08
足音を強く鳴らしながら、アオイは速足で廊下を駆ける。
「待てって!アオイ!」
何とか追いつき、手を掴んで速足の彼女を止めた。
「何よ!離して!」
振り向いたアオイは目に涙を溜めていた。
「斎藤も悪気があったんじゃないんだ。混乱してるだけだ」
「悪気が無かったら何を言ってもいいわけ!?・・・ふざけないで!侮辱されたのよ!?どうしてユウキは怒らないの!?」
「だから、斎藤はそういうつもりで言ったんじゃないってば!あいつだっていっぱいいっぱいなの分かるだろ!?」
「何であんな奴の肩ばっかり持つのよ!!」
「そんなつもりはない!いいから落ち着いてくれ!」
息を荒げながら、僕らは見つめあう。
彼女は顔を歪めていた。その表情には様々な感情が渦巻いている。
「あいつが嫌みを言ったり、僕たちに悪口を言うような奴じゃないってアオイもよく知ってるだろ?動揺してるんだよ。父親がいなくなったのが昨日の今日だからしょうがないじゃないか」
「あいつの言うことは全部憶測じゃない!手紙を残したから何なの!?本当にその変なマンションに向かったの!?ただの家出かもしれないのに、悲劇の主役面しちゃって気に食わないのよ!」
「でも親がいなくなったのは事実じゃないか。それは僕らと同じだよ、親を失う苦しみをあいつも知ってしまったんだ」
「・・・でも、それでも許せないじゃない。私たちのことなんて誰もわかりはしないのに。どうしても腹が立っちゃうでしょ?私たちのケースと、あいつの親のケースは全く違うのよ?私たちの方がずっと・・・ずっと・・・」
苦しかった。
あるいは、辛かった。
アオイはそう言いたかったのだろう。
僕らは目の前で親を失い、十歳で孤独の世界で生きることを余儀なくされた。
孤独と孤独が二つ合わさって、支え合ってようやく歩みを進めて生きながらえた僕らにとって、たかが片親が失踪したくらいの苦しみなんて、大したものではない。
親がいなくなる苦しみなら百歩譲ってわかってあげるが、それでも死んでしまったとまだ完全に決まってない今の状況で悲観するなんて馬鹿らしい。
彼女はそう思っているのだろう。
でも。
「僕らが慰めることだってできるんだよ。斎藤が助けてほしい、理解してほしい、と思う気持ちを僕らが救ってやることができる。アイツは悪気なんて無くて、きっと純粋に理解してほしかったんだ」
かつての僕がアオイを離さないと誓った。僕のためにも、アオイのためにもそう誓った。
それはただの傷のなめ合いと言われれば、その通りなのかもしれないが、必要に迫られた人間にとって、それだけの関係でもどんなに心が安らぎ、尊いものなのか僕らは知っているはずだ。
「それでも・・・私は嫌だ」
アオイは歯を食いしばりながら言った。心の底から絞り出したような声だった。
「・・・どうしてだよ?あいつの立場になって考えてやれるのは僕たちだけじゃないか」
「それが嫌だって言ってるのに、ユウキはどうして気づかないの!?」
アオイの顔はより一層険しくなって僕を睨むように見つめる。
「事故からもう六年以上経つのよ!?いつまで、いつまで私たちは親がいないことで悩まされなきゃいけないの?いつまで私たちはあの事故を引きずって生きていかなきゃいけないの!?もううんざりなの!私たちは親がいない、だからって同じ境遇に陥った奴を、どうして温かく迎え、慰めなければいけないのよ!そんなの嫌!そんなことに義務はない!」
「わかってないようだから教えてあげるけど」と続けながらアオイは僕にずいと近づいた。
息がかかるほど近くまで迫ったアオイの迫力に思わず僕はたじろいで一歩下がった。
「私はね、ユウキ、あの事故から抜け出したいの!仲間が増えたことで、いつまでも傷をなめ合うなんて私は御免よ!そんなのユウキだけやっていればいいじゃない!私を巻き込まないで!」
「アオイ・・・」
息を荒げるアオイ。
心の底からの叫びに思えた。
涙がとめどなく溢れていて、僕を見る濡れた瞳には激情の光を灯している。
堪らなくなったのか、涙をブラウスの袖で拭いながら、彼女は嗚咽を漏らし始めた。
僕はどうしていいか分からなかった。
人気のない廊下にアオイの悲痛の声が静かに響いていた。
それから数分、少し落ち着いたのか、アオイが口を開いて言った。
「・・・・・・ねえ、ユウキ」
先ほどとは打って変わって、細々とした声で云う。
「・・・私、新しい生き方が欲しいの。あの事故に人生を狂わされたまま生きていたくないの・・・。ユウキとは一緒にいたいと思ってるよ?・・・けど、もう親がいないとか、火傷の跡が残ってることに悩まされるのはたくさんなの・・・」
今の生き方は辛いの、と最後にアオイは付け加えて俯いた。俯いた拍子に涙がポロポロ光りながら、床に落ちていった。
「・・・・・・ユウキはどう思っているの・・・?」
「どうって・・・」
丁度その時、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、僕らだけの空間を切り裂いた。一瞬、教室に戻らなくちゃ、という素振りを見せてみるが、しかし、アオイは今はそんなこと関係ないと言わんばかりに、黙って僕からの答えを待っていた。
彼女の目は真剣だった。
真っすぐと僕を見たまま、少しも目線を逸らしたりしない。
正直に心の内を吐露すると、僕はアオイと違い、今の生活に疑問も不満もなかった。加えて僕の本心はアオイにとって最悪な答えになると確信していた。
