72.もう一度(1)
翌日は、久しぶりに『ハンプティ』へと向かっていた。
暗闇の中を歩いていたはずの心が日の光を感じていた。
外の空気がこんなにも清々しく、木々がキラキラと輝いていることを忘れていたのだ。
「気持ちがいいー」
実香は大きく伸びをしながら、大またで歩き続けた。
昨夜はなかなか眠りにつくことができなかった。
天馬の気持ちが嬉しくて、今まで事実を知りながらも、素直になれなかった自分が悔しくて仕方が無かった。
大切な時間を無駄に過ごしたのだ。
彼と、片時も離れたくないとあれほど思ってきたというのに。
目覚めは最高の気分だった。
着替えて階下へ下りると、いつも以上にテンションの高い両親が、実香を笑わせてくれた。
(私を心配してくれてたんだね。ごめんね)
バカを言って、まるで夫婦漫才のように娘を笑わせる。
たった一人の観客のために、元気のタネを植え付けようと、柿野家のボケと突っ込みは父が出勤するまで続くのだ。
(そうだった。私が小さい頃から、お父さんとお母さんは、泣いてる私を笑わそうと頑張ってくれていたんだ。こうやって、私は愛されてきたんだ)
実香は、両親に愛されていることを心の底から感じ、母に抱きついた。
何年ぶりかで娘に抱きつかれた母は、ビックリしながらも暖かく実香を抱きしめてくれた。
父は実香の頭を大きな手で撫でながら、そっとささやいた。
「実香……」
「なぁに?」
「……尻尾が生えてるぞ」
「あるわけないじゃない!」
この最高の場面にありながら、平気でそういうことを言ってくる父は、どこまでも実香を笑わせたいようだ。
しかし、さすがに二六歳の実香には効果がなかった。
それはそれで、笑えるのだが。
これが柿野家なのだ。
久しぶりに家族と過ごした朝は、心が落ち着くものだった。
「私はなんて幸せなんだろう。あんなに優しい両親に育てられて……。もっと、素直にならなくちゃ!」
そんな決意をした頃、ちょうど『ハンプティ』に到着したのだった。
綺麗に拭き上げられているはずの『ハンプティ』のドアは、実香が留守をしている間に汚れが目に付くようになっていた。
玄関周りの植え込みには雑草が生えている。
(これじゃ、閉店間近みたいじゃない。ダメだなぁ、店長)
元気よくドアを開け『おはようございます』と声を掛けると、店長と連がビックリしたように、実香に顔を向けた。
「大丈夫なのか?」
店長が実香の清々しそうな顔に安堵の色を浮かべながら、心配そうに聞いてきた。
「もう大丈夫です。心配かけてごめんなさい。今日からまた、よろしくおねがいします」
そう頭を下げると、『しょうがない、雇ってやるか』と笑っている。
「実香がいないと寂しいって言ってたくせに、よく言いますよね」
すかさず連が突っ込んできた。
今まで何年も店長を見てきているのだ、大概のことは察しがつく。
今までもバイト生が病気で休むと心配で仕方が無いようで、実香に『様子を見て来いよ』とか『見舞いに行ってもいいかな』と言っていたのだ。
まして、辞めたときなどは千尋のときもそうだったが、寂しくて仕方がないようだった。
それを表に出さないように本人は頑張っているらしいが、実香には面白いように分かった。
それゆえ、今回もかなり心配してくれていたであろうことは分かっていたのだ。
「店長! 私がいない間に、雑草は生えてるし、ドアは汚れてるし。あれじゃ、お客さんが来なくなりますよ!」
「連が掃除しないからいけないんだよ」
なんとも子供のようなことを言っている。
「店長がちゃんと指示をしないのがいけないんですよ」
連も負けてはいない。
「私が戻ってきたんですから、店を綺麗にしますよ。ほら、連君テーブルの上が雑然としてる。新聞も雑誌も整頓されてないじゃない。まさか、トイレも汚れてるなんてことないでしょうね! 私は店の外を掃除してくるから」
他にも目につくところは多々あるのだが、とりあえずこんなところで許してやるかと笑うと、『やっぱり実香はそうでなくちゃなー』とタバコを取り出した。
「店長―! タバコは外! 店内でタバコを吸うなんて、冗談じゃないわ!」
店長が「そうだそうだ、実香がいると店内は禁煙なんだった」と言いながら裏口から出て行った。
別段、店内が禁煙と言うわけではない。
お客がタバコを吸うことを拒否しているわけではないのだ。
しかし、厨房を預かる店長が、店内でタバコを吸うということが問題なのだ。
「私がいない間に、いろんなことが緩くなってない?」
連に聞くと、面白そうに笑っている。




