騙され「泥棒ねこ!」と罵られたら、見知らぬ伯爵に助けられ婚約しないかと言われたので、ついお受けしたら大切にされました!
「お黙りなさい、この泥棒ねこ!」
パァンと、扇子で頬を張られた。
痛みで目がチカチカするが、アンナは呆然とするばかりだ。すぐ側で恋人のはずのジョンが、バツ悪そうに目を逸らした。
アンナはスミス男爵の家の孫娘。けれども生まれついての貴族ではない。お爺ちゃまが叙爵され、急に平民から一代男爵になったからだ。まだお爺ちゃまが存命なので、アンナも一応は男爵令嬢となっている。
だが、生まれも育ちも子爵家で、三百年前からずっと貴族だったベス・テイラー令嬢から見れば、アンナなんか平民と同等。いいや、貴族の皮を被った分タチが悪い女なのだ。丁寧に巻かれて結われたブロンドは、アンナと血筋も違うのだと語るよう。
「これに懲りたら、ジョン様には付きまとわないでちょうだい! 彼はうちの婿になる方なの。もしまた見かけたら、お父様に言いつけるわよ!」
それは困る。生粋の貴族に反感を買っていいことなど、何もない。彼らは普段は権謀術数をめぐらせて、互いに牽制し合っているが、共有する敵を見つければあっという間に仲良く袋叩きしてくるだろう。その牙を躊躇なく剥き出してくる。
今日の敵は明日の味方でもある、それが彼らの常識だった。
アンナは震える声で「申し訳ございません」と、ベスに謝るしかない。ひたすら惨めな姿を晒し、相手の自尊心を満足させなくては、きっともっと酷いことをされるだろう。
「わたしが愚かで、身の程知らずだったのです。どうか、どうか、お許しください。ご容赦を……」
今日は雨が降っていたせいで、道はぬかるんでいる。
そこへ膝をつき許しをこう。ドレスは見る間に泥で汚れ無惨なものへ。見窄らしい姿へと変えていく。
涙で化粧も流れ、扇子飾りが引っかかったのか、髪もほつれている。頬打たれた赤みがみっともないアンナは、子爵令嬢のベスのプライドを満たすには十分、哀れな姿だった。
「まあ、そこまでお分かりならば……大目に見てもよろしくてよ。ジョン様、さあ行きましょう」
立ち去る貴族の男女の背が遠くなり、アンナは息を吐く。そのまま座り込んでしまったので、ますますドレスは無惨なものとなった。きっと布目に入り込んだ土は、上手く取り除くこと出来ないだろう。このドレスは捨てるしかない。
この公園には他の人間もいたが、誰も何もしない。誰だって貴族の怒りを買いたいなんて、思うわけがないし、同じ貴族ならばその愚かさを笑い、我が身でないことに安堵するはずだ。
ジョン・クラーク男爵令息とアンナは、この公園で出会った。
風に飛ばされた帽子を、ジョンが拾ってくれたのが馴れ初め。それから、何度か公園で会うようになった。けれども、アンナは彼に婚約者がいたなんて知らなかった。神に誓ってもいい。
ジョンもそんなことを一度だって告げなかった。寧ろこんな可愛らしいレディに会えて嬉しい、と言ったのだ。だから男爵令息のジョンに、アンナはどんどん惹かれていった。遂に彼から告白されて、それを頷くまでに。
ジョンは優しげで、公園での散策でもスマートだったのだ。いつでもそっと手を差し出し、段差には殊更気をつける。ベンチに座る時にはハンカチを敷き、毎回装いを可愛い、綺麗だと誉めてくれる。
幼い頃は平民として、お転婆をしてばかりのアンナにとって、それは効果覿面だった。爵位が低すぎて行ける夜会も少なく、知り合いもほぼいないアンナだ。貴族男性のエスコートには全く不慣れで、それこそ遊び相手にはもってこいだったのだろう。
