第一話
額に流れる玉のような汗を厚手のハンドタオルで拭いながら、時計を見る。あらゆる方向からセミの声が聞こえてくる。暑さで倒れてしまいそうだ。日射病になりそうなほどの暑さの中、次に営業を掛ける家を慎重に探していた。僕は就学前の子どもを対象にした、英語教材の営業をしている。当社御自慢の教材の良さをお母さんたちにアピールする毎日だ。
「もう、四時か…」日が傾いてきているが、今日の外回りはまだ終わりそうにない。
「はぁ、月末なのに今日も売り上げ厳しいなぁ…」売り上げ目標に達していない伝票を見るたびに深いため息がでる。
『こんな売り上げじゃ、今日は営業所に帰れないな…どうしたものか…』うだるような暑さの中、今朝の営業所会議での所長の話が何度も何度も頭の中で鮮明に繰り返される。
「月末だぞ。分かってるな。今日は、売り上げをしっかり作ってくるんだぞ。目標に達していないなら営業所に帰ってくる必要なんてないからな。」
『そんなこと言われなくても分かってるよ。』と思いながらも、いかにも『仕事頑張ります。』という表情をしながら返事を返す。
「よ〜し、今日も頑張って売ってきてくれ。頼んだぞ。」
「分かりました。売り上げ確保してきます。」と自信を持って応える。
しかし、現実は甘くないのだ。入社以来、何度も経験してきた月末。四時から後、一セットの教材を販売するのは至難の業なのだ。この時間帯、家庭のお母さんたちは夕食の準備を始め、英語の教材どころではないためだ。厳しい条件の中、僕は一軒の家に狙いを定め、神様に祈る思いでインターホンのボタンを押す。
「はーい。どちら様ですか?」と若いお母さんの声がインターホン越しに聞こえてきた。
「私、キャット商事の里中と申します。本日は英語の教材をご紹介したいと思いお伺いさせて頂きました。是非、当社の教材をご覧いただけないでしょうか?」このセリフを言うのは何回目だろうと思いながらも返事を待つ。
「すいません。今、夕食の支度をしてまして、お話を聞く時間がないんです。すいませんが日を改めて下さい。」インターホン越しでも面倒臭そうにしているのが伝わってくる。
『そりゃそうだよな。』と思いながらも、
「お忙しい時間にお伺いして申し訳ございませんでした。ポストに当社のパンフレットを入れておきますので、ご興味があればご連絡頂ければと思います。よろしくお願いいたします。それでは本日はありがとうございました。」とこれもまた言い慣れたセリフだ。
「はい、また見ておきます。」の一言でインターホンの切れる音がした。
この後も数軒の家を回り、いつも通りのセリフでいつも通りの営業をしたが、結局、教材は一つも売れなかった。
「はぁ、もう六時か…さすがにこれ以上は無理か…」所長の鬼のような顔が鮮明に頭に思い浮かぶ。
売り上げを報告した瞬間、数十分前に想像した鬼の顔が現実のもになった。会議室に呼ばれ、しっかり三十分もの間怒られ続けた。