11-1
「ねー藍ちゃん、早く出てきてよー」
悪魔の声が女子トイレに響き渡る。
私が籠ると、悪魔とその召使いがやってきて、私を引っ張り出そうとする。
自分自身を守るため、胎児のように自分を抱え込む。
それでも執拗に水を浴びせられ、筆記用具を身体に向けて投げて来る。
来る日も来る日も、同じ事が繰り返される。
もう嫌だ。早く楽になりたい。
夜明け前、マンションの屋上から苦しみの解放を試みた。
―――――――
国家総合事務局の局長の後藤は、腕を組んで目の前の紀桝に睨みをきかせた。
「要はお前のプライベートに、うちの職員を同行させろって事だろ?」
「なぁ、頼むよ。俺とお前の好だろ?どうしても今回はお前の力を借りたいんだ」
紀桝亨が顔の目の前で両手を合わせて姿勢を低くした。
設立してまだ日が浅い事務局だが、国家総合事務局は総理直々の案により設立された事務局であり、設立当初から多くの関係者より脚光を浴びる事務局だった。
小さな局ではあるが、総理や官房長官など要人たちと密接に関わる事務局の設立とあって“どのような人員配置がされるのか”と霞が関界隈はざわついていた。
蓋を開けると、内閣府の組織である国家総合事務局に、まさかの防衛省の職員が2人も配置された。
それが聖沢舞郎と猪山麗奈だった。
2人の異動前の経歴に関しては、防衛省という国家防衛任務のポジションであるが故、国家総合事務局に同じく配属となった行政職の職員にでさえ2人の細かな経歴を明かすことはなく、とりわけ聖沢に関しては情報量が少なかった。
その他の国家総合事務局へ異動してきた行政職員においても、仕事内容の詳細を局外の者に言及することはタブーとされた。
国家総合事務局が設立2年目を迎えると、国家総合事務局の人員配置に再び周囲が驚かされた。
聖沢らに続き、一ノ瀬という防衛省出身の巨漢が国家総合事務局へ異動となり、そして倉森と富岡、上原、首藤という新規採用の職員が4人配置されたのだ。
前年度に引き続き、防衛省出身者の追加の配置も含め、謎の多い事務局へ新規採用職員が4人も配属されるなど、前代未聞の人員配置だった。
謎のベールに包まれた事務局の業務は、重鎮への同行の様子をメディア等を通じて霞ヶ関の人々は理解する程度だったが、重鎮を巻き込んだ事件が起きる度に、その盾となり活躍したのが国家総合事務局だったため、憶測を交えて人々の噂の的となった。
それ故、後藤は他省庁のベテランの官僚職員たちから国家総事務局の業務内容を秘密裏に教えてくれと頭を下げられる事が多かったが、後藤はその度に『国家機密に関わる理由から答えられない』と機械的に一言伝えるだけだった。
周囲の人々は、仕事以外では極力後藤に関わらない。
なぜなら、後藤が冷徹人間である事を重々知っているからだ。
そのおかげで、後藤は無駄にエネルギーを費やすことなく必要最低限の会話で事を運べた。
しかし、今後藤の目の前にいる紀桝亨からは『後藤を回避する』という思考回路はこれまで微塵も感じられなかった。
空気を読めない、いや、空気を敢えて読まないのか、紀桝は今日もかれこれ20分ほど粘っている。
紀桝が同期の中でもとりわけ頭の切れる男である事は、後藤も認めている。
慎重かつ迅速な判断ができる紀桝とは仕事がやりやすく、何でもスピーディーな後藤と歩調が合うのは事実だ。
ただ、紀桝という男は仕事以外での面において妙に後藤に慣れ慣れしく、冷徹な後藤に何度跳ねのけられても立ち上がり、しがみついてくる。
その様子に、裏でケイや灯凜から『七転び八起きの紀桝氏』と揶揄されていた。
そして今『七転び八起きの紀桝』の本領が最大限に発揮され、その姿にイライラし始めた後藤の眉間に皺が寄り始めた。
紀桝が図々しく温かいお茶のお代わりを後藤へ請求すると、局内に残っていた明人は後藤に呼び出だされ、お茶のお代わりを運んだ。
空気のようにお茶を運び、空気のように退室してきた明人へ、麗奈が大きく手招きする。
「紀桝官房長と後藤局長、どんな様子だった?」
珍しく麗奈が緊張した面持ちで明人に声を掛けた。
空気から普通の人に戻った明人は、こくんと頷くと、小さく話始める。
「後藤局長からはいつも以上に重々しい雰囲気を感じたんですが、紀桝官房長は相変わらずな雰囲気で、いつもの口調で後藤局長に何かを懇願していました・・」
紀桝官房長は、後藤より上の役職にあたる『官房長』だ。
後藤もそうだが紀桝も年齢の割に出世が早く、その中でも紀桝は同期の中で一番出世が早い。
後藤の同期たちは頭が切れる2人なだけに、因果応報なのだとこの結果に納得していた。
それに、紀桝は頭も切れる事ながら、財閥家の愛娘の婿入りをしているのだ。
紀桝は20代半ばに、当時の上司づてで紹介された銀行頭取にいたく気に入られ、頭取の娘との見合い話が持ち上がり、紀桝はそれをすんなり受け入れた。
現在も日本の景気を左右する財閥家の婿ともなると、当然周囲の見る目も変わってくるわけで、出世街道まっしぐらな『優秀な紀桝』は一目置かれていた。
「お前な・・・いい加減にしろよ。お前ほどの人間が、なぜ業務違反にもなりかねない仕事を事務局に依頼してくるんだ?ボディーガードを雇えば済む話だろ」
後藤は怒りを通り越し呆れた様子を見せると、ついに鉄仮面を取り払って紀桝にグイと顔を寄せた。
「その・・・つまり・・。うちの娘が・・」
「はぁあ?娘?」
後藤の顔が歪む。
「お前たち国家総合事務局の武勇伝を知った娘が、どうしてもお前たちに、護衛について欲しいって・・」
後藤の頭が、瞬く間にフリーズした。
紀桝のとある噂は聞いていたが、今の言葉で後藤はすべてを理解できた。
紀桝亨は娘に弱いのだ。しかも激甘。
ガルシア姉妹に弱いハディエル・ガルシアもそうだが、国を支える財閥や大富豪のレベルになると、一周回って頭がおかしくなるらしい。
要するに、娘のためなら盲目となり、常識では考え難い依頼をしてくる。
開いた口が塞がらない後藤の様子に、紀桝が笑ってごまかそうとする。
「なぁ、頼むよ後藤。娘が社会人になるために第一歩を踏み出そうとしているんだ。そうだ、その場に戸出大臣がプライベートで参加する予定だから、その同行業務という形にしておこう。戸出大臣は、娘の晴れ姿を見に来てくれることになっているんだ。あ、そうだ。参議院審議会会長の服部先生はうちの親族と親睦が深いし、急なお誘いでもきっと快諾するぞぉ」
財閥パワーで国政を担う重鎮たちをどうにかしようとする紀桝は、もはや狂っているとしか言いようがない。
後藤は呆れた目で再び紀桝を睨む。
小橋すみれの件といい、国家総合事務局の在り方を今一度見直した方が良いのかと思うと、後藤は思わずため息をついた。
紀桝はまだ何かを提案しているが、その声は根負けした後藤の耳には届かず、後藤は僅かに残っているヒットポイントを使い、珍しくまだ局内に残っている聖沢舞郎を局長室へ呼び出した。