(わたしがバカだったんだわ……)
これは勉強料として、甘んじて受けるべきのこと。そう思う。けれども、後からあとから痛みを訴える腫れに涙が溢れてしまう。アンナは苦い初恋に、嗚咽を噛み殺す。その頭上からは、また雨が降り始めた。
周囲ではちょっとした悲鳴と、足早に立ち去ろうとする人々の物音。それでもアンナは立ち上がれなかった。胸くすぐる初めての恋は、甘美で幸福なメロディを奏でたからか。
あれほど毎日が色鮮やかになるなんて、知らなかった。明日になるのが待ち遠しくて、そわそわ眠る夜がくるなんて子供のよう。なのに、幼い頃にはない高鳴りがアンナを満たす。陶酔させた。
全て、壊れてしまったが。
雨音が激しくなり、濡れたドレスが重みを増す。
アンナはぼうっとしたまま天上を仰ぎ、そしてやっと足に力を入れた。布がすっかり水分を孕み動きにくくなっていた。随分とふらついてしまう。それでも、この足で地面を踏み締めて生きなければ。
また明日が来て、その次の日もやって来る。アンナの不幸なんてお構いなしだ。なにしろ、よくある話だ。平民とて、騙される娘がいる。世の中は皆が皆、清廉潔白で善人ではない。嘘つきはいつだってその口腔を開け、獲物を飲み込むのを待ち構えている。
分かっている。分かっているのだから、自分が悪かったとアンナは思う。
(大丈夫……だって、こんなことだってある。生きてたら、良いことばかりじゃないもの。大丈夫だから、大丈夫……)
立ちあがろうとして、足を滑らせる。つかむ物欲しさに手が空をかく。ばしゃんと、再びアンナは泥水の上に転んでしまった。
もうあちこち泥まみれで、まるで足掻くアンナの心のようだ。しかも転び方が不味かったのか。足が痛い。さらに寒気までしてくる。
(ああ……、わたしがお馬鹿さんだから、神様に怒られてるのかしら)
そうして、アンナの意識は途切れていったのだ。
安らかな心落ち着く香りに、ふとアンナは目を覚ます。枕と布団の感触に、自分が寝台にいるのだと自覚する。寝てしまっていたのかと思うものの、瞬時にそれはおかしいと気がついたら。
最後の記憶は、公園で雨に濡れる自分だ。
(え、ここは何処?!)
驚く勢いで起き上がるアンナは、寝台側、椅子にもたれ掛かる殿方にさらなる驚きを得る。口が言葉を発する前に、もう少し離れた場所から声が上がった。
「お嬢様、お目覚めになりましたか?」
ややふくよかな女性だ。自分の母親と同じくらいだろうか? 色は地味ながら、それなりの生地のドレス姿。アンナは元平民だが、男爵令嬢として整える羽目になったドレスの関係で、布の価値は少し分かるほうだ。
アンナが何かを言う前に、彼女は続ける。
「お召しになられたドレスは、その……残念ながら染み抜きも出来ない状態でして、今替えの物をご用意いたします。また、頬の怪我もお医者様に診ていただきましたので、ご安心を。跡は残らないそうです。今、温かい飲み物をご用意いたしますね」
「……あの、その」
「ああ、大変失礼致しました。お嬢様、こちらはケイマン伯爵のお屋敷でございます。そして、こちら少々眠りこけています残念な殿方が、我らが主人のスカイラー・ケイマン卿でございます」
その声に、当人が起こされたのか。瞼が上がる。銀をまぶしたような翡翠の瞳が、アンナを捉えた。
それから、近くに侍る女性を見る。
「サリー随分な紹介じゃないか。……まいったな。少し目を瞑っているだけのつもりだったんだ。さて、こんにちは、見知らぬお嬢さん。雨降りの公園はお昼寝するにはむいてないから、僕が回収させてもらったよ」
