13-1
飛びそうな意識を保つため、爪で思い切り腕をひっかくと呼吸がだんだんと荒くなり、鼓動が身体中に響き渡った。
不透明な視野に広がる赤暗い通路を壁に沿って歩くも足取りは重い。
打撲した右足をかばうようにして、左足で力強く一歩を踏み出す。
光を目指して必死に歩くも、まるでループしたかのような景色が続く。
後ろから人の気配を感じる。しかし、振り向く余裕も勇気も今はない。ひたすら前に進むだけだ。
どれくらい歩いただろう。
人の呻く声が微かに聞こえる。
歩くほどに声は近くなる。
視界に扉が映ると、声の主が助を求めるように声を荒げ始めた。
恐怖とは裏腹に、鉛のような足が扉に近づく。
この声に、聞き覚えがある。
状況を理解できぬままドアノブを捻った。
すると暗闇に赤暗い光が侵食し、血まみれの人物を照らした。
滴る鮮血を踏みにじり、こちらに向けて這いつくばった。
「たす・・けて」
顔をあげると、血走った目と聞き慣れた声に吸い込まれる錯覚に陥る。
これはまぎれもなく自分自身、倉森明人だ。
「・・・ひと、あきひと!」
肩を何度も叩かれて目を開けると、倉森喜実代の顔が目の前にあった。
「ぅおっ!」
「おはよう。すっごいうなされてたよ。びっくりしちゃったー」
母親に驚かされたせいか夢の内容をほとんどを忘れたが、明人の首筋は汗でびっしょりだった。
「シーツと枕カバー、洗濯するから下に降りてくる時に持ってきてね」
部屋から退室した直後、ご飯を早く食べるようにと催促する喜実代の声がフェードアウトした。
モスグリーンのシャツに腕を通したところでスマホが明人を呼んだ。
スマホを覗くような体勢をとると、思わず「またか」と本音が飛び出した。
なかなか鳴りやまないので、根負けした気持ちを堪えてスマホを右手に持つ。
「どーも、昨日ぶりです」
「おはよう明人。もう朝飯食べた?」
マイペース王子との数時間ぶりの対面だ。
キッチンでコーヒーを落とす準備をしている江原が映し出される。
相変わらず俳優のように整った顔立ちとスタイルで、明人はテレビのワンシーンを観ている気分になる。
「そういえばずっと前にあげた宇宙食のスナック菓子、もう全部食べた?」
「あれならもうとっくに全部食べましたよ。特に、ピスタチオが美味しかったです」
「明人ピスタチオ好きだもんね。また今度貰ったら持ってくよ。あれ1本で成人男性に必要な栄養素が半分以上摂れるらしいんだけど、スナック菓子食べて以降の調子はどう?」
江原がお湯を注ぐ手を止めて画面に顔を近づけた。
「調子ですか?まぁいつもと変わらず調子はいいですけど」
江原が画面から顔を逸らさずにこちらをまじまじと見ているため、明人は慌てて次の言葉を探し始める。
「そ、そういば、あのクランチを毎日1本ずつ食べ始めて以来、変な夢を見ることが多くなったような・・」
「変な夢?」
頭をフル回転させてポジティブな言葉を探すも、口から発せられたのはネガティブ要素を含む言葉だったため明人は一瞬後悔したが、江原から不満な様子は見受けられなかったため、このまま正直に話そうと決意した。
「詳しく内容は覚えていませんが、何かに追いかけられる夢をよく見る気がします。ひたすら逃げて、逃げた先にいる人は・・・」
「いる人は?」
コーヒーから完全に離れた江原が画面越しにこちらを真っすぐに見つめている。
「自分です」
一瞬の間の後に、2人は声に出して笑った。
「何それ。逃げた先に自分がいたわけ?」
「はい。しかも似たような夢をよく見るんですよね。どーせ見るなら、可愛いじょせ・・」
「え?何?」
「いえ、何でもないです・・」
途端に真顔になった江原の顔は綺麗だが怖すぎて、明人は冗談のノリを急停止させた。
それはまるで地雷を踏む気配を察知した気分だった。
気を紛らわすように明人が朝食の残りで自室に持ってきたコーンパンを口に含んだ。
「何それ、朝ご飯の延長?」
「さっき朝食で食べきれなかったコーンパンを食べています」
コーンパンを流し込むためにペットボトルのお茶をグイと喉に流し込むと、明人はこのコーンパンが最近のお気に入りであることを話し始めた。
「母親がこのパンを大量買いして、ストックのために専用の冷凍庫を数か月前に購入したんです」
「親子でそのパンにはまってるわけかぁ」
いれたてのコーヒーが入った大きなマグカップを手に持ちながら、江原はニッコリと優しい表情を浮かべた。
その後も江原は明人の近況を尋ねたり、自身の近況と興味のある時事ネタやそれにまつわる持論をマイペースに話し、それに対する意見を明人に求めた。
「江原さん、これから予定があるのでまた次回・・」
「あれ?先週明人の今日の予定を聞いた時、今日は特に何もないって言ってたよね?」
自分のスケジュールを管理されているようで、明人の顔が思わず引きつった。
「その、急遽予定が入りまして・・。また機会がある時に、可能であればご連絡ください」
「わかった。じゃあまた明日、時間見つけて連絡するね」
明人は無の境地に入ると、何とか口角をあげて会話に対応した。
その後も予定の詳細を根掘り葉掘り問いただしてきたが、スキルアップした明人はどうにか濁してビデオ通話を終えることができた。
『人間関係キャンセル界隈』を選択した人に対するインタビューをネット記事で見かけたことをふと思い出し、自分もその界隈入りしようかと心がよぎるも、これまで江原さんには良くしてもらっているし、決してその選択をしてはいけない、と邪念を振り払うと、明人は鏡に顔を向け、整髪剤で髪を簡単に整え始めた。
光彩で賑わう夜景をバックにコーヒーのお代わりをいれたところで、江原は何かを思いついた表情をすると、どこかへ電話をかけ始めた。
「お久しぶりです。もしこの後お時間があれば、2人で食事をしませんか?今オフィス目の前のジョナスホテルに滞在しておりますので、ここの最上階のレストランでいかがですか?」
江原は夜景に挟まれた目の前の巨大ビルの最上階方面に目をやりながら軽快に喋り、会話を終えて電話を切ると、だだっ広いウォークイン・クローゼットの中からスーツを取り出した。




