8-5
曾村は一瞬言葉が出なかった。
癒しの源が、思いもよらぬ場面で自身の前に現れたからだ。
「蒼斗さん。来ちゃいました」
以前、野希羽へアトリエを所有していることを話し、是非立ち寄って欲しいと内心懇願しつつ、冷静を装いながら話をしたが、まさかこんなに早く訪れてくれるとは想定もしていなかった。
急いできたのか、首筋や至る所に汗が見える。
まだこの状況を完全に理解できていないが、息を少し粗くした首藤野希羽が目の前にいるのは確かだ。
野希羽の下向き加減にあった目線が徐々に上がって来て、183㎝の男と目が重なった。
その瞬間、曾村は身震いを起こし、気持ちが高揚した。
「野希羽さん・・・」
残念なことに、先ほどからこのアトリエ内には汚らわしい人間が一人寝ている。
この汚物を檻に閉じ込め、明日にでも嬲り殺すつもりでいたが、今日はひとまず汚物の手足をしっかり拘束し直し、猿ぐつわを嵌めてから、地下倉庫に運びこむ計画で変更を決めた。
ただ、その汚物を運んだりと少し時間を要すため、その間に野希羽に悟られない様にしなければならない。
では・・・。
曾村の中に、一つの考えが浮かんだ。
曾村は過去の忌々(いまいま)しい記憶から解放されるために、一刻も早く、汚らわしい者たちを処理する考えにシフトしていたため、日を空けずに最後の汚物処理に臨もうとしていた。
(あの汚物を処理すれば、僕のミッションは全て終了だ。)
曾村の脳内はここ数日で、野希羽色にすっかり染まってしまった。
今後は心を改めて、野希羽と共に過ごしたいと思うと、胸が高鳴った。
「野希羽さん、中に入って」
曾村は天使の笑みで、アトリエの中に野希羽を通した。
必要最低限のものしか置かれていないアトリエ兼個展の部屋は、打放しコンクリートで、至る所に自作の画が配置されており、まるでカフェにいるような空間となっていた。
辺りの窓は全て小さめに構えているが、それとは対照に天井には大きな窓がある。
そこから多くの光を取り込んだ部屋は、間接照明と併せてゆったりとした雰囲気を再現していた。
アトリエを奥へ進むと、来客用の間があった。
野希羽をソファに座らせると、キッチンでアイスコーヒーを用意した。
野希羽から死角となる位置で、睡眠薬をアイスコーヒーに投入し、クッキーと一緒にアイスコーヒーを2人分運んだ。
「さぁ、召し上がってください」
キンキンに冷えたアイスコーヒーのグラスから水滴が流れる。
「いただきます」
野希羽が嫋やかにグラスを手にする姿を、曾村は聖母マリアを見るかのような、穏やかな心で見ていた。
野希羽はアイスコーヒーを半分ほど飲んで、グラスを机に置いた。
曾村がアトリエについて話し始めると、数分もしないうちに野希羽の瞼は徐々に下がり、眠ってしまった。
ソファにもたれ掛かった野希羽を両手で抱きかかえ、自身の休憩室にあるベッドへ向かった。
柔らかい。
何もかもが愛おしい彼女の胸元へ目をやると、思わずゴクリと唾をのんだ。
(全てを終わらせて、野希羽との愛を誓おう)
野希羽をベッドへゆっくり下すと、頬へキスをした。
「もうすぐ全てが終わるから、それまで待っててね」
美しい青年は、すやすやと眠る野希羽にそう告げると、汚物のいる部屋へ足早に向かった。
――――――
「おい、お前らいつまで食ってんだよ」
ケイから嫌味たっぷりの電話が、灯凜にかかってきた。
メッセージアプリのビデオ通話に映し出されるケイは、テントの中で大型扇風機を独占していた。
大型扇風機を独占していても、ケイの額の汗は収まる気配はない。
「滞在している料亭の女将さんのご厚意で、業務の直前まで、ここで休む事になったんだ」
灯凜が涼しげに食後のアイスコーヒーを飲んでみせるその背後で、明人が申し訳なさそうに話してみせた。