「あの……このたびは本当に、ありがとうございます。わたしは」
言いかけて、スカイラーの指が一本アンナの口元に添えられる。触れはしないが、言葉を止めるには十分だった。
「お礼にはおよばない。僕は、君にお願い事があるからね。それを聞いてから、必要と思うなら述べてくれないかい」
「お願い事ですか?」
「そう。見たところ君は婚約者もいない、年若い女性のようだ。確か……アンナ・スミス男爵令嬢だったかな」
言い当てられ、アンナはどきりとする。
「よくご存知で。その通りでございます」
「僕は人の話に目敏い、残念で軽薄な友人がいるからね。それでだ、スミス男爵令嬢。君にとっておきのお願いがある。君は口の固い真面目なご令嬢と見て……特別に」
目を細めるスカイラーは、優しげな顔ながらもどこか油断ならない緊張感を滲ませた。少し長めの前髪を払う仕草が、舞台役者のよう。
均等に並べられた目も鼻も口も、歪なものはどこもない。似顔絵を描くならば、きっと半分だけで済むだろう。もう半分は、鏡に映せば良いのだから。
そう思えるほどに、見事な顔だった。そこへ、左右で変化をつけた髪型がよく似合う。カカオ色の髪は色も相まって甘そうでいて、刺激を匂わせる金が交じり合い不思議な色合いに魅せていた。
瞳といい、髪といい、特別な容姿の殿方だ。
その彼が言う特別なお願いとなれば、随分と怖いことに思えてしまう。アンナは誤魔化すように肘を抱き寄せ、身を縮めた。
「旦那様、お嬢様が怯えておいでです」
咎める一言に、彼は大袈裟に肩をすくめた。
「そんなつもりはないよ。アンナ嬢もリラックスして欲しいな。僕はね、恩には恩で返す方針だ。だから君に対して悪いことじゃない」
雨はまだ外で降り続けているらしい。窓ガラスの向こうは曇天で全てをずぶ濡れにするよう。
「──アンナ・スミス男爵令嬢、どうか僕の婚約者になって欲しい。君の身の程をわきまえた姿に、僕は大変心打たれたんだ。返答は了承しか欲しくないから、よく考えて」
その台詞の後で、壮大なため息をサリーが溢す。首を振って、そうじゃないと言いたげだ。確かに、アンナもびっくりする内容だ。口説き文句としては、あまり耳にしないタイプかもしれない。
けれども、嫌ではなかった。
「伯爵様は、わたしの身の上をご存知で仰っているのですね? その上で、わたしを仮初の婚約者としてご所望ですか」
「僕……君みたいな子、好きだよ」
また側で、サリーが残念な顔をする。
アンナも分かっている。彼の好きは愛してるではないと。人でなしが口にする好意と似たようなものだ。
「そう、僕は婚約者が必要になってしまって困っている。だけどそこら中にいる飢えた令嬢なんかは、お断りで断固として要らない。僕の話を理解して、誠実に協力できる相手が望ましいんだ。スミス男爵令嬢、君は感情に流されずことを成せる人だと思うから、僕の理想の女性なんだ」
これほど胸が全くときめかない褒め言葉もないだろう。むしろ一周回って楽しいかもしれない。アンナは汚泥に足を取られ転んだことを、しばし忘れた。
ジョンの顔も、惨めに這うように許しをこう自分も、頬張ったベス嬢のことも、全てどこかへ押し流した。
「ケイマン伯爵卿、お話謹んでお受け致します」
こうして、アンナはスカイラーの仮初の婚約者となった。何故、彼に婚約者が必要になったのかは、すぐに知れた。体が弱いとして国外にいたメッツアー侯爵令嬢コートリー嬢が、療養から帰ってきたからだ。
コートリーはスカイラーよりは十歳年下だが、貴族の婚礼にそのような歳の差など関係ない。特に女性が若い分には何も言われない。
