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「おい、お前たちも来い」
東京は夏の峠をすでに乗り越えて、秋の気配を感じるが、それでもまだ日中は、うだるような暑さが続いている。
それが、ただでさえモチベーションを大きく下げる要因なのに、河越に手招きまでされてしまった。
エアコンの効いた室内で行う、デスクワークの仕事と、炎天下でスーツを崩すことなく着用し、緊張感漂う中で、要人のお供をする仕事は、真逆の業務といえる。
本日は後者の業務となり、更に、河越の話し相手・機嫌取りの業務が追加となりそうなので、特殊手当てをつけて欲しいと思わずにはいられない。
河越から見て死角にいること良い事に、灯凜は大きなためいきをついた。
本日の任務は、世界平和について考える講演会に来賓として参加する、河越衆議院議員の同行である。
講演会の宣伝ポスターの4分の1程度を河越の顔写真が占めているが、これは15年以上前の写真で、今では想像しにくいほど生き生きとした笑顔の写真なので、これも詐欺の一種ではないかと密かに思っていた。
「この近くに俺の行きつけの料亭があるんだが、今日は11時からランチをやっている。俺が話せば、10時くらいから店に入店もできる。ここのな、ランチの蕎麦と天ぷらが旨いんだよ。俺がおごるから、お前らも付いて来い」
蕎麦にお勧めの冷酒も提供しているらしく、河越は飲む気満々だ。
秘書は1杯だけに留めるよう、河越の機嫌を損ねない程度に配慮しつつ注意しているが、果たしてその効果はあるのか。
平和について考える講演会は、豊島区内にある公園で開催され、誰でも無料で参加できる。
参加者のターゲットは、大人というより、子供とその保護者だ。
河越は3年前に始めた動画配信で、自身の私生活を披露している。
朝の日課である体操を、ワンテンポ遅れた動作で行う動画が今、子供に受けている。
『体操の河越おじいちゃん』を一目見よう、と多くのファミリーが来場する事を、今回期待しているのだ。
14時開演なのに、河越おじいちゃんは体操のリハーサルのために、朝の8時30分に会場入りするものだから、それに同行せざるを得ない灯凜は、朝の8時前に現地入りした。
灯凜は気温32度の中、日曜日という休日を、エアコンの下で楽しむ自身の姿を想像していた。
「富岡さん、気持ちは分かるけど、顔に出てますよ。お互い割り切って仕事にあたりましょう」
陽臣は少し困ったような笑顔で、灯凜に小声で励ました。
同い年とは思えない模範解答な声かけに、灯凜は思わず“てへぺろ”をしてみせた。
だが、容赦ない目でこちらをじっと見る聖沢班長の視線に気づくと、灯凜は再び苦虫をかみ潰したような顔になった。
河越は有言実行の男だ。
9時55分に行きつけの料亭『蓮』に到着した。
謎の体操リハーサルを終えた河越は、スーツに着替えた後に一服し、気まぐれで同行職員にランチの誘いをして、歩きながら料亭の女将に電話をして、料亭に到着した。
今回河越のランチ同行の被害者は、灯凜と陽臣、明人、野希羽の4人である。
「河越先生、お弟子さんも、ようこそいらっしゃいました」
店が中から開くと、うだるような暑さを払拭させる着物美人が笑顔で出迎えてくれた。
店内は最近改装したばかりで、こちらも暑さを払拭するようなこっくりとした照明に、和モダンな内装となっていた。
「素敵な内装ですね」陽臣が率直な感想を述べた。
高級感漂う店内の端には、リニューアルオープンを祝うスタンド花が数多く並べられ、その中に河越からの胡蝶蘭もあり、ひと際大きな河越の胡蝶蘭は嫌でも目に付く。
「先生どうも。出来上がるまで、どうぞゆっくり寛いでいてください」
料亭の主は愛想よく一礼すると、調理場へ戻って行った。
開店前に数名もの客を通したものだから、調理場はいつもより忙しくしている事だろう。
河越一行は、奥にある広々とした掘りごたつの個室に案内された。
首筋の汗をハンカチで拭いながら、明人たちは店内を見渡した。
「改装工事で以前より洗練させた雰囲気になって、客の年齢層の幅が更に下まで広がった。そしてこの前、メディアに取り上げられたせいで、更に客が増えて予約が取り難くなった。店の質を保つために、一見は断るシステムに変更すればいいと思うんだがなぁ。そう思わんかね?」
ぼやき始めた河越に耳を傾けつつ、一行は庭の蓮とその周辺を泳ぐ鯉に目を奪われていた。
10時15分頃、女将が食前酒を持ってきた。もちろん河越の酒だ。
河越は公務中でも、食事中に少量だが、酒を嗜むと噂で聞いていた。
それが事実であることを目の当たりにした4人は、女将が練れた手つきで酒を注ぐ姿を静かに見ていた。
女将とその背景に映る蓮と鯉が、なんとも絵になる。
灯凜はすかさず、河越は酒と肴以上に、女将を堪能するために足しげく通うのだなと確証し、『スケベおやじ』と心で突っ込みを入れたが、どうやら心の声が漏れていたようで、明人に“静かに”のポーズをされた。
食前酒の15分後に、大将がせいろ蕎麦と天ぷらを運んできた。
蕎麦には白髪ねぎやミョウガなどの薬味が付き、揚げたての天ぷらはエビや茄子、紫蘇やマイタケと見た目麗しい。
蕎麦と天ぷらは、見た目もパーフェクトだが、味もパーフェクトだった。
十割蕎麦の風味と食感、それにコクのある出汁つゆが絡まり、いくらでも食べられる。
天ぷらの食感は言うまでもなく、てんつゆが恐ろしいくらい旨い。
控え目に言って、100点満点の味だ。
全員一口目で感嘆の声を上げると、その後はひたすら食べることに夢中になった。
全員分のデザート“わらび餅抹茶シフォンケーキ添えとアイスコーヒー”を注文すると、女将が講演会までゆっくり寛ぐように提案してくれた。
予約なしで来店した人々へ長居するよう勧めるなんて、さすがは河越先生だと痛感させられる。
河越は確かにぼやきが多く、興味のない話やつまらないおやじギャグをたまに言うが、これほど美味しい料理をご馳走してくれるのなら、たまには付き合ってあげても良いかもと灯凜を始め、明人もひっそり思っていた。
『体操の河越おじいちゃん』の話で盛り上がったこともあり、河越に対する敬意やネームバリューから来る配慮はほぼ無くなり、これも河越の巧みな話術せいか、この場にいる全員がお互いの身の上話を含めた話をして盛り上がった。
料亭は早急なリフォーム工事により、2か月と待たずオープンする事が出来たが、お手洗いがまだ未完成のため、現在水曜日と日曜日以外の日中に工事を行っている。
全て完成してお店を再開する予定だったが、河越やその他の常連に早急なオープンを乞われたため、お手洗いの完成を待たずにオープンさせた経緯がある。
そのためお手洗いの完成までは、料亭裏口から出て数十メートル先にある、大衆居酒屋のお手洗いを利用する事になっている。
席から立ち上がりかけに、左手を軽く上げてお手洗いに行く事を示した河越は、店の裏口から出て行った。
河越の警護人は、料亭を訪れた際は個室から少し離れた場所で待機しているが、今日は河越の命令により車内で待機をしていた。
裏口から数十メートル先にある大衆居酒屋は、裏口出てすぐ視界に入る、路地裏の細道ルートとなっている。
河越は、20メートルほど歩いたところで自身のつま先をふと見た瞬間、視界が真っ暗になり、それと同時に、急激な眠気が襲った。