「俺もあの時テントで待機していれば、そちら側のメンバーに入っていたのに」と、たらればでケイは愚痴るが、”料亭で提供されるランチだけでは、弁慶の腹を満たせない”と見越した河越が、ケイが持ち場を離れた時を見計らって、その場にいたメンバーに声をかけた可能性があるのでは?と明人は思ってしまう。もちろん口にはしないが。
灯凜が料亭でのひと時について、ケイに話し始めると、明人はデザートとアイスコーヒーに手を付けた。
アイスコーヒーを飲みながら、ぼーっと池の蓮と鯉を眺めていると、少しだけ頭痛がした。
明人はアイスコーヒーを両手で持ち直し、数秒だけ目を閉じた。
「あの、もしかして・・」
明人がスマホを操作しながら灯凜に声をかけた。
「野希羽さんの仲良くしてる友達って、この人?」
灯凜はスマホに表示された画面を見て、それだ!と威勢の良い声をあげた。
「そうそうこの彼!美術界で有名なの?」
明人が灯凜に見せた画像は、自身の絵画をバックにして映る、曾村蒼斗だった。
どうやら美術に関するインタビューを受けているネットニュースらしい。
「以前、雑誌か何かで彼を見たよ。美術界の新星みたいな題名で、取り上げられていたと思う」
明人はスマホの画面を、灯凜のスマホに近づけて、ケイに見せた。
先日、灯凜が野希羽に代わって、彼をイケメンだと豪語していたが、その期待を裏切らない容姿に、ケイは思わず『おぉ』と感嘆をあげた。
「でも何で明人が、このネットニュースの彼が野希羽の友人って知ってたの?彼を知っているのって私と、彼の救護に関わった陽臣君くらいじゃない?救護されてた時は遠すぎて、顔まで確認できなかったと思うけど・・」
“神園元外務大臣の甥“という情報までは食堂にて共有したが、彼のフルネームまでは共有していない。
抹茶シフォンケーキの美味しさのトリコになりつつ、素朴な疑問を明人に投げかけた。
「それは・・・さっき蓮と鯉を眺めていたら急に頭痛がして、彼と彼の絵画が頭に浮かんで。その横に首藤さんがいたんだ。もしかしたら、街中で2人を見かけたのかも」
明人は、自分でもよく分からない、と素振りをしてみせる。
「それから、上原さんと・・・河越議員も絵画のそばにいた」
ケイと灯凜の頭の上に一瞬『?』ができた。
「なんだそれ。どんな組み合わせだよ」ケイが手を叩いて大声で笑う。
「あぁそういえば陽臣くん、時間潰しに、野希羽に教えてもらったアトリエを見に行くって、さっきここを出て行ったよ。個展を兼ねたアトリエ。この近くにあるんだってさ」
灯凜がシフォンケーキにホイップクリームをたっぷり付けながら、軽やかにケイへ話す。
「ところで、今その場にいるのはお前ら2人だけか?野希羽と河越議員はどこ行った?」
河越衆議院議員の同伴という、ある意味業務中な事情を知っても、遠慮なしに電話をかけてくるところにケイらしさを感じるが、今さら河越がいないことに疑問を持つところもケイらしい。
「野希羽は、今のうちに用事済ませてくるって出て行ったよ。河越議員は、お手洗いに行って暫く経つけどまだ戻って来ないから、一服したり女将に絡んだりして、時間潰しでもしているんじゃないかなぁ」
灯凜は満面の笑みでシフォンケーキを堪能していたが、急に怪訝な表情に変わった。
「あの、ケイ・・電話そろそろ切るよ」
ケイの背後に、マイロが映りこんだのだ。
「警護班はどうしてる?」
マイロがこちらに向って問いかける。
「河越議員の命令で、お店の目の前にある駐車場の車中で待機しています」
「灯凜、今すぐ河越議員の様子を見てこい。トイレで倒れている可能性もある」
灯凜は頷くと、画面から消えた。
「明人、さっきの話の詳細を全て話せ」
明人は神妙に頷くと、画面越しに頭に浮かんだもの全てを話し始めた。