しかも、コートリーはスカイラーの幼馴染らしい。スカイラー曰く、ほんの一年弱田舎で会ったことがあるだけの関係だそうだ。けれどもコートリーからしてみれば、運命の相手だと言う。
だから隣国まで行って、体を丈夫にしてきたのだ。また、彼の婚約者が空席だったのも理由となった。自分を待っていたと思い込んでいる。若く美しいだけあって、よりそれが強固なのだ。
「まあ、スカイラー様お久しぶりですわ」
「これはこれは、メッツアー侯爵令嬢。お久しぶりですね」
「わたくし、スカイラー様に再会できる日を指折りにお待ちしておりました。本当に……ああ、やっとこの身も健やかとなり、貴方様のお気持ちにもお応えできるようになりましたわ」
「実は、メッツアー侯爵令嬢にご紹介したい方ができたんです。こちらは、僕の運命のお相手で揺るぎない愛を捧げる女性である、アンナ・スミス男爵令嬢」
アンナは、丁寧な仕草で挨拶した。この日のために、スカイラーの屋敷で何度も何時間も教育を受けてきたのだ。
「ご紹介に与りました、アンナ・スミス男爵令嬢と申します」
けれども、コートリーは無視をした。
「今度、我が家にお招きしますわスカイラー様。また子供の頃のように、お話してくださいませ」
想定内だ。
そんなにポッキリ心折れて諦めてくれる相手ならば、スカイラーとてアンナに婚約者は頼まない。これでもか、これでもかと、二人の仲を見せつけるしかない。
誰も彼もが噂する熱愛婚約者同士にならねば、駄目なのだ。いやいやきっと、それ以上か。コートリーの恋に染まった瞳は、生半可なことでは消えそうになかった。
「メッツアー侯爵令嬢、残念ながら僕は最近忙しくてね。ずっと行けそうにないんですよ。ああ……美しくも可憐なレディをここで足止めしては、この場の若い方に怒られそうだ。──では、失礼」
「お待ちに……」
コートリーの呼びかけなど、まるで耳に入らないよう。向きを変えると、足早に、しっかりとアンナをエスコートしながら立ち去る。隣の傷心の婚約者に夢中だと、彼の背中は語りだす。
銀をまぶした翡翠を向け、アンナの腰を抱き寄せる。心細く思った彼女を慰めるよう、口元が耳元へ。
「上出来だ、アンナ嬢」
「そうですか?」
「無視するぐらいには、我慢ならないらしい。君は愛し愛された、僕の婚約者だって伝わってるようだ」
布石に、あちこち数回二人で夜会に出席した甲斐があるというもの。スカイラーは長年婚約者もいない魅力ある男性だ。コートリーの存在は見えていても、誰もが気にしていたのだろう。目を付けられていた独身貴族。
それが男爵令嬢をいきなり連れて、婚約者だ、運命の相手だとのべつ幕なしに触れ回ったのだ。誰だって食いつくはずだ。
コートリーよりも二つ上、まさに適齢期の女性。その相手を引き寄せ、式はいつにしようかな、なんてスカイラーは惚気ている。
予想通り、今期の社交界の話題となっていた。
「このまま、僕に合わせてくれるね」
アンナは頷く。
「本当に、君は物分かりがいいな。他の人間は知らないが、それはなかなかに得難い資質だ。人によっては損をするだろうけど、僕に関してそれはない」
「恩には恩で返すから、ですか」
「ああ、アンナ。君の賢くも大らかな心と信用を、僕なら絶対に裏切らない」
見せつけるように、彼がアンナのこめかみに唇を寄せる。どこかの年若い令嬢が憧れの目を向け、またどこかのご婦人があらあらと口元を扇子で隠す。
なんて可愛いだけのおとぎ話だろう。男爵の娘が伯爵の見目麗しい殿方に見初められるのだ。彼は侯爵令嬢には目も向けず、婚約者をひたすら愛する。
