「 互いに飲み込み合うヒキニートなんだろうねw(2 」(省略形サブタイトル)
大竹は走っていた。
怖さから逃げ出すように。
暗さから抜け出すように。
照明スイッチがある壁際へと。
一秒でも早く明りが欲しかった。
けれど――。
「あれ、なんで! どうしてよっ!」
前に。
「意味わかんないッ!」
進めない。
慌てて視線を下に向ければ、そこには自分の足がない。
「ッッッッッッ――――いやあああああああああああああぁあああああああぁああ!」
それどころか、腰から下の自分の体が消えている。
大竹は自分の下半身が消えるというあまりの恐怖に尻餅をつき、普段なら絶対につくらない不細工な表情を浮かべる。
「いや、え……なんで?」
混乱していなければ、そのときに気付けたはずだった。
下半身がないのに、〝どうして尻餅をつけたのか〟ということに。
「なに、これ……? やだよ。足がなくなっちゃったよ……なんでよぅ……」
涙が溢れた。自分の身に起きている事があまりにも恐怖を煽ってくる。
痛みなんてこれっぽっちも感じてないのに、とても痛かった。
「もうやだ……もうやだよ……」
だが、終わらない。
世界は変容を続ける。
ギィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィンンンンッ!!! と。
声まで詰まるような強烈な音の爆発。
はじめのうちは馬鹿でかい音量の耳鳴り似たそれは、次第に猿が上げる悲鳴のような、あるいは硝子を金属片で引っ掻いたような不快な音に変わっていった。
次いで起こるのは、景色の湾曲。
オフィスに並ぶデスクが。
天井に並ぶ蛍光灯が。
壁際に並ぶ大きな窓が。
水面に映る絵のように。
ギュルリ――――と歪み、捻じれ、捻じれ、ねじれ、ネジレ……。
極限まで捻じれた布に穴が開くように。
―― 世界が破けた ――
「ひぃっ!」
ズオゥッ! と排水溝に水が吸い込まれる音を何十倍にもしたような轟音とともに破れた空間は、端からゆっくりと周囲の空間を飲み込み始める。黒と白と灰色と紫と濃紺と茶色と土留色がマーブル状に混ざったような、気味の悪い色をした裂け目の淵からは、赤黒く腐った血液のような何かがドロリと溢れる。
それはまるで、世界が涎を垂らしているように。
だから思う。
世界に喰われる、と。
「お母さん……助けてぇ……ねえ! お母さんってばぁ!」
感情の極限。大竹も母を呼ぶことに意味があるなんて思っていない。残業中のオフィスに母親はいないなんて理解している。それでも、叫ばずにはいられなかった。
だってこんな現実、受け入れられない。
大竹は、この状況で自分が助かる未来を思い浮かべることが出来なかった。
世界が裂ける壊れた世界で、どうすれば生き続けられるか考えることも出来なかった。
だから達観することすら出来なかった。
大竹の中にあるのは、たった一つ。
「死ぬのは嫌ぁ!」
だから大竹は、助けを願った。
助けを呟き、助けを懇願し、助けを心から求た。
「助けて、助けて、助けて下さい、助けて、お願い、助けて、します――だから!」
必死に、精一杯に、助かることを最後まで諦めず、諦めきれず、大きな声で欲した。
「誰か……助けてよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
だから。
だから。
だから、こそ。
『ああ、助けてやる』 ―― 願いは叶う。
届く声。
どこからともないその響きの直後。
バオウッ! と。
世界に空いた穴が、虹のように美しく、けれど凄まじい光に喰い潰され、消えた。
何の納得も、何の感慨も生まれる間も与えない一瞬で、オフィスに夜が戻ってくる。
「は……ぇ?」
驚くことも出来ない呆けた声だった。大竹には何が起きたのかわからなかった。
唯一、それまであった耳鳴りのような嫌な音と、まとわりつく不快感、恐怖すらもが世界の裂け目と一緒に消えていること、そして、世界に異変が喰い潰されたあと、余韻のように浮かぶ光の残滓が一人の少年を照らしていることだけは目に映っていた。
だれ? そうは思うが、大竹の口に言葉を発せるだけの余裕がない。
だから、見つめる以外に出来ることもない。
少年は、オフィスを見渡すように視線を動かし、ほどなく大竹に歩み寄った。
そして、見つめ合う。
大竹の感想として、
(不思議……でも、綺麗な瞳……)
薄暗いオフィスにいても少年の目が見えるのは、その眼が人間ではありえない色に輝いているから。比喩表現としてではなく、実際に光を発している。
虹のような、いくつもの光がマーブル模様に混ざり合う、美しい光。
その光は瞳だけではなく、少年の左手も湯気や靄のように包んでいる。
大竹にとってその光は、さっきまでの混乱を忘れさせる、とても優しいものだった。
少年の言葉が不意に響く。
「世界の矛盾は元の状態に戻した。あとは、あんたを起点に重なっちまった船を、元の流れに戻してやるだけだ」
光る瞳を持つ少年は不思議で理解の難しいことを言う。
髪を適当にワックスで纏めたような少年。着ているのは学生服。学ランという、2070年現在にはなかなか希少になりつつあるそれのボタンをすべて外して、中の赤シャツを晒すという、だらしないと言える恰好。
目の前に立つ少年を座り込んだ状態のまま見上げる大竹は息を飲む。
(この子、大きい……)
決してそれは身長や体格が、という訳ではない。
そう感じさせるほどの圧倒的な存在感が、少年にある。
それこそ、少年と言うに憚れるほどのものが。
そんな少年が、訳も分からず世界に空いた穴を消して、自分を助けてくれた。
彼がどこから現れたのか分からなくても、自分の下半身が消えるという超常現象に未だ苛まれていたとしても、大竹にはもうどうでもよくなってしまっていた。
自分より遥かに大きい存在を前に、心を奪われてしまっていたのだから。
ぽーっと少年を見つめる二十六歳の目はもう何年も前に忘れてきたはずの少女のそれで、見つめ合う時間が長くなるほど、胸が締め付けられていった。
座り込む状態の大竹を見下ろす少年は一拍、おもむろにしゃがみこんで視線を合わせると、唐突に尋ねる。
ただ真っ直ぐ見つめたまま、たった一言を。
「いいか?」
次回 「 お互いにのみ込み合うヒキニートなんだろうねw(3 」(省略形サブタイトル)