講義が終わって即、異世界に拉致られた
ずっと何処かを探していた。
ずっと誰かを探していた。
夏の雨の匂いに感じる郷愁。
帰りたいと思った。
でも、その場所を私は知らない。
冬の空に寄り添うかなしみ。
その向こうに誰かを感じた。
でも、それが誰かはわからない。
大切なことを忘れてしまっている。
それが何なのか...私にはわからなかった。
人と接するたびに取り繕う笑顔。誰かと話すたびにズレを修正しては普通に近づける。
耐えようのない違和感を抱えたまま生きてきた。
それはまるで空を飛ぶ翼をもつものが地を這う様な。水中の生き物が空を飛ぶ様な。
地上でしか生きられない生き物が水中にいる様な。植物が駆け回る様な。
そんな違和感。
生きるのが辛かった。世界は悪意で満ちていて、それに私は染まれない。染まりたくない。私には、ただ、息をすることさえ難しい。
傷をつけるだけで癒す時間は与えてはくれないこの世界は。
一度立ち止まってしまえば進める道は本数を減らし、荒地へと追いやられる。
生きにくかった。生きていたくなかった。それでも逃げることはできなかった。
小さいときに何度も母が語った話が、私から進む以外の道を奪う。
私の前に在った生まれる前に散った命。
それがいつだって私の重荷になっていた。
兄か姉かわからないその存在の分まで何かをしなければいけない。そんな気がして。苦しかった。
アラームが鳴る前に目が覚める。朝から頭が重い。外は暗くザアザアという雨の降る音が響く。
床だけでなしにベッドの上にさえ物が散乱する部屋。この部屋の主である私は気圧の変化に弱い。
時刻は9時を少し過ぎたころ。講義は二時間目であるからもう少し寝ることができる。もう一度目を閉じると、二度目のアラームで悠月は目を覚ました。
雨は先ほどよりも強まり風の音も聞こえる。
「行きたくない・・・。」
雨の日は憂鬱である。ただでさえ気が滅入っているというのに、余計に沈んでしまう。痛み止めを探し、水と一緒に飲み込む。空腹時は避けるようにと書いてある注意はあえて無視をする。
使用上の注意や用法用量を守らないことはしばしばあった。今回も空腹時に飲んだうえ、一回一錠であるところを二錠のんでいる。
良くないことだとわかっていても、ついつい飲んでしまう。
パジャマを脱ぐとそれをそのままベッドの上に抛る。適当な服を身に着けると鞄にルーズリーフとファイル、筆箱、財布を入れてコートを羽織りマフラー代わりにショールを首に巻く。傘を持って家を出えると鍵を閉める。
外に面していない階段も所々濡れており滑りかけるがなんとか手摺にしがみついた。
危ない。
怪我などしている暇などないのだ。
雨粒が大きく雨足も早い。風が吹いているため雨の向きが不確定で同傘を差そうとも学校に着くまでに大分濡れることが容易く予想できる。
覚悟を決めてアパートの出入り口から出る。時折吹く突風に傘が持って行かれそうになる。
こんな嵐のような雨でも講義が休校になることはない。歩道のくぼみには水が溜まり、横断歩道の始まりと終わりは大きな水たまりで避けるのが大変であった。
大きな交差点を二度渡ると大学までの道のりは緩やかな上り坂である。上から流れる水と、雨にズボンの裾はすでにびしょ濡れで気持ちの良いものではない。
時間ぎりぎりに教室へと入る。いつもより7割ほど人数が少ないように思えた。さすがにそれほどの人数がサボりとは思えないので遅延なのだろう。この雨と風なのだ。バスは確実に遅れているだろうし電車もいくつかは遅れているか下手をすれば運転見あわせだろうことは想像に難くない。
20分遅れで教授が入ってくる。もう少し遅れてくれれば休校になったものを。
しかし、ここで休講になっても雨の中濡れながら来た労力を返してほしくなったことは間違いない。
