自然権論を勘違いしている者は知的財産権の専門家を名乗れない。(自分への戒めも込めて)
なにやら感想にてしつこく特許庁と日本国の運用と思想を理解せず批判する者がいるので、「知的財産権」に関わる「法哲学」について研究する立場から改めて言わせて貰う。
私は「日本人らしさでもって戦後の統治政策を変えた者達」にてその件について触れているが、どうやら文章全体を読んではいないようだ。
知的財産権、そして特許は2つの要素によって解釈される。
「インセンティブ論」と「自然権論」だ。
自然権論自体は非常に歴史が古く、古代ローマやメソポタミア文明まで遡ることが出来る考え方である。
王が市民に対し権利を与える場合に必要となる解釈だ。
国民がどうして王が介入できないような権利を持つことができるのかといった思想に対して生まれたものだだ。
簡単に説明するとようは「人はこの世に命を授かった際、神より権利を授けられている」というのが当初の解釈。
現在においては「人は生まれながらにして権利を持つ」という形だが、君主制の時代において、特にその考えが一般的に認識された時代においては王よりも国家よりも上の存在が権利を与えたと解釈せねばならないため
、根本的には現在も「人は思考し、創造できるのだから、その人に対し創造の力を与えた何らかの者は国家や王といった存在を上回っており、それらに国家が介入することは不可能」という考え。
別に私は死刑反対を掲げる人権団体ではないけど、人権団体はこの自然権論を盾に「国家が人を殺すなどと!」とか富野監督作品のキャラクター風な事を言ってるわけだ。
これは「国家もまた法人などと同じ」とか「殺人など、他者の最大権利を奪う者に対しては同等の義務を背負う」だとか現代的な考え方によって十分説明できるが長くなるので割愛。
対するインセンティブ論は「発明者が発明者らしくありつづけるために」
それこそ「日本人らしさでもって戦後の統治政策を変えた者達」の内容を一部抜粋すると、発明者達に対し、「天才の火に利益という油を注ぐ」行為なのだ。
経済を発展させ、産業を発達させる。
いわば経済活動の流動性の一部を加速させるという考え方。
これは「利益」について直接言及するものではなく、対する言葉は「リスク」であり、「そのままではリスクが大きく精神的に疲弊し、挑戦する意欲が薄れるのを防ぐ」という意味合いが強い。
インセンティブの先に利益という存在があるのであって、インセンティブという存在が経済的利益を意味するわけではない。
いわば「奮起」させるだけの存在だ。(発明の生まれた先に利益がぶら下がっていて、その利益が権利保護によって妨害されないという状況ならやる気も出るだろうというのがインセンティブ的な考え)
これは極論を言えばソビエト連邦成立時代、かつてソビエトが行ったように共産主義の名の下ではインセンティブだけで特許を解釈すると容易に破綻してしまうことを表している。
そのあたりは「日本人らしさでもって戦後の統治政策を変えた者達」の第三部「日本が消滅せず、日本人が約束を守る事に賭けた米国企業」にて記したので是非みていただきたい。
上記において記した問題は、インセンティブ論だけでは知的財産権を全く説明できないということだ。
この当時は「知的所有権」と言われてきたけど、まさに「知的所有権」と「知的財産権」の大きな違いと言える。
所有権と財産権の違いは実は案外大きな差があったりするのだが、所有権は「国家ありき」であり、本来はその国家でしか有効ではない存在だ。
つまり国家が破綻すると「こんなもんケツを拭く紙にもなりゃしねえってのによぉ」と紙幣と同じく破綻する。
「じゃあなんで海外旅行とかで現地に行っても警察は窃盗とかで一応捜査とかしてくれるんだ!」という話になるが、これは国交がある国同士においては双方が「国家」「国籍」というものを互いに尊重するため、「国籍保有者」を対象に「こっちの国にそっちの国の者がきてもそういった権限はこっちの国の解釈ではあるが認めるよ」とやっているからである。