しかも娘は一代男爵、これをおとぎ話と言わずして、どうする。
煌めく装飾品に、センスの良いドレス。クルクルと眩いフロアでダンスを踊り、アンナは与えられた夢を存分に楽しむ。
これは人生のほんのひとと時。
自分が最も輝いていた、一瞬の思い出となるだろう。
ケイマン伯爵は婚姻し異国へ、愛する妻と旅に出る。そうして事故に遭い、伴侶を失うのだ。これはコートリーの執着の深さで変わる筋書きだが、しぶとくつきまとうなら最終的に起る予定調和。
その前で諦めてくれるなら、婚姻までいかない。どちらにせよ、スカイラーはアンナにまとまった報酬を支払うと約束してくれた。しっかり契約書までしたためた。
それなのに、どうしてだろう。
ほんの些細なことで、アンナの心の知らぬ箇所が揺れる。震え、忘れてしまいたい音色を奏でる。それはいけないことだと知っているのに、愚かさを歌いだす。
どうして、振り上げられた掌からアンナを庇うの? 陰口を囁かれ、悪意の洗礼を受けても同じ。それは仮初とはいえ、婚約者だから当たり前。
傷を負ってまで暴漢から身を守るのも同じ。「怪我をするのが君でなくて良かった」と、ボロボロの姿で微笑むのもそうなのだ。荒事には向いてないのに何をしてるのかと、従者にも叱られた彼は胸張って言うのだ。騎士に憧れる少年の無垢さで、それとも世の理想を語る大人としてなのか。
「愛する者ひとり守れぬ男が、婚約者へ愛を語ったとして誰が信じてくれる。僕は当たり前のことをしたまでだ!」
次はもっと要領良く立ち回ると豪語し、無傷のアンナに約束までしてくれた。
(分かっている。分かっている……わたし、分かってるから)
汽笛が鳴る。
海鳥が喚き、鉄で出来た船が息吐くように煙を上らせた。塩辛さと生臭さはこの場所特有の香りだろう。船はとても揺れると聞く。自分は酔わないと良いのだけれど。
天井のもっともっと上では、甲板にいる旅人へ安全を願う人々の声がする。
その最中、冷たい視線がアンナを刺し貫く。
「おぞましい、女」
目の前の相手に吐き捨てられた。
座らせられたアンナのドレスの裾を、彼女が踏みつける。
「よくもまあこんな事出来るわね。卑しさで、わたくし吐きそうだわ」
それは自分が一番自覚あることだ。
「でも、これっきりよ。さあ……この国から出ていってくださらない!」
コートリーの言う通り、アンナは顔を上げる。
馬鹿な夢見た代償を、払う時が遂にやって来た。この船の行き先は、よく知らない新大陸だ。一攫千金の夢を見る者が、大志を抱き海を越える。その先は苦労ばかり見えるのに、熱病に罹ったように朧げな幸福へ手を伸ばす。
アンナも同じ。
だから、この終幕が相応しい。
全てをコートリーに知られていた。怒りに満ちた彼女の感情は、とても正当なものだ。
足下にはトランクがひとつきり。中身は知らない。用意された物なので、想像するしかない。ただ、コートリーが言うには、ちゃんと手切れ金が入ってるらしい。高位貴族のお嬢様らしい、甘さだ。
バタンと扉が閉められて、アンナは船客室に取り残された。押し付けられた手には、チケットが一枚。帰る場所のない片道の旅行券。
彼に贈られたドレスもアクセサリーも、身に着けたものは全て奪われた。着ける資格がないと罵られ、もっともだと思う。思い出は、いつだって胸にあるからきっと平気なのだ。
顔も声も忘れない。
アンナの大切な二番目の恋。
実ってはいけなかったこの想いは、見知らぬ地に埋まるだろう。掘り起こさず眠ってくれる。