謝罪もそこそこに出席確認が始まる。出席を確認し終われば授業が始まった。部派仏教の研究というこの講義は30名程度しか受講していない。今は10人いるかいないかといったところで教授は来ている人間を褒めた。よほど体調が悪くない限り私は講義を休むことはないので雨だろうが来るのは当たり前だろうと思う。
ただ、1、2回生が講義をさぼりがちになるのはよくあることであるから教授の気持ちもわからなくはない。
最初の授業で配られたプリントを出す。前回の内容を軽く復習すると続きを説明しだす。4回生にもなれば今までも何度もほかの講義で聞いたものと重複している部分にもどかしさを覚えるものである。それでもおそらくこの部屋の中のだれよりもまじめにノートを取っている自信がある。
わかっていることでもちゃんと書き写した。
「戒律という場合が多いですが、戒と律は別のものです。戒はシーラといい、これは入れ物という意味でしたがそれが転じて習慣や行いを意味するようになりました。」
パーリ語ではsīla、サンスクリットではśīlaと黒板に板書する。どちらも読みはシーラであり、語幹は√sīlでシールと読む。保つや置くという意味だという。つまり、戒は自ら行う良い習慣ということだ。
「律はヴィナヤ。パーリ語でもサンスクリットでも同じです。Vinayaとは、その原意から言うと、別々に、分離、拡張を意味する接頭辞viと、導くを意味する√nīから構成された、動詞Vinetiに由来する、取り除くことを意味する。律は規範であるから罰則を伴うものである。」
良き習慣と守るべき規範。片方は罰則を伴い、片方は罰則を伴わない。
前方の扉が勢いよく開かれる。教室中の視線が扉へと向く。5名ほどの生徒が入ってくる。遅延組だろうか。もっと静かに後ろの扉から入ってくるべきであると思ったのはきっと私だけではないだろう。数名の生徒の顔が軽蔑の色を持っていた。
「遅刻者は静かに、後ろの扉から入ってくるように。授業を中断させる権利はありません。」
教授の言葉に遅延でという言い訳が聞こえるが遅延だからと言って重役出勤よろしく我が物顔で前方から大きな音を立てて扉を開けていい理由にはならない。遅刻者への説教が始まる。ただでさえ雨で体調の関係で精神的に私には余裕がない。無駄な時間を過ごさせるのはやめて欲しい。
結局、説教は40分ほど続いた。そして講義は対して進むことなく終わった。帰り支度をすると早々に教室を後にする。
廊下に出るとそこには珍しく誰もいなかった。それだけではない。明かりが点滅しているのだ。それはおかしなことであった。誰もいないことはありえない。
いくら雨の日で旧校舎といえども二講義目なのだ。ありえない。薄気味悪い。
不意に廊下の電気が消え、あたりが闇に包まれる。長い時間に感じたがそれは一瞬のことであった。また先ほどと同じ点滅する明りの下に悠月はいた。4mほど前方には先ほどまでいなかったはずの男がいた。背は高そうな細身の男性。黒を基調とした軍服。胸にはいくつもの略綬章がついている。この場にそぐわない服装をしていた。
「お迎えに参りました。我が王よ。」
低い艶のある声が廊下に響く。雨の音も人の声も気配も何もない。自分の息遣いと男の声だけしか聞こえない。
男はこちらへ少しずつ近づいて来る。私の身体は固まって動かない。それは未知への恐怖からか。それとも別の理由からなのか。分からない。
手を伸ばせば届く距離。近くで見れば男の顔がひどく整ったものであることがわかる。服の上からでもわかる均整のとれた身体。
細身ではあるがおそらく脱げば無駄のない実用的な筋肉の付いた身体があるのだろう。背はおそらく180後半であろう。長い髪には癖がなく、薄暗いせいで分かりにくいが明るい場所で見れば綺麗な銀糸を見ることができるように思う。
「王よ、如何なされた。」
突然のことに反応することができない。人間は理解できないことに出会うとフリーズしてしまうようだ。
「時間があまりありませぬ故、申し訳ありませんが失礼します。」
