ビルの清掃
創作です
古い友人である川田氏と再会した折に聞いた話である。
筆者は大阪に住んでいるのだが、十代の終わりから二十代の前半までをミナミの近辺で過ごしていた。
これは今から十年以上前の、1999年辺りの出来事である。
当時、川田(仮名)氏と筆者はバイト仲間で、勤めていた飲食店の突然の閉鎖で互いに新しいバイト先を探すハメに陥っていた。
今と違ってネットの発達していない時代のこと。私と川田氏は求人情報誌と友達のツテを頼ることにしていた。
運よく清掃関係の仕事を見つけた筆者は間を置かずに職にありつけたのだが、川田氏はなかなか見つからない。筆者に触発されたのか彼は必死に清掃関係の職に面接に赴きようやく仕事にありついたということだった。
この後、筆者と川田氏の縁は途切れてしまうことになった。
先日、ひょんなことから共通の友人から互いの所在を知り、彼の消息不明時代の詳細を聴くことができたのである。
懐かしいミナミの居酒屋に現れた川田氏は当時の悪ガキっぽさを残したオッサンになっていた。
以下は川田氏の話を小説としてまとめたものである。
◆◆◆
夏の日のことだ。
海老が先に仕事を見つけたのは、先輩風を吹かしていた川田にとっては屈辱的なことだった。
これでは面目が保てぬと同業種でより良い条件のバイトを捜し続け、ようやくこれというものに出会った。
勤務地は大阪のMというオフィス街で、ビルの清掃整頓を二か月かけて行うというものである。
履歴書送付という面倒なことまで行って応募した甲斐があるというものだ。
面接ではスケジュールの空きと保証人をしつこく聞かれ、実家は何をしているだとかを根掘り葉掘りと聞かれた。川田は母子家庭で育っていたため、なんとなく実家の様子を探られているようで腹がたったという。
「母子家庭ってヤツで親戚もいてねっス。母親ともあんまり会うてないですわ」
苛立ちまぎれに言い放った。
不採用だと思っていたら、翌日携帯に採用の連絡があった。
仕事は簡単な内容で、朝の八時半にM町の事務所で鍵を受け取り、今は使われてない旧社屋に行って清掃を行う。
旧社屋は事務所から歩いて十数分の所にある古い四階建ての小さなビルだった。
「うわ、こら大変やわ」
入口のシャッターを開けると数年は人が使っていない有様で、営業課や経理課だとプレートの入った部屋には埃の積もった書類とダンボールが投げ出されている。
担当者の説明によると、まずは廊下とトイレを掃除して、鍵のかかっていない部屋に散らばっている書類はそこにあるダンボールに適当に詰め込んでいけということだった。
電気と水道は通っているので自由に使ってもよいが、防犯上の問題から外出する時は連絡を入れてくれとのことだ。
監督者はおらず、一人でこなさなければならない。夕方からは交代のバイトが来る。
夜勤を使ってでも二か月で終わらせるならもう一人昼間に入れればいいのに、と川田は思った。
絶対にやってくれ、と頼まれたことがもう一つ。
『階段の踊り場に電話があるので、鳴ったら必ず取ること』
確かに階段の踊り場には小さな棚に古めかしいプッシュボタンの電話機が置いてあった。
「俺が小学生くらいの時のやつやん」
なにはともあれ仕事だ。
八時半から四時半までこなしたら日給一万二千円が手に入る。皆勤で追加二万円。
破格のバイトである。
海老に自慢してやろうと想像すれば口元がニヤついた。
仕事は単純で、廊下の掃除とトイレ掃除も楽なものだ。
少し寂しいが、持ってきたラジカセでFM放送を流すとそれも気にならなくなった。
夕方になると担当者の言っていた夜勤バイトがやって来た。
川田は女の子がいいと思ったがやって来たのは四十歳くらいのオッサンでがっかりした。
「はじめまして、山野(仮名)です」
なんだかじめじめしたヤツだな、と見た途端に不快になった。
年は三十だと言っているが、服装も顔もどう見ても四十近いオッサンだった。
「それじゃ、これ鍵なんでおつかれさまでーす」
一緒に仕事をする訳でもないし、仲良くなる必要はないと思って世間話もとくにせずに交代したという。