だから躊躇った。
素直にそういえば、彼女の機嫌は直らないだろう。でも嘘をつくほど、偽りたくはなかった。彼女に本心を隠して生きていくことはどうしても避けたかった。
ジレンマだ。
単純なジレンマ。
しかし、それは彼女の求める解答を導き出せないジレンマでもある。
しばし考え、僕は静かに口を開いた。
「アオイがそんなことを思っているなんて知らなかった・・・気づいてあげられなくてごめん。けれど、重ねて謝るよ、ごめん。僕はあの事故を忘れて生きてはいけない」
僕の言葉にアオイは目を見開いて絶望したように「どうして・・・」とかすれた声で呟いた。
その様子を見て僕は今すぐ今の言葉を取り消して、アオイの想いに同調するべきだったと少し後悔した。
しかし、それでも出てきそうだった弁明の言葉を飲み込みグッとこらえた。僕は自分を偽ることなく彼女に本心を告白することを選んだのだ。
それが彼女に対する本当の僕の在り方だったからだ。
彼女の機嫌を持つために選ぶ言葉では真に彼女に向き合うことにはならない。
彼女が今混乱しているならば尚更、真摯に向き合うべきだと僕は思ったのだ。
それは彼女を傷つけたことに対する言い訳にも似た思いだった。
「確かに僕らはあの事故によって不遇な立場に追いやられたのは事実だ。両親は死んで、事故の傷跡は後遺症になって今も残っているしね・・・・けれど、あの事故が生み出したものはそれだけじゃないだろう?」
「・・・他に何が?」
「・・・お互い孤独になって、傷を負って、それでも僕らには大切な人間ができただろう?僕にはアオイが、アオイには僕が。お互い支え合って六年も生きてきた。それに多分これからもずっと・・・」
「・・・・・・そうかもしれないけど、でも・・・」
「僕は今でも幸せなんだ。あの事故で失ったものは多かったけれど、僕らがこうして親しくしているのはあの事故のおかげだっていう事実を僕は無視したくない」
「まさか!事故のおかげだなんて・・・!」
「もちろん、ラッキーだったなんて思ってないよ。けれど、今こうして幸せを感じる理由の一端にあの事故があるのは間違いない」
僕は続けた。
「君は怒るかもしれないと思ってたけど、でも、僕の言ってる意味わかるだろ?だって僕らは
――――――唯一無二の、二人きりだから」
「――――――――――」
それは静寂か、それとも沈黙か。
僕とアオイの間に、一瞬、時間が止まったような静けさが訪れた。
しかし、徐々にそんな静かさの中でざわめくノイズのような音。
学校の喧騒などではなく、耳に障る不快さを孕んだ、幽かなざわめき。
その中で、アオイは複雑な表情をしていた。今までに見たことないほど混沌にうずもった感情が映し出されている。
混乱に加え困惑させたことで、アオイの精神の許容量を超えたことで、彼女は言葉を失っているようだった。
僕を虚ろに見つめている。
どうしてだろう。
僕はその姿が、とても不安に感じた。
どこか儚く、崩れてしまいそうに思えてとても不安定な姿だったのだ。
「そ、そんなの違う!ユウキ、そんなの間違ってるよ!」
駄々をこねるように声を発したアオイ。その目からまた涙が零れ落ちた。
「事故があったのは確かに無くならないけど、あの事故のおかげだなんて思っちゃダメ!私が今幸せだとしても、ユウキが今幸せだとしても・・・あの事故のせいで私たちの人生は狂ったのも間違いないでしょ?!あれは悪夢なの!悪夢からは苦しみ以外何も生まれない!それを肯定するなんて間違ってるよ!あんなこと忘れるべきなのよ!!」
「・・・・・・ごめん、アオイ。そこだけは譲れないんだ。あの事故から六年間、苦しかったことも多かったけど僕は君がいたから乗り越えてこれた。僕たちが支え合って生きてきた前提には必ずあの事故があるんだ。事故が良きものだって思ってなくても、忘れることなんてできないよ。新たな生き方がしたいと思うなら、あの事故も受け入れて生きていくべきだと思う」
「そんなこと言わないでよ!どうしてわかってくれないのユウキ!!」
遂に発狂したように大声を上げるアオイ。
「僕だって君の気持ちがわからないわけじゃない!けど、君も僕の気持ちを少しはわかってくれよ!」
「そんなの分かるわけないじゃない!」
「わがまま言わないでくれよ!」
声に先生が気づいたのか、遠くから不意に怒鳴り声が聞こえた。
「お前たち!何をしとるか!」
廊下のはるか先から、数学教師がこちらへつかつかとやってくる。
それを見るとアオイは僕をきっと一睨みし、走って逃げていった。
「授業中だというのに、何年何組のものだ!」
「・・・・・・すいません」
「おい!こっちを向かんか!」
「・・・・・・すいません」
アオイとの言い合いで精神が摩耗したのか、僕は茫然自失になっていた。
最悪な終わり方で、僕らの昼休みは幕を閉じた。
お互い想像以上に頑固者のようで、それから数日間は口も聞かなかった。
そしてようやく僕らが再び会話をするようになった頃、斎藤は学校からいなくなっていた。
先生は家庭の事情としか告げず、クラスからは不穏なざわめきが起きた。
僕と彼女だけがその理由の一端を知っているが、誰かに教えるなんてことはもちろんするわけもなく、数少ない友人がとあるマンションにより消えていった事実を、僕らは静かに胸に潜めたまま残りの高校生活を過ごしていった。