた。眉間にシワを寄せ、苦しそうな呼吸になる。
「梓さんは鎌ヶ谷先生の死を、本心で悲しんでいると思ってたのに。」
夏実は涙声になっている。
「悲しんでいたわ。こんな事になってしまって。尊敬していたもの、偉大な芸術家として・・・」
途切れがちになりながら、梓は言葉を絞り出す。
「でも今、わたしは思う。あの作品に本当にふさわししかったのは、やっぱりわたしだったんじゃないかと。わたしの死こそ、あの作品に・・・」
梓のからだが糸の切れた操り人形のように、力を失って崩れ落ちた。
「梓さん!」
夏実の悲鳴。孝之が梓に駆け寄る。
「夏実、救急車を。早く!」
孝之の声が館内に響きわたった。