M町はミナミに近く、アメリカ村を冷やかして帰るのは楽しかった。
その後も仕事は続いた。
朝は事務所で鍵を受け取り、帰りに山野に鍵を渡す。
山野と会うのはほんの数分だが、毎日顔を見るだけでうんざりする。
川田みたいな若者が怖いのかおどおどしているし、卑屈な愛想笑いを浮かべたりもする。川田の「一番嫌いなタイプ」だった。
さらに、川田を苛立たせる別の原因もあった。
仕事が進んでいないのだ。
川田がやって来たら整頓は昨日からほとんど進んでいない。
毎日掃除しているトイレだって、女子用の個室に尿の臭いが篭っている時すらある。
二か月の我慢、あんなのをぶん殴ったらワリのいいバイトがパーになる。
そう思ったものの、昨日整理した書類がぶちまけられていた時には堪忍袋の緒が切れた。
「おうコラぁオッサン。なんでお前仕事の邪魔しよるねや」
「あ、え、いや、ちがう」
「違うんやったらどないして部屋にゴミぶちまけとんねん。お、コラ」
山野の胸倉をつかみあげる。
「ちゃうて、キミも聞いてるやろ」
「何がやコラ」
「お化け出て仕事ならへんねん」
川田は最後まで聞かずに一発頬を殴った。
「なんで殴られなあかんねんな」
「アホなこと言うからや」
「キミもいとったら分かるわ。なんや女の笑い声とか聞こえんねん」
「お、まだアホ言いよるんかコラ」
「ちゃうって、もうちょっとおったら分かるから、ちょお待っとってえよ。コーヒー買ってくるから、な」
山野は言うが早いか外に駈け出していった。
この時、無視して帰らなかった理由は後年になっても分からない。
しばらくして山野は缶コーヒーを持って戻ってきた。
激情は収まったものの、山野への怒りは収まっていない。
「ほら、カフェオレでええ?」
「なんでもええ」
なんでこんなヤツとコーヒーを飲まないとけないのかと思った時、時計の針が五時を指した。
ジリリリリリリリリ。
終業を知らせるベルがビルに鳴り響いた。
「あっちや、奥のあっち見てて」
山野が指差すのは行き止まりトイレの向かいにある、資材室だ。鍵のかけられた部屋のはずである。
最初に言われていたとおり、鍵のかかったままの部屋は手をつけていない。初日に開かないのは確認している。
なのに、見ている傍でドアが開いた。
全身に鳥肌が立った。
資材室から出てきたのは髪の長いシルエットで、不思議とそれしか分からない人影のようなものだった。
人だとなんとなく分かるが、じっと見ていたら形が歪な気がするし、細部を確認できない。
「なんや、あれ」
「トイレ入りよるねん」
その女らしき影はトイレのドアを開けて入っていった。
「どないなっとるんや」
「アレ、出たり入ったりするし、たまにこっち向くねんよ。なんや見られてたら怖ぁて」
「あかん。山野さん叩いてごめん。俺、帰るわ」
「ちょお待って。もうちょっと一緒にいて」
「あかんて、帰るから。予定あんねん」
引き留める山野に鍵を押し付けて川田は逃げた。
最後に振り返った時、泣きそうな山野の後ろ。あの影がトイレから資材室へ戻るのが見えた。
どうしようか川田は考えたが、金が入らないのは困るし昼間は出ないだろうと考えて翌日も出勤した。
やはり、逃げ出さなかった理由は分からない。
朝からの作業は身が入らなかった。
事務所で鍵を受け取る時に話そうかとも思ったが、バイトをクビにされるかもしれないとついぞ言い出せなかった。
今日も山野が仕事を進めた形跡は無い。
毎朝トイレの掃除をしていたが、あんなものを見てしまうと恐ろしくて近寄れなかった。
身が入らず、何度もビルの外に煙草をやりに出かけた。
真夏のオフィス街にはスーツ姿の大人たちで賑わっていて、このビルのことがなんだかデキの悪いジョークのように思えた。
ふと入口を見ると、昨日まで無かったものがある。
盛り塩があった。
なんだか腹が立って盛り塩を蹴った。
一階は恐ろしくて触れないので二階から仕事をした。どうせ訪れる人もいないので廊下の掃除はやめて、部屋を片付けていく。
だらだらと時間が過ぎた。ほとんどサボっているのと変わらない。
二階から四階まで、部屋数は多かったがほとんどのドアは開かない。