国交がなくとも「人道的見地の立場から」という形で何とかしてくれる状況も非常に多い。
これは敵対関係などが無い場合に限られる。
つまり「国交」などが存在せず、しかも片方ないしお互いが「その地域は国家ではない」などと主張するような状況だとモヒカンと肩パッドが必要になるというのは現代においても変わっていない。
中東の一部では冗談抜きでマッドでマックスな状態だ。(そこで活躍する車両がトヨタの4WD車だったりホンダやヤマハのバイクだったりするが)
んで、そんなことを先進国の西側がみんな主張するため、核ミサイルを用いて抑止力を発揮させ、「我々は国家だ!」と主張する地域がすぐお隣に存在するが、日本国は実は国家としてあの地域を認めていない。
一時期、北朝鮮側は「朝鮮民主主義人民共和国」を日本に名乗らせているが、元々日本国ではかの地域を
「国家」として認めていないため、小泉か安倍政権時代に「北朝鮮に改めろ」と通達し、以降は「朝鮮民主主義人民共和国」という言葉は使われなくなった。(民主党時代に一時期崩れた気がするが、現状では北朝鮮で統一されているはず)
かの地域の者が日本にきても、スポーツなど「人道的な立場による保護」を理由とした者たち以外は日本国において一切の権利が無いことはあまり知られていない。
在日資格を持つ限られた者だけがそういった権利を許されているに過ぎない。
逆を言えば、今世界各国で、そして日本国で問題になっている「難民二世などの無国籍の者たち」などはこういった権利が働かなくなるため、日本国では「強制収容」などが実際に行われている。
強制収容という言葉を聞くとまるでアウシュビッツのようなものを考えるが、単純にただの収容施設であるので安心して欲しい。
国籍が無いということは国家が認めた所有権などの、「国家が国民に与える権利」の一切を受けられないため、そういうことになる。
今日の日本国においては実は20年前ぐらいから「知的所有権」の言葉を用いてはならないということになり、最近では参考書などもそれに即して合わせているが
このような考え方を知的財産権に用いた場合、戦時下や純粋な共産主義においては知的財産権が完全に破綻してしまう。
そこで現代に行くにつれ法解釈が再び見直され、現在においては「自然権論」が基本であり、その中に「インセンティブ論」を一部含む「財産権である」というのが世界共通の考え方である。
財産権というのは自然権論を主体とした考え方であるため、国家ではなく人そのものに帰属する権利だ。
日本では憲法にて「生存権」などという形で記されているものだが、この「生存権」は立派な財産権の一部であり、国家に関係なく人が持つ権利、すなわち「自然権論」の考え方に即して国籍関係なく与えられるものである。
現在において強制収容された者たちは最低限の衣食住の環境が与えられており、実は貧困で喘ぐ者よりも豊かな生活だったりするわけだが、これもまた上記権利によるものだ。
生活保護などもそれらに合わせた考え方である。
知的財産権を「財産権」と定義した理由は、そもそもが当時は「知的所有権」と呼ばれたものが、ジョン・ロックなどが提唱する「労働論」において存在した「労働財産権」などから派生して生まれた存在であり、労働財産権は「労働という人が持つ有限たる時間を消費して行った活動に対しては、かならず対価を与えなければならない」という「自然権論」を利用した考え方が、
「発明」や「商品価値」といった存在に極めて合致するためである。
ようは「その者が有限たる時間を浪費して生み出した創造物は国家、いや世界が全力でそれらを保障していかなければならない」というのが知的財産権の根本を成す考え方だ。
だがこれは極論であり、これを突き詰めると「権利が永遠だと後世の者たちの知的活動が阻害される」という弱点があった。
当初存在した特許法の基となった存在や著作権法の基となった存在は「権利は国家が続く限り永遠」としたため、後続の発明者達が苦労し、それらの活動が萎縮する状態となる。