そういうと男は私の身体を抱き上げる。それは所謂姫抱きと呼ばれるものであった。決して軽いとは言えない、むしろどちらかといえばふくよかであり重い身体を男は軽々持ち上げた。
「え・・え?あの・・え・・。」
言葉にならない。
「しっかりとつかまっていてください。」
なぜかその言葉に従い、相手の首へと腕を回ししがみつく。よくわからない恐怖から目を閉じる。しばらくすると謎の浮遊感を感じ恐る恐る目を開ければ私は空中にいた。
生身で空を飛ぶ。それは人間であれば不可能である。しかし、男に抱かれた状態で空にいた。雨の中であるにもかかわらず身体は濡れていない。風もなく寒さもない。
「説明はすべて目的地に着いてからさせていただきます。」
そういうと男はさらに高く飛び、雲の中へと行く。雨雲を突き抜けた場所に光る空間が現れる。円形のそれはゲートのように思えた。
想像通り、その光はゲートのようでそこを抜けると景色が一変する。
透き通るような空。青々とした美しい緑。中世ヨーロッパのような街並み。
―私はこの空を知っている。
この景色に見覚えがあるように思えた。
美しい城の中庭へと男は降り立ち、私をおろし地面に立たせる。そこには男とはまた違った美形たちがいた。彼らは一斉に跪く。男もまた彼らと同様に膝をつき、礼を行う。
私は戸惑いを覚えた。
「突然の非礼をお許しください。」
「立ってください。かしずかれる趣味はありません。」
さすがにここまで鮮明な夢などあるはずもなく、現実であると認めなければいけないだろう。
男は立ち上がるが他の面々は変わらず跪いたままであった。
「王は立つようにおっしゃった。立ちなさい。」
男がそういうと恐る恐るといったように立ち上がる。女性も男性も皆が悠月よりも背が高く、美形であった。
「何もわからないので説明していただける
と嬉しいのですが。」
丁寧な口調で尋ねる。何もわからないどう見ても異世界です、な状況で横柄な態度をとれる人間がいるのなら見てみたいものだ。よほどの馬鹿か愚か者であることは間違いない。あいにくと私はそのどちらでもない。
「誘拐のようなことをしてしまいもうしわけありませんでした。私の名前はミカ・エンネと申します。説明は長くなってしまいますのでまずは城内へとお入りください。お部屋へとご案内します。」
ミカと名乗る男が集まっていた人の中でメイド服らしきものに身を包んだ女性に目で合図すると彼女は一礼し城の中へと走っていく。
ここまで来たらどうとでもなれと、ミカに促されるままに城の中へと歩く。
道すがらすれ違う兵士や働いているであろう女性が皆、ミカへと礼をとっている。
彼はおそらく確実にそれなりに上の地位の人間であるのだろう。そして、ミカへと礼をとる人たちの私を見る目は怪訝そうであり、人の目があまり得意ではなため少しだけ泣たい。
なんで訳もわからず連れてこられた場所でそんな目線を多数の人に向けられにゃならんのだ。
心が折れそうになる。
「私の執務室です。どうぞお入りください。」
そう言うとミカ自ら扉を開く。扉の左右にいる兵士が驚いたような表情を浮かべたのを私は見逃さなかった。
「失礼します・・・。」
恐る恐る部屋へと入る。奥へと続く別の扉を開けられそこへと入る。上座にあるソファへと座るように促され、座ると間のソファーにミカが座る。
「あまり大人数で囲むとよろしくないと思いほかの面々には遠慮してもらいました。メイドがもうすぐ飲み物を持ってきますので無 少しだけお待ちください。」
その言葉にうなずく。
ソファーは今まで座ったことのないほどに質のいいものであった。やわらかいのだけれど、やわらかすぎず。
手触りの良い革。
傷つけないようにしないと。
少しするとノックの音とともにカートを引いた先ほどの女性が入ってきた。お茶の支度をすると一礼して部屋を後にした。
「何から話せばよいでしょうか。まずはこの国について説明させていただきます。」
サンスクリットでは語幹は√で表します。