まるで一階にいろと命令されているようでまた腹が立った。
電話が鳴ったら出ろというが、一度も鳴ったことがない。試しに受話器を上げて耳にあててみたが、音は鳴らなかった。壊れている。
四階まで上がるのに全ての電話機を試したが、全て壊れていた。
四階は全てのドアが開かない。階段を降りようとしたとき、ドアが半開きになっているのが見えた。
中を覗くと、そこは窓の無い小さな部屋だった。暗くてよく分からず電気のスイッチを捜す。古い蛍光灯は点灯を繰り返してから弱弱しい光を灯した。
「なんや、これ」
両の手の平に収まるほどの小さな壺が沢山置かれていた。
陶器の壺は全て同じ形式のもので、短冊に切られた半紙のようなもので封がされている。
封には人の名前が書かれていた。字は別に達筆でもなんでもない普通の字で、書かれた名前もごく普通の名前ばかりだ、どれ一つとして同じものはなかったが。
「あ、これ骨壺ちゃうか」
言葉にしたら恐ろしくなって、川田は逃げた。
とにかくこのビルにいたくない。
外はいつものオフィス街だった。
山野が来るまで外で待つことにした。
手持ちの煙草がなくなる夕暮れに山野はやって来た。
「昨日帰ったやん、ひどいで。めっちゃ怖かってんやから」
「いや、すんません。俺もうあかんから、すんません」
昨日殴った相手である山野に頭を下げたら、山野は困った顔をするだけだった。
「あ、さよか。やったらラジカセとかの私物だけ持ってかえろか」
「あ、はい」
正直なところ入りたくなかったのだが、ラジカセは捨てたくはなかった。
山野と一緒に中に入り、ラジカセを取る。
「それじゃあ、すいません」
「ん、ええよ。こっちこそ」
今度こそ出ようとした時、リリリリンリリリリンリリリンと古めかしい電話のベルが鳴り響いた。
「あ、え、電話や」
山野は階段の踊り場に向かって受話器を取ろうとしている。
「あかん、取ったらあかんっ」
「へ、なにが」
リリリンリリリンリリリリン。
四階までの電話機が全て鳴っていた。
山野が受話器を取ると全ての音が止む。
「山野さん」
山野は受話器を持ったまま口をもごもご動かしているが、何も声は聞こえてこない。
バタン、と奥からドアが開く音がした。
川田は振り返ることなく逃げ出した。
背後から女の笑い声が聞こえたが振り返らなかった。
翌日、バイト先の担当者から鍵を返せと連絡があった。
昼間に行くと言って日の高い内に出かけると、担当者が怒った顔で待っていた。
「明日からこなくていいから」
「はい、これ鍵です」
「キミのせいで台無しやで」
嫌味ったらしい口ぶりで言われた。これで縁を切ってなかったことにしようと思っていたが、何か言い返してやろうと思った。
「俺らのことどうしようとしてたんスか」
「はい、これ給料な。はよ帰って」
「ええかげんにせえやオッサン。山野さんどうなってん」
「彼はちゃんと仕事しとる。はよ帰り」
何を言っても無駄だと分かり踵を返す。
渡された給料袋の中身は、三万円ほど余計に計上されていた。口止め料かもしれない。
帰りにビルに行って山野の様子を確かめようとも思ったが、ロクなことにならなさそうな予感がして真っ直ぐ家に帰った。
◆◆◆
川田氏は話し終えると焼酎ハイボールを美味そうに飲み干した。
いやに不条理で嫌な話を聞いた。
それから先に何があったかを尋ねてみたが、後はその後のフリーター生活からいかにして今の地位を築いたかの武勇伝になった。
なんとなく憎めない人なのは当時と変わっていない。
ミナミの居酒屋もあの当時によく行っていたような店だ。安っぽい酒をピッチを上げて飲むのもあの日に戻った気がして楽しかった。
川田氏は店内の内線電話が鳴る度にびくりとして振り返っていた。
連絡先の交換を希望しても、電話は発信専用だと言ってこちらのアドレスを登録するだけに終わった。
「あれから、無言電話があんねん。携帯やといつまでたっても追いかけてくるやろ」
今現在、そのビルは焼け落ちてコンインパーキングになっているという。
バイト先の会社というのも実在したが、調べる気は一切無い。
これ以上関わる気も一切無い。
創作です