偽クラゲ
創作です
海釣りが好きだ。
釣った魚の大半は美味しく食べられる。
何より、鯉やブラックバスといった淡水魚よりも狙いの幅が大きく、ある程度下手でも釣れる。
そういうことで、筆者は海釣りを趣味にしている。
休みともなれば朝の二時には起きて海へ行くというのも珍しくない。
泉佐野市の釣り場で出会った釣り師の伊坂氏から聞いた話である。
最初にアカン日は釣れんしアカン日やねん、というのが伊坂氏の釣り理論である。
◆◆◆
元金型職人の伊坂氏は定年退職後に釣りを始めたというキャリア的には筆者の後輩に当たる人物だ。
この伊坂氏だが、年数は浅いというのに筆者を遥かに凌駕する腕前の釣り師である。
定年後の退屈さに飽き飽きして始めたと言うが、才能に恵まれたその姿はプロに見えるほどだ。
伊坂氏はチヌ(黒鯛)とイカの名人である。
この二つの対象魚は夜釣りでの釣果が高い。
伊坂氏は連日のアオリイカの釣果に気をよくして、その日も夜のイカ釣りに出かけた。
イカ釣りの仕掛けは単純なものなのだが、場所取りやタナ(水深)の取り方で釣果は驚くほど変わる。奥が深いのだ。
海沿いの国道に居を構える釣具屋で餌を買う。
「まいど、今日もキビナゴもらうわ」
「伊坂さん、今日はS港のとこはやめといた方がいいですよ」
「なんやいな、また警察でも巡回しとるんか」
「なんや今日は釣れん日ィですわ。行きはるんやったら、もうちょっと足伸ばしてM公園辺りがええですよ」
「ふーん、さよか」
店員の情報はアテになるのだが、今日はS港で決めていた。予定をその場で変更するのは好きではない。
店員には「そないするわ」と答えたが、S港に行くことにした。
いつものように釣りを始めた伊坂氏だが、今日に限って全く釣れない。
人気の釣り場だというのに、今日はやけに空いていた。
「人おらんなあ」
風の無いベタ凪の夜の海面は静かで、満月と工業地帯の灯りが空に美しい。
風情はあるのだが、時折国道を走るトラックのエンジン音だけしか物音がしないというのは不気味なものだ。時折聞こえるボラが水面を跳ねるピシャっという水音も、人がいないと不気味に聞こえてくる。
伊坂氏は金型の設計制作に当たっていた人物だ。それが関係するのかは分からないが、幽霊など全く信じていない。
それでも、人気の無い夜の海というのはなんとも言えず気味が悪く感じた。
「ん、おお、キタ」
電気ウキが沈み、合わせてリールを巻く。
イカ特有の感触に不安は消え去った。
感触が重い。すわ、アオリイカか、という思いもむなしく上がってきたのはビニールか何かのゴミのようだ。
「なんやねんな」
竿を傷めないようにタモでゴミを掬い取るという面倒な作業が始まる。うんざりだ。
タモを手に取ろうとした時、ゴミが動いた。
ライトを照らしてみれば、それは丸い半透明のクラゲのような何かだった。
海釣りをしていると、見たこともない生き物がかかることがある。毒があると大変なので、こういう時はトングなどでつかんで海に捨てることになる。
引き上げると、それは小さく鳴いた。
「おぎゃおぎゃ」
発情期の猫か、赤ん坊のような泣き声だった。
ヘッドライトがそれを照らし出す。
仕掛けの針が刺さって痛いのか、それは泣いていた。
赤ん坊の手のように見えるヒレか触手だかが餌のキビナゴに巻き付いて、針に食い込んでいる。
「アカンやろ」
人間と魚の特徴が混ざった、どちらとも違う瞳と目が合った。
その時、バシャバシャと激しい水音が水面から聞こえた。
目をやれば、これと同じような形の大きなものが、無数のこれと共に波に揺られながら近づいてきている。
「アカン、こらアカン」
糸を切って、タモごとそれを海に蹴り落とした。
道具を持てるだけ持って、逃げ帰った。
背後から赤ん坊じみた鳴き声と、誰が演奏しているのかは分からないが、祭りの時にやる笛の囃子が鳴っていた。
逃げ帰ってから、高熱を出して三日間寝込んだ。
伊坂氏が後日知った所によると、その日は地元で行われる小さな祭事に重なっていた。
海の安全を祈願し、地元漁師は休漁して家に篭るのだそうだ。
寝込んでいる間、鳴き声と笛のお囃子が聞こえて大変だったという。
◆◆◆
伊坂氏は朝からハゼしか釣れない筆者の目の前で三枚目のチヌを釣り上げた。
「んでよぉ、俺もあれから祭りの日とかは調べることにしとるんや」
「うわ、怖いですねえ。その日ぃ、いつが教えて下さいよ」
チヌの針を外し、魚籠に放り込む伊坂氏の様は熟練に相応しい流れるような手捌きだ。
「あかんで、あんた釣った魚生殺しにしたりエサを無駄にしたりしてるやん。一回当たって反省し」
そう言って伊坂氏はにやりと笑った。
奇妙な節の口笛をやりながら、針に餌をつけている。
豊漁を祈願し、筆者もその口笛を真似てみた。
創作です