そこで生まれたのが「インセンティブ論」であり、特許法はこの「インセンティブ論」を中心として各国で誕生していったわけだ。
しかしながら実際には「インセンティブ論」では国家ありきの法律となってしまう。
当初の考え方とは合わない。
そこで戦後あたりから再び解釈が見直され、現在においては「自然権論」を主体とし、「インセンティブ論」を一部含んだ存在として「知的財産権」が解釈され、運用されている。
発明は多大なる利益を生みうることから、その権利の保護は常にインセンティブとの兼ね合いで決定されるため、保護期間が設けられる。
また、審査が必要であるのも、なんでもかんでも認めてしまうとインセンティブという存在が阻害され、萎縮するためだ。
日本国の場合、特許法にて「産業の発達に寄与」という言葉があるが、これがインセンティブを意味している。
だがそれは「利益」に直結するわけではなく、その根本は「人が創造したものはそれ即ち他者が犯してはならない権利を持ちうる」という知的財産権の考えがあって成立しているものだ。
よって「特許登録」という存在に「利益性」などというものはない。
そもそもが「登録」という行為は「他者に実施権などを権利主張できる期間を20年与える」ものではあるが、その発明自体は「永久保護」である。(後の発明の審査に影響を及ぼし続ける)
公開された特許もまた「永久保護」の名の下に蓄積され続ける。(同上)
これらは当然「自然権論」ならびに「財産権」であるからそうなのであって、かつての失敗を参考に上手いこと調整しているわけだ。
ここのどこに「利益性」などがあるのか意味不明というかあるわけないのだが、「利益性は登録の先の実施行為そのものにある」と改めて主張しておこう。
こういった「財産権」が絡むからこそ、「発明者」の氏名や住所が公開公報の時点で公開されるわけだ。
「誰が発明したものなのか」は非常に重要であるため、「プライバシーが云々」なんてものは特許法には及ばない。
なので全力で「全て」公開される。
なぜなら「人に帰属し、その存在を永久に保護する」からである。
私の所にはよく「発明者が指名や住所を公開したくないのですが・・・」なんて相談がくるのだが、
その場合は「では貴方は全ての権利を放棄するということでよろしいのですね? 貴方は発明者という立場を捨てるのですね? 公開された情報が全てなので、氏名を伏せるということは即ち日本国、そればかりか国際出願する場合は世界が貴方を発明者として永久に認めませんがよろしいですね」
といって脅すが、プライバシーの観点からといってここを伏せると国家は特許を保護しきれず特許法が破綻するのでそういうことは出来ないのだ。
ようは「発明の名称に商標は使うことが出来ない」というのは同様の問題によるバッティングだ。
商標においては分類が合致しなければ自由に使用して構わないし、権利者に不利益な状態とならない利益享受のない状態での利用は特段制限が及ばぬ一方、「発明の名称」にて一切の使用が許されないのは「財産権そのものを犯す」からである。
登録された知的財産権は「その者の財産権」として永久に記録されるのだから、それを他の法律で犯すのはその者が生み出した財産権の冒涜行為に他ならない。
商標もまた「知的財産権」として保護される関係上、一般名称化してしまうことは避けなければならない。
それを「特許法」にて形骸化させる行為を国家が手助けする事など許されていない。
こちらも権利主張期間が過ぎても永久に保護されるわけだが、商標の場合は権利消失後に同じ商標にて再出願がある程度の範囲で可能だったりする点で異なる。
ここら辺はそれを説明するとさらに6000文字ぐらい必要なのだが、根本的な考え方は変わらず、一部異なるだけだ。
しかしそれも「財産権」という存在が背後にあるから可能な行為であって、断じて「利益性」などというものだけで片付く問題ではない。
興味がある人たちは是非「法哲学」について調べてもらいたいが、ここにハマると本当に抜け出せなくなるから注意してほしい。