(スカイラー、さま)
呟きは、ひっそり部屋に溶けてしまう。
否、そうだった。
しかし、廊下をけたたましい足音が駆け巡る。ドアを開けたり閉めたり、その音はアンナの船室までやって来た。
「アンナ! アンナ、何処にいるんだ!」
止めに入っていた船員を払いのけ、侘しい部屋へ転がるように入ってきた。その身は怪我が治りきらぬ、痛々しいもの。
「どうして、僕からいなくなる! 僕は言ったはずだ、恩には恩で返すと。こんなこと到底許されない」
「いいえ、いいえ、わたしが悪いんです。だからスカイラー様は、お戻りになってください」
「そうすれば、メッツアー侯爵令嬢が僕を守ると言ったのか? 馬鹿な、僕は僕の身ぐらい守れる男だ!」
そうだ。コートリーは言ったのだ。
スカイラーはとある事情で命を狙われていて、アンナがいるからこそ怪我をしたと。その上アンナは仮初の婚約者で、別れる予定で、彼を守る力もない。彼女が怒るのも無理ない話。
「君は思い違いをしている!」
きっちりと毎日整えている髪を乱し、スカイラーはアンナの側へ。椅子に座ったまま動けずにいる彼女を見つめ、口を開く。
「いいかい。この怪我だろうと、狙われていることだろうと、何も出来ないなんて言う君の存在だろうと、何ひとつ僕を損なっていない。こんなもので僕は怯まないし、ましてや好きでもない女性に守られるなんて、屈辱以外の何物でもない」
「……そう、でしょうか」
「そうなんだよ! もし、覆せる相手がいるならば、それは……ただひとり。アンナ・スミス男爵令嬢、君だけだ」
翡翠の瞳が細められ、そこに散らばる銀が熱を孕む。稀有な宝玉のような両眼は、ひたすらアンナだけを映していた。
「僕は……君の愚かな献身と選択に敬意を示す。その途方もない盲目さと、知性をあらぬ方向に走らせた根源を、歓迎してるんだ。ええっと、つまり。いや……僕は、その、」
ぎぃと、床が軋む。
瞼を閉じた男が、まるで神の啓示を受け取るかの如く、厳かに跪いていた。
「アンナ、君を愛しているんだ。どうか僕と正真正銘の、婚約者となって、いずれ神の御前でその想いを誓って欲しい」
「……相変わらずですね。きっと、サリーさんが残念がりますよ」
「これは僕の生まれついた性分だから、もうサリーも諦めるさ」
なんて、なんて、ロマンの欠片もない求婚だろうか。正直に言えばいい訳ではない。
だけどアンナは、こんな台詞に弱いのだ。弱くなってしまった。見た目は華美な貴公子なのに、口を開いて言う思いの丈がこれだなんて、誰もが想像つかないだろう。
人の口に上がるのは、砂糖山盛りの夢みたいに甘い囁きだと思われてるに違いない。
「さあ、アンナ。返事を僕に聞かせてくれるかい?」
「あら、せっかちな殿方はいけません。もう少しだけ、わたしに時間をくださいね」
涙が乾きかけの顔で、アンナは微笑む。こんなかぴかぴの酷い顔なのに、スカイラーは頬を染めそわそわしながら待っている。
八歳も年上の紳士なのに、まるでおやつを待ちわびる子供で可愛らしすぎる。
ああ、もう。──なんて人かしら。
また泣いてしまう、とアンナは思うのだ。
「わたしも、貴方だけをお慕いしております。ええ、仲良く神の御前で誓えるほどに、死ぬまでお別れしませんわ」
「そうだって、僕は分かってたさ! アンナ愛してる!」
仕方ない人と、アンナの眦は再び涙に濡れるのだった。
前作へのブクマや評価、いいね、本当にありがとうございます。
ものすごく励みになっているので、今作が書けました!
こちらも楽しかった、良かった、と感じましたら評価お願いいたします!